戸棚の中の骨 2

三塚 章

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崖の上のレストラン

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 潮の香りと冬特有のハッカの混じったような風が吹く。迫ってくる夕闇に抵抗するように、崖の上に立つレストランにはぽっちりと橙(だいだい)色の光が灯っていた。絶え間ない波の音は、その内にまで入り込んでいった。
 木の壁に塗ったニスは長い月日で褐色に変色し、あちこちに置かれたランプが、返って光の届かない物影を暗く見せる、そんなレストラン。テーブルは二つしかなく、今はたった一人しか客しかいない。
 擦り切れた袖の服を着た旅人は、ケチャップソースのスパゲッティをだらだらと口に運んでいた。仕事をなくし、暮らしを立てていくあても、頼れる者もなく、いっそこの世界から消えてしまおうかと辿り着いたのがここだった。これを食べ終わっても、払う金はない。もめ事の時間を延ばしたいのもあって、旅人は店主の老女に声をかけた。
「こんな所にレストランなんて、客は来るのかい?」
「いや、久々のお客さんだよ。前はこの辺りにも人がいたんだけどね。みんな出て行ってしまったよ」
「へえ、どうして婆さんはここを離れないんだ? ずっと一人でこの店を?」
 旅人は、もぞもぞと座り直した。ポケットの中の折たたみ式のナイフがイスに当たって、コトリと音を立てた。
「旦那がまだ帰ってこないからねえ。もう六十年も待っているんだよ」
 そう言って、老婆は重ねた年の割に澄んだ瞳を窓の外を眺めた。窓の外には紫がかった空が広がり、その下に黒い海が見えた。
 六十年も帰って来ないとは、どういう意味だろう。行方不明になったのか。
 怪訝そうな顔をした旅人に、老婆は少し笑ってみせた。
「旦那はね、採っちゃいけない物を採ったのさ」
 密漁か。
 海の恵みは、猟師達の命綱だ。そのために、ルールを破った者は何年も牢獄に入れられる事を旅人は知っていた。採った物や場所によっては、命で償うことがある事も。
「じゃあ、どうやって暮らしているんだい? こんな店じゃあ食っていけないだろう」
「ちょっとした金額をね、親が遺してくれたのよ」
「へえ」
 旅人は、なんとなく店の中を見回した。何か大切な物、例えば大金を隠しても、すぐに見つけられてしまいそうな小さな店。
 外は風が出てきたようだ。オオオ……と低いうなり声のような音が聞こえる。海鳴りという奴かも知れなかった。
「でもねえ、旦那は今日こそ帰って来るんだよ」
「連絡でもあったのか? いつごろ帰って来るって?」
 どこかあせったように旅人は言う。
「そういうわけじゃないけどね。分かるんだ。まあ、女の勘って奴だね」
「なるほど、女の勘ってのは歳とってても使えるもんなんだな」
 オオオ…… また風が鳴く。そしてはい回るような潮騒の響き。太陽が完全に沈んだのか、雲がかかったのか、窓の外が暗くなった。
 旅人は、ナイフをポケットから手の中に移した。店主に見えないよう、旅人は柄から刃を引き出す。
「ああ、ほら……」
 老女が窓を見つめ、うっとりと言った。
 窓の外には、星空が広がっていた。すぐ傍に並んで赤く輝く二つの星。いや、ただの星にしては近すぎる。
 滲んだ血のようなその輝きは、一対の目だった。黒い寒天のような、透明な影法師のような化物が、身を屈めるようにして窓から覗き込んでいる。両足を下の海へ浸し、両手を崖のへりにかけて。半透明の体には、白い星のような光がいくつも埋まって輝いていた。
「あんただね、あたしには分かるよ。どんなに姿が変わったってね」
 老女の瞳から涙があふれだした。
「バカな人だよ。あの日、病気だったあたしのために、聖域に神様の魚を採りにいったんだろう? あの日からあんたは今日まで帰って来なかった……」
 化物は、オオオ……と低い風のような、海鳴りのような声を出した。
 老女は枯れたような手を伸ばした。
「その姿が罰(ばつ)なんだね。神様に罰(ばち)を当てられて、化物にされたんだね。あたしを驚かすまいと、六十年間も家に帰るのを我慢してたんだろう。バカだね」
 窓からのぞく赤い目が、陽炎(かげろう)のように揺らめいた。
 そして、その目が旅人に向けられる。
 旅人の手の中にある凶器が銀色に光った。
「う、うわあああ!」
 旅人はナイフを振り回す。
 窓ガラスが突き破られ、冷たい風が吹き込んでくる。星空のような手の平が、ナイフごと旅人を覆い隠した。

 崖の上に、小さなレストランが建っていた。夜だというのになのに、漏れる明かりはない。ガラスが割れてしまったらしく、たった一つの窓が安い板でふさがれているからだ。まるで店の内の明かりも、ぬくもりも独り占めしようとしているように。
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