闇姫化伝

三塚 章

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黒龍 二

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「燐音」
 人影は、繰吟の名を呼んだ。今は偽名代わりに使っている、成人前の童名で。
 悲鳴をあげそうになって、繰吟は息を呑む。吐き気に耐えるように口を押さえ、嫌な咳をした。喉が熱い。口から胃まで、溶けた鉄を流し込まれたようだった。
 玲帝の顔は蒼白く、頬はこけていた。唇から、一筋真紅の血が流れる。そして、その薄い胸には、腕の太さほどもある鉄の杭がいくつも突き刺さっていた。紫の衣が半分赤く染まっている。
 繰吟が瞬きをした次の瞬間には、帝の姿は消えていた。帝が立っていた所で牙を剥き出しているのは、さっきと同じ小龍。しかし、それも今の操吟には目に入らなかった。
 いつの間にか繰吟は涙を流していた。玲帝の姿が見えたとき、兄の記憶が流れこんできた。
 さっき覚えた喉の違和感は、帝が毒を飲んだときの記憶が流れこんできたのだろう。そのときの玲帝の想いも頭の中に入り込んできた。何が起こったのかという不安、そして毒を盛られたと知った恐怖。手を下した者への怒り。そして、その者が繰吟の部下だったという驚き。それはつまり、命じたのが他ではない、燐音であるという……
「うわあああ!」
 燐音は頭を押さえ、悪い夢を振りほどこうと首を振った。流れ込んできたのが憎しみだけならまだ良かった。燐音に対する憎しみに、今にも消えそうなほどほんのわずかに許しの念が交じっている。
 繰吟に殺されたと思いながら死んだ兄。繰吟を恨んでいながら、罪を許そうとしていた。自分亡き後の心配までしていた。その憎悪も、いたわりも、両方偽りのない本心だろう。
「兄上、都を呪う依代にされているのか。蛙や毒虫のように」
 玲帝は繰吟を許してくれていた。それなのに魂に杭を打たれ、憎しみを無理にかきたてられ、死してなお安らぎを得られていない。繰吟の涙は止まらなかった。
「繰吟様!」
 脳を貫き、右耳から左耳に抜けるような不快な金属音で、操吟は我に返った。
「何事ですか、操吟様!」
 いつの間にやって来たのか、舞扇が操吟の前に立ち、襲ってきた龍を刀が止めていた。舞扇は一度さがって間を取ると、横なぎに刀を一閃させた。
 ヘドロのようになったヒルコは、ぼたぼたと廊下の床に落ちた。そして蒸発するように消えていく。カチリという音がして、鏡が落ちた。
「操吟様。これは一体」
 突然の事で驚いたのか、舞扇は乱れた息を整えようとしていた。
「あれは、鏡に宿った兄の記憶だ。ヒルコに兄の鏡を――」
 説明する自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「あれは……。あれは、帝の恨みが込められた荒ぶる神だったのですか」
 うつむいたまま、舞扇は操吟と視線を合わせようとしなかった。まるで何かの病の発作が出たように、舞扇は震えていた。
「舞扇?」
 ひどく怯えているような、傷ついているような舞扇の様子に操吟は不安になった。
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