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07,敗走と追い打ち
しおりを挟む呪歌を歌えば炎が湧き上がる。
巫字を刻めば水が踊り狂う。
大儀式を行えば海が割れ、地は砕け、空すらも堕ちる。
それが【魔術】。
神々の時代には在り、人々の時代にて失われた御業。
正直言って、話に聞くだけでは「へー、すごそうだね」以上の感想は出なかった。
結局の所、魔術に関する事は「そう言うモノも在った」と言う雑学的知識。それ以上の価値もそれ以下の価値も無い。
そんな認識でしかなかったから。
自分に関係無い偉業や神秘に前傾姿勢になれる者は少ないだろう。
そして僕は今、切に思っている事がある。
――ああ、魔術よ。できれば永遠に「僕には関係無い偉業や神秘の類」であって欲しかった、と。
「う、うおぉああああああ!?」
「叫ぶ余力があんならそれも足に回しなさい、このスカタン!!」
まったく以てジュリの言う通りだ。
だがしかし、この状況でそこまで冷静に努められる君が素晴らしく優秀なのであって、僕には少々荷が重い。
見てくれ、変化の魔術で髪を鳥の翼に変えて青空を舞い踊る純白の麗人。
虚空を踏みしめて走る土色の兎に草色のオオカミ、水でできた熊。
薄緑色に輝きながら森中を駆け巡る発光球体。
傍から眺める事ができれば、これほどに幻想的な状況も無い。
目下最大の問題は、「それらすべてが殺意を持って僕達を追いかけてきているため、傍から眺める余裕など皆無」と言う事だ。
ジュリが虚空を駆ける模造動物達を撃ち落としても、髪の翼で空を行くブルムハートが次々にルウンを飛ばし、自然物を模造動物に変えて補充していく。
発光球体は衝撃を受けると膨大な爆風と爆炎を噴き上げると言うのをついさっき体験したのでノータッチが懸命。
今、僕達にできる事は、延々と補充され続ける模造動物達や触れるな危険の発光球体の群れから、走って逃げるだけ。
「チッ……!!」
先程から、隣を走るジュリの舌打ちが断続的に聞こえてくる。
おそらく「あぁぁもうッ!! イライラする!!」と叫びたいレベルでストレスが溜まっているのだろう。僕が知る限りのイメージで言えば、ジュリは撤退嫌いの勇猛タイプだ。逃げるしかない現状が業腹この上ないと言う心境だろう事は容易に察せられる。
僕だって、長距離走は苦手ではないだけで好きでもない。一刻も早い現状打破を渇望している所だけれど……一体、どうすれば良い?
頼りの聖剣は封じられたまま、封印を解除する方法は不明。
「……逃げて、どうすると言うのです?」
不意に、頭上まで追いついてきたブルムハートが問いを投げかけてきた。
「魔王を倒す? 殺す? 暗殺する? 絶対に無理ですよ、それは。例え聖剣が万全であったとしても」
「え……?」
「無視! 体力の無駄!!」
確かに、この状況、意味深な言葉で僕達の心を揺さぶり足を弱める算段であると考えるのが妥当。
しかし、ブルムハートは僕達の前に現れた時から、魔王を殺すのは無理だと言っていた。
もしかして、何か根拠があるのではないだろうか。
僕達が知らない、魔王の何かが、その根拠なのでは……?
……いや、でも、ブルムハートがそれを僕達に示唆するメリットなんてないし、考え過ぎか……?
「……ではひとつだけ、お伝えしておきます。貴方達が殺そうとしている魔王の名は、【ファヴニル】」
……ファヴニル?
どこかで、聞いた名前の様な気が………………
「……極竜魔王……!?」
――極竜魔王ファヴニル。
かの英雄が退治した、伝説の邪竜。
「そんな馬鹿な! だって極竜魔王は英雄が討ち払ったって……」
「構うなって言ってんでしょうがダボスケ!!」
「で、でも……」
「例え戯言じゃなかったとしても、誰が魔王だろうと殺す事には変わんないんだから!!」
「……そうですか。ファヴニルの名を聞いても諦めませんか。では」
「ッ!?」
なッ、発光球体が、大きく、しかも、急に加速して……!?
