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第10話
「……んぅ……」
重い。
金縛りだろうか。それとも、またスライムに襲われている夢だろうか。
俺、三上薫は、全身を圧迫する心地よい重みと熱気の中で意識を浮上させた。
「……おはよう、薫」
耳元で、低く甘い声がした。
目を開けると、視界いっぱいに男の顔があった。
整った鼻筋、長い睫毛、そして深海のような碧眼。
ガルド・ベルンシュタインだ。
「……おはようございます。……近い、です」
「動くな」
ガルド様は俺を抱き枕のように四肢で絡め取ったまま、布団の中で顔を寄せた。
「……寝起きの君は、最高だ」
「は?」
「一晩かけて熟成された体臭……。寝汗を含んだパジャマ……。そして、無防備に緩んだ口元から漏れる吐息……」
ガルド様が俺の首筋に鼻先を埋める。
冷たい鼻先が、寝起きで火照った肌に触れてヒヤリとする。
「スゥーーーーーーーーッ…………」
部屋中に響くような、深呼吸の音。
ガルド様は俺の鎖骨のくぼみに溜まった空気を、残さず肺に取り込もうとしていた。
「んんッ……! ……あぁ……キマる……!」
「朝から変な声出さないでください! 変態!」
「褒め言葉だ」
ガルド様は俺の抵抗など意に介さず、さらに強く抱きしめた。
「これが俺の朝の習慣だ。……これを吸わないと、一日が始まらない」
「ニコチン中毒よりタチが悪いですよ……」
「ニコチンなど不要だ。君のフェロモンだけで、俺の脳は覚醒する」
結局、俺は二度寝を許されず、三十分ほど「人間吸入器」としての務めを果たさせられた。
◇
「三上薫様! おはようございます!」
ダイニングルームに入ると、二十人ほどのメイドと執事が整列していた。
全員、なぜかハンカチで目元を拭っている。
「……えっと、おはようございます?」
「おお……! なんと素晴らしい朝でしょう!」
白髪の老執事が、震える手で俺の手を握りしめた。
「旦那様が……旦那様が、朝から壁を殴らず、使用人を怒鳴り散らさず、こんなに穏やかな顔で起きてこられるなんて……!」
「セバスチャン、大袈裟だ」
ガルド様が席に着きながら苦笑する。
いや、大袈裟じゃないらしい。以前のガルド様は、魔力中毒の頭痛で毎朝不機嫌を極め、屋敷の壁を破壊するのが日課だったとか。
「薫様、あなたは我々の救世主です。…… こちらにどうぞ、朝食の準備ができております」
出された朝食は、王侯貴族の晩餐会かと思うほどの豪華さだった。
厚切りのベーコン、ふわふわのオムレツ、そして山盛りのフルーツ。
「さあ、薫。口を開けろ」
「自分で食べますって」
「駄目だ。君の手は箸より重いものを持つ必要はない」
ガルド様は俺の膝の上にナプキンを敷き、当然のように「あーん」を強要してくる。
使用人たちが見守る中、俺は恥辱にまみれながらパンを咀嚼した。
「……うまいか?」
「……美味しいです」
「そうか。もっと食え。バターも塗れ」
ガルド様が目を細める。
「君は痩せ過ぎだ。もっとカロリーを摂取して、皮下脂肪を増やせ。……脂肪は匂いを閉じ込める最良の断熱材だからな」
「結局そこですか!」
「丸々と太った君の腹に顔を埋めて、窒息するのが俺の夢だ」
「通報案件ですよそれ!」
セバスチャンが「旦那様、お戯れを」と笑っているが、目は笑っていなかった。
ここの住人、全員感覚が麻痺している。
◇
食後の着替えタイム。
ここでも、俺の自由意志はなかった。
「今日はこれだ」
ガルド様が差し出したのは、仕立ての良いシルクのシャツと、ダークグレーのスラックス。
そして、首元にはスカーフ。
「あの、これ……ガルド様の匂いがすごいんですけど」
「当然だ。俺が三日間抱いて寝たスカーフだからな」
「中古品じゃないですか!」
「プレミア品と言え」
ガルド様は俺の首にスカーフを丁寧に巻き、結び目を整えた。
「これを巻いておけば、悪い虫も寄ってこない。『この獲物は捕食済み』というマーキングだ」
「今すぐ外したい…」
「ダメだ」
ガルド様は満足げに俺の全身を見回すと、最後に俺の手首を掴んだ。
シュッ、と香水が吹きかけられる。
ムスクのような、重厚で色気のある香り。ガルド様が愛用しているものだ。
