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第一章
夜噺 二
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「よくない……よくない…………」
その日の夕食後小珠は、今日のどきどきを思い出す度に一人で何度もそう呟いた。婚約者である天狐と、初恋の相手である空狐が同じ屋敷にいるこの状況に対して。そして、初恋の人と再会できて嬉しいと思ってしまう自分に対して。
「私が結婚するのは天狐様なんだから……」
こんな不誠実な気持ちを抱えたままではキヨに顔合わせできないと思い、さっさと一人で湯殿に入って部屋に閉じこもった。女性使用人の気狐たちはそんな小珠を体調でも悪いのかと心配してくれたが、寝不足なだけだと誤魔化した。
恋心を忘れるため、今日は早く寝てしまおうと布団を被る。しかし、やはりもやもやして眠れない。ごろごろと何度も布団の中を転げ回った。転がっているうちに壁に頭をぶつけてしまい、大きな音が出た。
「いったぁぁ~……!」
頭を押さえて呻く。
と、次の瞬間、外から勢いよく部屋の襖が開けられた。
「何暴れ回っとるねん、下品娘」
立っていたのは寝間着姿の銀狐だ。夜はこの屋敷内を巡回しているらしい。
「銀狐さん、一応ここは私の部屋なので、開ける時は一言欲しいのですが……。これで私が着替え中だったらどうするおつもりなんですか」
「君みたいな色気ない子が着替えとってもなんも思わんわ。小さい子供のお着替えとおんなじや」
一応自分は十八歳の立派な大人なのだが、と落ち込む。人間よりも余程長生きしている銀狐からしたら、十八など子供なのかもしれない。
「元々変やけど、帰ってきてからもっと変や。市でなんかあったん?」
銀狐が堂々と部屋に入ってくるので、寝転がっていた小珠は慌てて座り直し、急須でお茶を入れて差し出した。銀狐は「おお、気ぃ利くやん」と遠慮もせずにそれを手に取る。
どうやら小珠の挙動は銀狐が気付くほどに不自然だったらしい。空狐が初恋の相手だったからなどとは言えない。小珠は少し悩んだ後、代わりに、今日の昼間に茶屋で二口女に言われたことについて銀狐に伝えた。二口女からの狐の一族への評価についてももやもやしていたので嘘ではない。
ずず、と茶を啜ってから銀狐が話し始める。
「天狐はんの代から頑張ってはいるんよ? 空狐はんも、毎朝早う起きて各所回って、この町をより良うしようとしてはるし。でも、それは玉藻前様の時代に俺らの一族が町民にやった酷い仕打ちの償いにはならん。なかなか理解は得られんよな」
どうやら狐の一族はこの町をより良いものにしようと統治者として努力しているらしい。やはり、町の妖怪たちは少し誤解しているように思う。
「年貢の割合を上げたというのは……?」
「この町の治安を守るための組織を来年までに作ろうとしとって。今後、戦闘に優れた妖怪を集めて刀の所持も許可する予定なんよ。その予算を集めなあかんかった」
「それを町の妖怪たちに伝えるべきではないですか?」
「町の妖怪たちは俺らの言うことなんか信じへん」
銀狐が即答した。その目は少し寂しげな、諦めを孕んだような目だった。
確かに、一度出来上がってしまった印象を急に変えるのは難しいだろう。
「……この町が変わってしまったのは、前世の私がしてしまったことが原因なんですよね」
玉藻前の時代、この町は悪政を敷かれていた。それが玉藻前が封印された後の時代の統治にも引き継がれ、現在の狐の一族への印象にも影響を与えている。
「では私、この町を変えたいです」
小珠ははっきりとそう言った。
すると、胡座をかいて座っていた銀狐が「はあ?」と素っ頓狂な声を出す。
「悲しいじゃないですか。お互い誤解したままなんて」
狐の一族は町にいる妖怪たちのことを下劣な者と誤解していて、町にいる妖怪たちは狐の一族を町民のことを何も考えていない独裁者だと誤解している。そのすれ違いはあまりにも寂しい。そのように思われていては、お互い良い気持ちにならないだろうし、良い結果にもならないだろう。
「そのためにはもっと町の事情を知らなければいけませんよね。そうだ、今度、野菜を持って市で売りに出してみます。お金稼ぎにもなりますし、町の様子も見られますし」
最も町の妖怪たちが集まる活気ある市であれば色んな妖怪と話ができる。今日行ってみてそう感じた。
銀狐は小珠の案を聞いて良い顔はしなかった。険しい表情で、昼間も言ってきたことを繰り返してくる。
「このお屋敷じゃ、女の子はお化粧してかわええ着物着て微笑んどったらええねんで。小珠はんは何もせんでも……」
「できることがあるのに、しないのは嫌なんです」
キヨが体を崩して倒れた日の記憶が蘇る。
それまでキヨは病気を疑う余地もないほどに元気だった。毎日元気に畑仕事を行っていた。小珠にとってそんなキヨが倒れたのは青天の霹靂だった。その日を境にみるみるうちにキヨの病状は悪化し、体力は衰え、以前のように立って歩くこともままならなくなった。
小珠は、激しく後悔した。こんなことになるのであれば、もっと沢山キヨを色んな場所に連れて行ってあげればよかった、もっと沢山キヨと一緒に畑仕事をすればよかった、他にもキヨが元気なうちにしてあげられることが沢山あったのに――と。
小珠はキヨが高齢であることを知りながら、キヨがそんな状態になるとは不思議と全く予想していなかったのだ。いつまでも元気に生きているように思っていた。キヨの健康状態が悪化してから、自分の想像力の欠如を嘆いた。