「手心、抜きますね」
◆
周囲はすっかり闇の帳が降り、枝葉の天井の隙間から僅かに漏れる月明かりだけが唯一の頼り。
「へくちッ」
ジュリが、珍しく女の子らしい声をあげる。
くしゃみだ。まぁ、冷えるしね。特に、ビショ濡れの服を着ている現状、森の夜冷えは殺人的だ。
「……上着、要る?」
「意味無い。あんたが着てなさい」
ああ、だろうね。僕の上着もビショ濡れだ。羽織らせた所でひんやりしてて重いだけだろう。
一応、訊いただけだ。
……それにしても……
「……酷い目に遭った……」
でもまぁ、こうして寒さに構って溜息を吐ける余裕があるだけ、不幸中の幸いだと言えるのかも知れない。
――ブルムハートは、どうやら手を抜いて僕達を追跡していたらしい。
自身の力を見せつけ、ファヴニルと言う伝説級の名を聞かせれば諦めて抵抗をやめるだろう。そんな風に考えていたのかも知れない。
しかし、僕達はそれでもなお走り続けた。
だからブルムハートは本気を出してきた。
力づくで僕達の抵抗を止めに来た。
無数の発光球体の出力を上げ、一斉に炸裂させたのである。
冗談にしても酷い。そんな感想しか抱けない威力だった。
まさか、つい先程ナウディアーを天の星になるまで吹き飛ばしたのに、今度は僕達が天の星になるとは。
幸い、爆撃が直撃した訳ではないので怪我は無かったが、落下地点が底の深い川でなければ普通に死んでいただろう。
まぁ、その川も中々の激流で日が暮れるまで二人して下流に運ばれ続けると言う不幸中の幸い中の不幸もあったが。
で、ようやく流れが緩やかな場所に漂着し、陸に上がって森の中へと身を隠した……と言うのが、現状だ。
「あのドレス女が追ってくる気配は無いけれど……」
流石に疲労の色を滲ませた表情で、ジュリが僕の腰の方へと視線を投げてきた。
何を気にしているのかはわかる。聖剣の現状だろう。鞘から引き抜き、確認してみる。
「……駄目だ」
ブルムハートは撒けた。
だが、奴に刻まれた聖剣の封印は、健在。
薄闇の中、聖剣の太い白刃に絡みつく様に、緑色の文字列が淡く点っている。
「……チッ……まぁ良いわ。今はこのクソ寒い現状をどうにかしましょう。聖剣を抜きにした魔王暗殺の手を模索するのは後よ」
「……君は、すごいな」
火を起こすためだろう、枯れ枝や落ち葉を集め始めたジュリに、僕は感心せざるを得ない。
まだ、魔王を倒すモチベーションがある、そんな彼女に、敬服を通り越して呆れすら覚える。
「何か、言いた気ね」
「……楽観主義のつもりはなかった。でも、無知が過ぎた」
魔王なんて所詮、魔物を率いているだけで、魔物である事には変わり無い。
そんな認識だった。魔物なら銃で撃ち殺せる、剣で斬り殺せる、人によっては素手でだって殴り殺せる。少し強めの野獣でしかない。
そんなものだと聞いていたから、そんなものだと思っていた。
だが現実は違った。
魔物はその通りだったが、魔物の将には銃弾は効かない。普通の剣でも殺せはしないだろう。素手で殴りかかるなんて悪ふざけだ。
そして、魔王は……あの極竜魔王?
御伽噺と言うのは、基本的に悪役を良くは描かない。
それだのに、その御伽噺の中でも、極竜魔王は英雄を追い詰めた。英雄を苦しめた。
結局、英雄は魔剣を犠牲にすると言う荒業を用いなければ奴を退治する事はできなかった。
現実はどれ程の苦戦を強いられたのだろう……などと、想像したくもない。
ブルムハートが見せつけた魔術と言う超大な力……あれを内包する魔剣に加えて、この聖剣まで持っていた英雄が、苦戦して、どうにか討ち払ったはずの敵が、極竜魔王ファヴニルなんだ。
ブルムハートが「聖剣だけでは殺せない」と断言するのも当然だろう。
そしてその聖剣すら、この様。
「はっきり言うよ……ジュリ。僕はもう、諦めるべきだと思う」
このままでは、魔王を暗殺に行くのではなく、ただ死にに行くだけだ。
軟弱者がと酷く罵倒されても良い。
良いから行くぞと銃口を突きつけられても良い。
いっそ、一発か二発なら撃たれたって良い。
それでも良いから、帰ろう。
僕が死にたくないと言うのは当然。
いくら君の様な粗暴で滅茶苦茶な子でも、むざむざ死にに行こうとしているのを看過はできない。
正直に言おう、ぶっちゃけ僕は君のそのすぐに引き金を引く短慮さと性癖にはうんざりしている。
でも、死ねば良いだなんて欠片も思わない。
極短い時間ではあるけれど、行動を共にし、いくらか言葉を交わしてわかった事がある。