「……よし。これで、君から俺の匂いがする」
ガルド様は俺の手首に口付け、ニヤリと笑った。
「行ってきますのキスだ、薫」
「……行ってきます」
俺は真っ赤になりながら、ガルド様の後ろをついていくしかなかった。
悔しいが、この香水の匂いは……嫌いじゃなかった。
◇
「出勤だ!」
屋敷の前に待機していたのは、馬車というより装甲車だった。
鉄板で補強され、窓ガラスは防弾仕様。
馬ではなく、アースドラゴンが二頭繋がれている。
「これに乗るんですか? ギルドまで徒歩十分ですよ?」
「君の安全が最優先だ」
乗り込むと、中は広々としたソファ席になっていた。
ガルド様は俺を隣に座らせる……こともなく、当然のように自分の膝の上に座らせた。
「狭いです」
「揺れるから危ない」
「アースドラゴンは揺れません!」
ガルド様は俺の腰に手を回し、俺の肩に頭を預けた。
「……ハァ。仕事に行きたくない」
「さっきまでの元気はどこへ?」
「君と一日中、ベッドの中で『深呼吸大会』をしていたい」
「そんな大会ありません」
ガルド様は俺の髪の匂いをスゥーッと吸い込むと、目を閉じた。
「……薫。今日の夕飯は何がいい?」
「……ハンバーグ」
「わかった。最高級の肉を用意させよう」
完全に、新婚夫婦の会話だった。
揺れる馬車の中、俺は諦めてガルド様の胸に背中を預けた。
窓の外では、王都の人々がこの厳つい馬車を見上げて「英雄様のご出勤だ」「中に愛人が乗ってるらしいぞ」と噂しているのが見えた。
もう、どうにでもなれ。
俺の平穏な日常は死んだ。
ここにあるのは、英雄による異常な溺愛と、それに慣らされつつある社畜の新しい日常だけだ。
「……ガルド様、着きましたよ」
「チッ。早いな」
ギルドの前に到着すると、ガルド様は不機嫌そうに俺を降ろした。
だが、その手は俺の手をしっかりと握ったまま離さない。
まるで、宝物を誰にも奪われないように。
「さあ、今日も働くか。……俺の『酸素』のために」
その横顔は、悔しいほどカッコよかった。
俺は小さくため息をつき、その大きな手を握り返した。
重い。
金縛りだろうか。それとも、またスライムに襲われている夢だろうか。
俺、三上薫は、全身を圧迫する心地よい重みと熱気の中で意識を浮上させた。
「……おはよう、薫」
耳元で、低く甘い声がした。
目を開けると、視界いっぱいに男の顔があった。
整った鼻筋、長い睫毛、そして深海のような碧眼。
ガルド・ベルンシュタインだ。
「……おはようございます。……近い、です」
「動くな」
ガルド様は俺を抱き枕のように四肢で絡め取ったまま、布団の中で顔を寄せた。
「……寝起きの君は、最高だ」
「は?」
「一晩かけて熟成された体臭……。寝汗を含んだパジャマ……。そして、無防備に緩んだ口元から漏れる吐息……」
ガルド様が俺の首筋に鼻先を埋める。
冷たい鼻先が、寝起きで火照った肌に触れてヒヤリとする。
「スゥーーーーーーーーッ…………」
部屋中に響くような、深呼吸の音。
ガルド様は俺の鎖骨のくぼみに溜まった空気を、残さず肺に取り込もうとしていた。
「んんッ……! ……あぁ……キマる……!」
「朝から変な声出さないでください! 変態!」
「褒め言葉だ」
ガルド様は俺の抵抗など意に介さず、さらに強く抱きしめた。
「これが俺の朝の習慣だ。……これを吸わないと、一日が始まらない」
「ニコチン中毒よりタチが悪いですよ……」
「ニコチンなど不要だ。君のフェロモンだけで、俺の脳は覚醒する」
結局、俺は二度寝を許されず、三十分ほど「人間吸入器」としての務めを果たさせられた。
◇
「三上薫様! おはようございます!」
ダイニングルームに入ると、二十人ほどのメイドと執事が整列していた。
全員、なぜかハンカチで目元を拭っている。
「……えっと、おはようございます?」
「おお……! なんと素晴らしい朝でしょう!」
白髪の老執事が、震える手で俺の手を握りしめた。
「旦那様が……旦那様が、朝から壁を殴らず、使用人を怒鳴り散らさず、こんなに穏やかな顔で起きてこられるなんて……!」
「セバスチャン、大袈裟だ」
ガルド様が席に着きながら苦笑する。
いや、大袈裟じゃないらしい。以前のガルド様は、魔力中毒の頭痛で毎朝不機嫌を極め、屋敷の壁を破壊するのが日課だったとか。
