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終
「――はい、ここの決裁印をお願いします」
「……スゥーッ……。ふむ、受理しよう」
王都ギルド、英雄専用執務室。
背中に張り付く巨大な温もりを感じながら、手慣れた様子で書類をめくった。
「ガルド様、あともう少し離れてくれません? ペンが持ちにくいです」
「無理だ。今の君の首筋から、仕事に集中する知的な汗の匂いがしている。……これを逃す手はない」
ガルド様は今日も平常運転だ。
あれから数ヶ月。
俺たちの関係は、王都の名物となっていた。
「見てよ、今日もラブラブだねぇ」
「ああやって英雄様が吸入してる間は、魔物の発生率がゼロになるらしい。拝んどこうぜ」
ガラス張りの執務室の外では、職員たちが拝むようにこちらを見ている。
俺はため息をつきつつ、まんざらでもない気持ちでガルドの髪を撫でた。
◇
「……薫、散歩して帰ろうか」
仕事を終えた夕暮れ時。
ガルド様が、ご機嫌な様子で俺の手を引いた。
向かった先は、かつてネロンの研究所があった場所――今は、美しい公園に生まれ変わった『カオル・ガーデン』だ。
「……何度見ても、この花壇の配置はどうにかならなかったんですか」
「なぜだ? 上空から見ると、君の笑顔になるように計算されているんだぞ」
ガルド様は誇らしげに胸を張る。
噴水広場では、子供たちが歓声を上げて走り回っていた。
かつては魔力中毒の研究で多くの犠牲を出した場所が、今はこんなにも平和な空気に満ちている。
「……君のおかげだ」
ガルド様が、ベンチに座る俺の肩を抱いた。
「君がいなければ、俺はここを更地にし、世界を憎み続けていただろう。……君が、俺を人間に戻してくれた」
「大袈裟ですよ。俺はただ首筋を貸しただけです」
「それが全てだ。……君という『酸素』が、俺の世界を鮮やかに色づけてくれたんだ」
夕日が、ガルド様の碧眼を茜色に染める。
その瞳に映る俺は、どこにでもいる平凡な男だ。
でも、この人の瞳の中だけでは、俺は世界一の幸福者に見えた。
「……帰りましょうか、ガルド様」
「ああ。……腹が減った。今夜のメニューは?」
「セバスチャンさんにハンバーグをお願いしてます!……その後は、デザートも用意してますから」
俺が小声で付け加えると、ガルド様はパァッと顔を輝かせ、俺を軽々と抱き上げた。
「帰宅だ! 全速力で帰るぞ!」
「ちょ、走るな! 揺れる!」
俺たちの笑い声が、夕暮れの街に溶けていった。
◇
その夜。
屋敷の寝室は、静寂と熱気に包まれていた。
「……ん……っ……」
ベッドの上。
ガルド様の腕の中で、俺は心地よい気だるさに身を任せていた。
事後の余韻。
肌と肌が触れ合う部分から、互いの体温が溶け合っていく。
「……薫」
ガルド様が、俺の胸元に顔を埋める。
いつものように激しく吸い込むのではない。
赤子が母親の鼓動を聞くように、静かに、ゆっくりと呼吸をしている。
「……スゥ…………フゥ…………」
「……落ち着きますか?」
「ああ。……世界で一番、安心する場所だ」
ガルド様が顔を上げ、俺の頬を撫でた。
その指先には、かつてのような「渇き」や「狂気」はない。
あるのは、溢れんばかりの愛おしさだけだ。
地下室には、今も俺の脱ぎ捨てた服や真空パックされたパンツが山のように保管されている。
でも、ガルド様は最近、そこへ行く回数が減っていた。
なぜなら――。
「……今の君を堪能したいから、必要ないな」
ガルド様が俺の唇にキスをした。
「今、ここに……温かくて、生きていて、俺を愛してくれる『本物』がいるのだから」
「……当たり前でしょ。離れませんよ、もう」
俺はガルド様の首に腕を回し、強く抱きしめ返した。
「俺の寿命が尽きるまで……いや、じいちゃんになってシワシワになっても、この匂いはアンタだけのものです」
「……約束だぞ」
ガルド様が、悪戯っぽく笑った。
「もし君が先に死んで、生まれ変わったとしても……俺は必ず君を見つけ出す」
「どうやって?」
「匂いだ。……魂に刻まれた君の香りを、俺が忘れるはずがない」
自信満々の英雄様に、俺は噴き出した。
「……鼻が利くからな、ガルド様は」
「ああ。君だけの『犬』だからな」
二人の影が重なる。
窓の外には満月。
そして部屋の中には、甘く、優しく、決して消えることのない愛の香りが満ちていた。
「……おやすみ、俺の英雄様」
「……おやすみ、俺の愛しい飼い主殿」
最後に、首筋に温かい吐息がかかる。
スゥ……
その幸福な深呼吸を子守唄に、俺たちは深い眠りへと落ちていった。