君は確かに頭クレイジー気味だが、「無為な殺生はしない、仕留めた獲物を無駄にはしない」と言う良識は持ち合わせている。狩猟を趣味としていても、決して生命を軽んじている訳ではない。
君は確かに口汚く言葉使いに淑女の品格なんて微塵も無いが、君の罵声には叱咤や激励のニュアンスが多く含まれている。印象的――つまりは脳に届きやすい即効性のある言葉を選んでいるに過ぎない。
君は、第一印象ほど狂ってはいなかった。「少々奇特な少女」と形容できる程度の異質――それはまぁ、個性と呼べる範疇だ。
君がもし、処刑台の階段を踏みしめて登る死刑囚なら、その死に向かう足を止める義理は無い。だが違う。
少々奇特なだけ、そう言う個性を持っているだけの少女が手の込んだ自殺に臨む姿を見て、看過できるはずがない。
「御願いだ。一緒に帰ろう」
「…………………………」
意外な事に、罵声も銃声も無かった。
ジュリはただ、悔しそうに唇を噛んで、黙りこんでいた。
……わかって、いるんだ。
ああ、そうだろうさ。君は、少々狂気的ではあるが、愚劣ではない。
ここまでの情報を整理して、僕と同じ結論を導き出せないはずが無い。
「……あんたは、それで良い訳……?」
振り絞る様な問いかけだった。
「アタシと政略結婚なんて、それで良いって言うの……!?」
「それは嫌だよ。でも、死ぬのはもっと嫌だ」
それに、君を死なせるのも嫌だ。
ひとつの嫌か、ふたつの嫌か。
それなら、どう考えてもひとつの嫌で済む方がマシだ。
諦めるのか、妥協するのかと、またあの時の様に僕の胸を突き刺せば良い。
それでも僕は、この選択を撤回するつもりはない。
僕は死にたくない。
君も死なせたくない。
僕の言っている事は、そんなにおかしいのか?
希望がある様に思えたから、僕は君の計画に乗った。
しかしその希望は潰えた。だから僕は降りる、君も止める。
何か僕は間違っているのか?
やれそうな事に挑戦した。
でも駄目だったから諦める。
それはそんなにも、受け容れ難い事なのか?
「そんなに僕と結婚するのが嫌だと言うのなら、もっと別のやり方があるはずだ。だから……」
「あんたが嫌なんじゃない、政略結婚ってのが嫌なのよ」
この暗殺旅行の中で多くの無能を晒した僕が君に嫌われていないと言うのは少々意外だが、悪い事ではない。その事実は有り難く思っていよう。
だがそれはそれとして、だ。
「政略結婚自体を回避する方法だって、他にあると思う。必要なのは両国の要人が結婚すると言う事実なんだから。僕と君である必要性は無い。僕と君が揃って、それこそ命懸けとも思える様な抵抗すれば、もしかしたら別の縁談が出るかも知れない」
多くの人に迷惑をかけてしまう事にはなる。
多くの人を困らせてしまう事になる。
不本意なのはわかる。政治的責任を放棄するなど貴族として論外だと叫びたい気持ちもわかる。
だがしかし、このまま僕達が生命を捨てに行って戻らなければ、同じ……いや、それ以上の事になる。
もっともっと多くの迷惑をかける結果になるだろう。
もっともっと多くの人を困らせてしまう結果になるだろう。
欲しいものは手に入れる? 結構。
諦観や妥協は好みではない? 結構。
だが、世の中にはどうしようと手に入らないものはある。
世の中にはどうしても諦め、妥協しなければならない事がある。
君も貴族の生まれなら、多少くらいはわかるはずだろう。
これはもう、どうしようもないんだ。
「……わかった。わかったわ」
「!」
なら……
「聖剣をよこしなさい。そんな様でも無いよりはマシよ」
「なッ……」
「アタシは独りででも、魔王を倒しに行く」
……冗談にしては目が本気だ。
つまり、そう言う事だろう。
つくづく、君の行動と言動には正気を疑う。
「……放っておけるとでも、思っているのか!?」
もはや、紳士的な行動だの、貴族としての矜持だの、なんて話じゃあない。
ひとりの人間として、ジュリを独りで行かせる事などできはしない。
……でも、「一緒に行く」などと言える甲斐性も、僕には無い。
だからこうして説得を試みていると言うのに……あッ。
「ちょ、ジュリ!?」
不意を突かれ、聖剣をひったくられてしまった。
「いい加減に……」
「別に、恥じる事は無いわよ」
「!」
「相手は伝説の極竜魔王。それにあのドレス女に、三魔将と言う事は少なくともあと一匹、魔物の将がいる。そりゃあ、足がすくんで当然。あんたにそこまで高望みしちゃいないわ。帰りたいなら、帰りなさい。独りでね。あとはアタシがやっておくから」
……ッ……!