「薫様、あなたは我々の救世主です。…… こちらにどうぞ、朝食の準備ができております」
出された朝食は、王侯貴族の晩餐会かと思うほどの豪華さだった。
厚切りのベーコン、ふわふわのオムレツ、そして山盛りのフルーツ。
「さあ、薫。口を開けろ」
「自分で食べますって」
「駄目だ。君の手は箸より重いものを持つ必要はない」
ガルド様は俺の膝の上にナプキンを敷き、当然のように「あーん」を強要してくる。
使用人たちが見守る中、俺は恥辱にまみれながらパンを咀嚼した。
「……うまいか?」
「……美味しいです」
「そうか。もっと食え。バターも塗れ」
ガルド様が目を細める。
「君は痩せ過ぎだ。もっとカロリーを摂取して、皮下脂肪を増やせ。……脂肪は匂いを閉じ込める最良の断熱材だからな」
「結局そこですか!」
「丸々と太った君の腹に顔を埋めて、窒息するのが俺の夢だ」
「通報案件ですよそれ!」
セバスチャンが「旦那様、お戯れを」と笑っているが、目は笑っていなかった。
ここの住人、全員感覚が麻痺している。
◇
食後の着替えタイム。
ここでも、俺の自由意志はなかった。
「今日はこれだ」
ガルド様が差し出したのは、仕立ての良いシルクのシャツと、ダークグレーのスラックス。
そして、首元にはスカーフ。
「あの、これ……ガルド様の匂いがすごいんですけど」
「当然だ。俺が三日間抱いて寝たスカーフだからな」
「中古品じゃないですか!」
「プレミア品と言え」
ガルド様は俺の首にスカーフを丁寧に巻き、結び目を整えた。
「これを巻いておけば、悪い虫も寄ってこない。『この獲物は捕食済み』というマーキングだ」
「今すぐ外したい…」
「ダメだ」
ガルド様は満足げに俺の全身を見回すと、最後に俺の手首を掴んだ。
シュッ、と香水が吹きかけられる。
ムスクのような、重厚で色気のある香り。ガルド様が愛用しているものだ。
「……よし。これで、君から俺の匂いがする」
ガルド様は俺の手首に口付け、ニヤリと笑った。
「行ってきますのキスだ、薫」
「……行ってきます」
俺は真っ赤になりながら、ガルド様の後ろをついていくしかなかった。
悔しいが、この香水の匂いは……嫌いじゃなかった。
◇
「出勤だ!」
屋敷の前に待機していたのは、馬車というより装甲車だった。
鉄板で補強され、窓ガラスは防弾仕様。
馬ではなく、アースドラゴンが二頭繋がれている。
「これに乗るんですか? ギルドまで徒歩十分ですよ?」
「君の安全が最優先だ」
乗り込むと、中は広々としたソファ席になっていた。
ガルド様は俺を隣に座らせる……こともなく、当然のように自分の膝の上に座らせた。
「狭いです」
「揺れるから危ない」
「アースドラゴンは揺れません!」
ガルド様は俺の腰に手を回し、俺の肩に頭を預けた。
「……ハァ。仕事に行きたくない」
「さっきまでの元気はどこへ?」
「君と一日中、ベッドの中で『深呼吸大会』をしていたい」
「そんな大会ありません」
ガルド様は俺の髪の匂いをスゥーッと吸い込むと、目を閉じた。
「……薫。今日の夕飯は何がいい?」
「……ハンバーグ」
「わかった。最高級の肉を用意させよう」
完全に、新婚夫婦の会話だった。
揺れる馬車の中、俺は諦めてガルド様の胸に背中を預けた。
窓の外では、王都の人々がこの厳つい馬車を見上げて「英雄様のご出勤だ」「中に愛人が乗ってるらしいぞ」と噂しているのが見えた。
もう、どうにでもなれ。
俺の平穏な日常は死んだ。
ここにあるのは、英雄による異常な溺愛と、それに慣らされつつある社畜の新しい日常だけだ。
「……ガルド様、着きましたよ」
「チッ。早いな」
ギルドの前に到着すると、ガルド様は不機嫌そうに俺を降ろした。
だが、その手は俺の手をしっかりと握ったまま離さない。
まるで、宝物を誰にも奪われないように。
「さあ、今日も働くか。……俺の『酸素』のために」
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俺は小さくため息をつき、その大きな手を握り返した。
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