できることは、突然できなくなることがある。当たり前にその可能性は常にある。だから小珠は――後悔しないように生きたいと思っている。
小珠の意見を黙って聞いていた銀狐は、ことりとちゃぶ台に湯呑を置いた。その手が小珠の方へ伸びてきて、小珠を引き寄せ抱き締める。突然のことに小珠は動揺した。
「えっ、あの、銀狐さん?」
「――前世では」
銀狐があまりに切なげな声を出すので黙り込む。
「前世では……守れんで、すみませんでした」
抱き締められているせいで表情は見えない。声が泣いているようにも聞こえて、驚いて銀狐の表情を見ようとした――が、その前に、銀狐はぱっと小珠を離し何事もなかったかのようにすくりと立ち上がった。
その顔はいつもの銀狐だ。
「ほな、俺見回りの続きしてくるわ。あんまり長々と小珠はんの部屋おったら多方面から文句言われそうやし」
「……銀狐さん? 今のって」
「寝言や、寝言。茶ぁ飲んで眠なってもうてん。ほんまに寝てしまわんうちに出るわ」
眠くなる作用のある茶葉ではないはずだが……ともう一度袋を確認する。
「また明日な」
襖を開け、銀狐がこちらに笑いかけた。それがこれまでよりも幾分か優しい笑顔に見えて、小珠は動揺しつつも小さく手を振った。
◆
翌日の早朝、小珠が野狐たちと一緒に廊下の雑巾がけをしていると、そこに金狐と銀狐が通りかかった。
「あ、おはようございます!」
額に流れる汗を拭きながら元気に挨拶する。しかし、金狐と銀狐は唖然とした表情で小珠を見つめてきた。
「え……。何しよるんですか?」
「お掃除です。野狐さんたちが朝から頑張っていたので私もお手伝いしようかなと」
「あかんあかん、あかんて。君このお屋敷の花嫁さんやねんから。掃除とかしたらあかんて。言っても聞かんと思うけど」
慌てて止めてくる銀狐と、冷たい目で野狐たちを睨む金狐。金狐はどうやら手伝わせることを許した野狐たちが悪いと思っているらしい。
「違うんです、野狐さんは悪くありません。私がやりたかったので強引にお願いしたんです。見てください、この雑巾。もう使えなくなった作業着を切って縫って昨日作ったんですよ。折角作ったので使う機会があればな、と思っていたところだったんです」
野狐たちが責められないよう、作った雑巾を見せびらかす。
金狐は苦虫を噛み潰したような顔をしている。貧乏臭いと思われているような気がした。それに比べて銀狐は苦笑い程度で済んでいるので、大分小珠の言動にも慣れてきたのだろう。
「ああ、そうだ、銀狐さん。今日の朝食のうちの一品は私のおばあちゃんが作ってくれるんですよ。昨日銀狐さんが手伝ってくださったアスパラガスの揚げ浸しです。おばあちゃん、お料理うまいんです。楽しみにしていてください」
銀狐は野菜の成長を早送りすることができる。しかし、植え付けてから妖力で一気に成長させると根が弱ってしまったため、小珠とキヨはこまめに成長を止めさせ、倒伏防止の支柱と紐を用意したり、畝全体にワラを敷き乾燥を防いだりなどの手入れをした。大量に育てようと思うと妖力も借りつつ時間をかけたこまめな手入れと太陽の光が必要そうだ。
結果、本来収穫まで三年かかるアスパラガスも、少量だが手に入れることができた。
「銀狐、手伝ったって何なん?」
「あ~……いやぁ~……なんか小珠はんらが勝手に盛り上がっとって押しに負けたっちゅーか……」
金狐に睨まれた銀狐が視線を逸らして気まずそうに頭を掻く。金狐にとって銀狐は小珠の畑仕事に加担した悪者だろう。
金狐が大きな溜め息を吐いた。その表情は昨日小珠に溜め息を吐いてきた銀狐にそっくりで、やはり双子なのだろうと予想する。
「小珠はんを育てた方に食事なんか作らせたらあかん。今すぐ連れ戻せ。空狐はんにばれたら怒られるで」
金狐が野狐を睨みつけて命令するので、慌てて小珠が止めた。
「待ってください。おばあちゃん、料理が好きなのに足腰が弱くなってからは炊事場に立つこともできていなかったんです。久しぶりに自由に動けて楽しそうにしているので、できれば止めないでほしいです」
キヨが楽しそうにしているのは邪魔されたくない。今朝張り切って笑顔で準備体操をしていたくらいだ。昨日屋敷に来た医者の治療や薬が聞いているようで、今日はとても調子が良い。
納得できない様子で黙り込む金狐に、畳み掛けるように要求してみる。
「ちなみに、明日は私も炊事をお手伝いしようかなと思っていたのですが……だめですか?」
おそらく断られることを予想しながら返答を待つ。金狐より先に発言したのは銀狐だった。
「諦めや、金狐。こういう子や」
「やけど……」
「言っても聞かん。なぁ?」
銀狐はにやりと意地悪く笑って小珠を見下ろしてくる。不思議と嫌味には感じない。小珠は銀狐に対し微笑み返した。
――結局、渋々といった感じで金狐に明日の朝食作りを手伝うことを許可してもらった小珠は、気分良くその日の朝食に向かうことができた。
「頑張った後のお食事は美味しいね、おばあちゃん」
「そうじゃのう。妖力を加えて作った物の味はいかほどかと不安だったが、なかなかうまいねえ」
キヨの手料理を食べるのは久しぶりで、嬉しくて涙が出そうだった。
幸せな気持ちでアスパラガスの揚げ浸しを食べる小珠を、正面の金狐が「玉藻前様の生まれ変わり、予想の斜め上やったわ」とうんざりしたように銀狐に言っているのが聞こえた。
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