これからも、ずっと。
(終)
「……スゥーッ……。ふむ、受理しよう」
王都ギルド、英雄専用執務室。
背中に張り付く巨大な温もりを感じながら、手慣れた様子で書類をめくった。
「ガルド様、あともう少し離れてくれません? ペンが持ちにくいです」
「無理だ。今の君の首筋から、仕事に集中する知的な汗の匂いがしている。……これを逃す手はない」
ガルド様は今日も平常運転だ。
あれから数ヶ月。
俺たちの関係は、王都の名物となっていた。
「見てよ、今日もラブラブだねぇ」
「ああやって英雄様が吸入してる間は、魔物の発生率がゼロになるらしい。拝んどこうぜ」
ガラス張りの執務室の外では、職員たちが拝むようにこちらを見ている。
俺はため息をつきつつ、まんざらでもない気持ちでガルドの髪を撫でた。
◇
「……薫、散歩して帰ろうか」
仕事を終えた夕暮れ時。
ガルド様が、ご機嫌な様子で俺の手を引いた。
向かった先は、かつてネロンの研究所があった場所――今は、美しい公園に生まれ変わった『カオル・ガーデン』だ。
「……何度見ても、この花壇の配置はどうにかならなかったんですか」
「なぜだ? 上空から見ると、君の笑顔になるように計算されているんだぞ」
ガルド様は誇らしげに胸を張る。
噴水広場では、子供たちが歓声を上げて走り回っていた。
かつては魔力中毒の研究で多くの犠牲を出した場所が、今はこんなにも平和な空気に満ちている。
「……君のおかげだ」
ガルド様が、ベンチに座る俺の肩を抱いた。
「君がいなければ、俺はここを更地にし、世界を憎み続けていただろう。……君が、俺を人間に戻してくれた」
「大袈裟ですよ。俺はただ首筋を貸しただけです」
「それが全てだ。……君という『酸素』が、俺の世界を鮮やかに色づけてくれたんだ」
夕日が、ガルド様の碧眼を茜色に染める。
その瞳に映る俺は、どこにでもいる平凡な男だ。
でも、この人の瞳の中だけでは、俺は世界一の幸福者に見えた。
「……帰りましょうか、ガルド様」
「ああ。……腹が減った。今夜のメニューは?」
「セバスチャンさんにハンバーグをお願いしてます!……その後は、デザートも用意してますから」
俺が小声で付け加えると、ガルド様はパァッと顔を輝かせ、俺を軽々と抱き上げた。
「帰宅だ! 全速力で帰るぞ!」
「ちょ、走るな! 揺れる!」
俺たちの笑い声が、夕暮れの街に溶けていった。
◇
その夜。
屋敷の寝室は、静寂と熱気に包まれていた。
「……ん……っ……」
ベッドの上。
ガルド様の腕の中で、俺は心地よい気だるさに身を任せていた。
事後の余韻。
肌と肌が触れ合う部分から、互いの体温が溶け合っていく。
「……薫」
ガルド様が、俺の胸元に顔を埋める。
いつものように激しく吸い込むのではない。
赤子が母親の鼓動を聞くように、静かに、ゆっくりと呼吸をしている。
「……スゥ…………フゥ…………」
「……落ち着きますか?」
「ああ。……世界で一番、安心する場所だ」
ガルド様が顔を上げ、俺の頬を撫でた。
その指先には、かつてのような「渇き」や「狂気」はない。
あるのは、溢れんばかりの愛おしさだけだ。
地下室には、今も俺の脱ぎ捨てた服や真空パックされたパンツが山のように保管されている。
でも、ガルド様は最近、そこへ行く回数が減っていた。
なぜなら――。
「……今の君を堪能したいから、必要ないな」
ガルド様が俺の唇にキスをした。
「今、ここに……温かくて、生きていて、俺を愛してくれる『本物』がいるのだから」
「……当たり前でしょ。離れませんよ、もう」
俺はガルド様の首に腕を回し、強く抱きしめ返した。
「俺の寿命が尽きるまで……いや、じいちゃんになってシワシワになっても、この匂いはアンタだけのものです」
「……約束だぞ」
ガルド様が、悪戯っぽく笑った。
「もし君が先に死んで、生まれ変わったとしても……俺は必ず君を見つけ出す」
「どうやって?」
「匂いだ。……魂に刻まれた君の香りを、俺が忘れるはずがない」
自信満々の英雄様に、俺は噴き出した。
「……鼻が利くからな、ガルド様は」
「ああ。君だけの『犬』だからな」
二人の影が重なる。
窓の外には満月。
そして部屋の中には、甘く、優しく、決して消えることのない愛の香りが満ちていた。
「……おやすみ、俺の英雄様」
「……おやすみ、俺の愛しい飼い主殿」
最後に、首筋に温かい吐息がかかる。
スゥ……
その幸福な深呼吸を子守唄に、俺たちは深い眠りへと落ちていった。
これからも、ずっと。
(終)
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