「君だって、震えているじゃあないか……!」
「……ええ、そうね。そうよ。当然でしょ。だから、あんたを責めるつもりは無いわ」
……ああ、そうか、そうなんだ。
彼女は理解している。無謀に立ち向かう事に、どれだけの勇気がいるのかを。
彼女はわかっているんだ。その勇気を、実際に振り絞っているから。
その上で、行くと言っている。
もはや、理屈などではない。そんな次元の、度し難い決意。
そんなの、一体どんな理屈を持ち出せば止められるって言うんだ……!?
――……もしもここで、「なら、僕も行く」と言えたら、どれだけ格好良いだろう。
彼女の震える腕を掴みあげ、その指の間にこの指を通して堅く交わして、「この手は絶対に離さない。君だけを行かせる事はできない」と言えたら、どれだけ理想的だろう。
それを理解していながら、実行できない僕は、なんて格好悪いのだろう。
でも、格好良さを優先して生命を投げ出す事は、果たして正解なのか。
「……僕は……」
僕は、何と言えば良い。
何をどうすれば良い。
声を上げる前に、思考すらまとめる事ができない。
混乱に、頭の中が茹で上がる様な感触を覚え始めた丁度その時、
「……え?」
◆
――ジュリに理解できたのは、ローの背後に一筋の紅い何かが流星の如く落下した事、ただそれだけ。
その後は、何もできずに、凄まじい衝撃に吹き飛ばされた。
「ぃ……何が……」
土煙が幕を展開する中、ジュリは身を起こそうとしたが、何か重い物が上に覆いかぶさっていた。
妙に温かい、土砂や木などではない。
一体何だ、と、確認してみれば……
「ッ」
目の前には、目を回して失神しているローの顔。どうやら、飛んできた石にでも頭を打たれたらしい。
あわや唇がかする寸前と言う顔面距離。
ローの吐息が唇に当たり、少量、口内へと吹き込んできた感触を理解した瞬間、ジュリは目を剥いた。
「ほ、ほ、ほぁぁああああああああああああああッ!!」
ほとんど反射。
顔面を真っ赤に染めたジュリは、全力の蹴りを放って自身に覆いかぶさるローを吹っ飛ばした。
「ひ、ひぃ、ひぃー……あ、いや、今のは照れたとかではなくて、そして拒絶の意思とかでもなくて、いきなりの事に驚いただけで……!!」
「随分と元気な娘だな」
「!」
不意に響いたのは、まったく聞き覚えの無い声。
印象は中年男性のそれ。低音気味で、落ち着きがある。
その声の印象に違わぬ髭面の大男が、ジュリ達から少し離れた場所……先程までは無かった大穴の中心に、立っていた。
鮮血で染め上げた様な紅蓮のローブに身を包み、黒い色付きレンズの眼鏡をかけこなすその大男は、ジュリと視線が交差したのを合図に、跳んだ。
大柄な体格には見合わない身軽さで、大穴の縁に降り立つ。
「……!」
何よあんた、などとは問わない。
気配でわかる。見た目は人間だが、人間ではない。
「手前は真紅のヴティア。王下三魔将。わかりやすく言うと、魔物の将だ。して、何故こんな所に人間の気配を感じるのかと思えば……これは良い。君が持っているそれは、聖剣だな」
「!」
「手前は聖剣とそれを持つ者を王の御前へ連れて行く使命がある。王は遊んで来いと仰られていたが……」
やれやれと言った様子で溜息を吐きながら、ヴティアは自前の剛毛質な顎髭を指で撫ぜる。
「手前は生憎と、無趣味な性質でな。娯楽の意義と言うものを、よく理解できん。それに、王に献上するなら万全の状態が好ましい。素直に付いて来てくれると、嬉しいのだが」
「ッ……!」
ジュリは察する。
ヴティアの身のこなし、まるで極みに至った武人の様な風格を感じる。
まともに戦おうとすれば、聖剣を構える前、いや、立ち上がろうとした瞬間に、首をねじ切られて、終わる。
抵抗すれば……いや、抵抗の意思を見せれば、終わる。
しかし、大人しくしていても結果は……
「ああ、そうだ。では取引など合理的ではなかろうか」
「……取引……?」
「そこに転がっている男は仲間か夫か……定かではないが、とにかく君の知人だろう?」
ヴティアが顎で指したのは、ジュリに蹴り飛ばされて地面に転がっているロー。意識は未だ闇の中、ピクリとも動く気配は無い。
「本来ならば魔物の性に則り、とりあえずで殺しておく所だが……特別にそれはやめよう。そこの男は見逃そう。だから君は、手前と来い」
「………………!」
「来ない場合は……まぁ、言わなくてもわかるな?」
応援ありがとうございます!
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