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第三章 掴んだ手を放すことは、許されないでしょう。

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 久しぶりの福岡の空気を吸いながら、飛行機で凝り固まった身体を思い切り伸ばす。入社してすぐはお金がなくて帰れなかった。正月は帰っていたけれど年々劣化していく自分を知り合いに見られたくなくて、帰らなくなってから数年が経った。親と不仲なんてことはない。今は離れていたってテレビ電話もあるし、誕生日にはプレゼントも送っている。なんとなくキッカケがなくて、帰れずにいた福岡に五十嵐社長と来るなんて誰が想像出来ただろうか。

 ガラスに映った自分が目に入る。いつもと違う私なのは、たぶんメイクのお陰。先日有村さんに言われた「しっかりとしたメイク」をしてみたのだ。五十嵐社長に頂いた化粧品を使って。ちゃんと自分に向かい合ってしたメイクは、悪くはないと思う。しっかりと引いたアイラインにシャドウを使って凹凸をしっかりとつけてみた。キリっとした目元に自然と背筋が伸びる感じは懐かしい感覚。もちろん五十嵐社長は私を見ても何も言わなかったけれど。

 今回の営業先の事前情報も倉科さんから聞いている。九州を中心に展開している美容クリニックらしい。五十嵐社長がお世話になっていた教授の息がかかった会社らしく、是非ともと呼んでいただいたらしい。つまりはこちらが接待を受ける側だと思えば、気持ちは羽のように軽いというものだ。

「嘘っ! ビブレもコアも閉店?!」

 あまりに変わってしまった天神てんじんの街に、私の中の福岡が音を立てて崩れてしまった気がした。幼いころ行った少しお高いデパートたちがなくなり、お洒落なビルが立ち並んでいる。ジュンク堂がこんなところにあるし、マックも出来ている。ここはもう私の知らない街になってしまった。

「再開発が進んでいるだけだ。行くぞ」

 驚きに口を開けている私を置いて行こうとする五十嵐社長は、前回同様に”なんでもない”顔をしている。だから私も”どうでもいいですよ”って顔で接しているのだ。これが大人の関係ってやつだと思えば、私もそんな歳になったのかと実感が湧く。学生の頃の友人たちとは疎遠になったが、大人になってからの友人が不倫というものをしていると話していた。まるで漫画のような世界に現実味はなかったが、同じ職場の店長とスタッフという関係の二人は普段は普通に接するらしい。それなのに夜はホテルに行くのだ。なんだか想像するだけでむず痒いが、私もそうなってしまうのだろうか。

 ・・・こんな私よりも倉科さんのように綺麗な人と関係を持てばいいのに。五十嵐社長が相手なら、世の中の九割の女性は喜んで相手してくれるだろうに、どうして私なんか・・・。というか、関係ってなんだ。関係って言うのはセックスをするような二人のことで、キスをしただけの二人のことを指すのではない。五十嵐社長にとってキスなんてほんとうにどうでもないことなのかもしれない。私だけ振り回されているだけで、きっとそうなんだ。挨拶のようなもので・・・って、もう考えることはやめよう。

「どこに行くんですか?」

「挨拶の手土産を買いに行く」

「ほう」

 五十嵐社長の長い脚に合わせれば、どうしても小走りになってしまう。押し殺したって漏れ出る鼻息を少しでも隠しつつ、隣を歩く。すれ違う女性たちが五十嵐社長を見て心をときめかせている。女の子同士腕を取り合って飛び跳ねる女子高生や、少しでも良く見せようと即座に前髪を整える女性、背筋を伸ばして心なしかこちらに寄りながらすれ違った女性。

 なんと罪な男、五十嵐啓太。横目で睨むように見上げれば、凛とした横顔は見慣れた私が見たってむかつくほど素敵だ。モスグリーンのスーツは高級感があるし、クラッチバックは黒のしっとりとした本革でなんなら「アレになりたい」とさえ思ってしまう。高嶺の花過ぎて、憎らしいのだ。私は五十嵐社長のおもちゃだ。おもちゃはおもちゃでも、私はあってもなくても気付かないどこかのパーツのひとつに過ぎない。


 そんなことを考えながら歩いていたら、どこかのデパートの中に入っていた。しかも高級店が並ぶエリアだ。普段の私が来てもきっと相手にしてもらえないような場所でも、隣にいる人物のお陰で視線は集まるばかり。磨き上げられたガラス棚は指紋ひとつない。並べられたバッグにコート、小物でさえ値段を聞くのが怖い。

 まっすぐに五十嵐社長が向かったのは、ブランドに疎い私でも知っている高級店だった。そこに入ろうとしたとき、五十嵐社長の足が止まる。

「? 入らないんですか?」

「___あぁ」

 視線を左右に素早く動かした五十嵐社長が踵を返した時だった。

「啓太?」

 店内から飛んできた声に振り返れば、髪を綺麗に撫でつけた男性スタッフが小走りに出てきた。一瞬戸惑うように揺れた肩は、観念したように男性に振り返る。眉を寄せて迷惑そうな顔をした五十嵐社長は、何故か私を隠すように男性と向かい合った。

「啓太。東京に行った以来じゃないか。俺に会いに来てくれたのか?」

「通りかかっただけだ」

「ふぅん」

 親しそうな二人の会話を五十嵐社長の背中越しに聞いていた。平気な顔をしているけれど、内心はそうではない。五十嵐社長が私を隠しているのは、私といるのを見られたくないから。ちゃんとメイクをしていたって、少し痩せたって私は五十嵐社長の隣を歩くに値しないのだ。涙をこらえるために噛んだ下唇は嫌な口紅の味がする。分かっていたことなのに、心が痛いですと訴えてくるから。

「え? もしかして、日和さん?」

 唐突に名前を呼ばれて、うるんだ瞳から涙が落ちないように慌てて視線を左右に揺らした。まさか自分の名前を呼ばれるとは思わなくて、気合を入れるためにスンと鼻を啜って顔を上げる。首だけひねってこちらを見下ろしている五十嵐社長は、クールな表情の向こうに苦さが見える。私の名前を呼んだ男性は五十嵐社長を避けるように顔を出してこちらを見ていた。

「えっと・・・」

「やっぱりそうですよね! 日和さんだ。啓太! 一体どういうことだよ」

 私と目を合わせた瞬間ぱぁっと笑った男性が五十嵐社長を肘で小突いた。五十嵐社長は額を抑えて迷惑そうに目を閉じている。この男性に見覚えが・・・ないのだ。一体誰だと言うのか。

「覚えていませんか? 二個下の土屋って言います。俺も福一工だったんですよ。日和さんに話しかけたこともあります」

 福一工とは福岡第一工業高校の略名である。つまりは私の母校。福一工は工業高校で普通科以外には工業系の学科が五つあり、八割が男子生徒の高校だった。なぜそこに行ったのかと言うと、自宅から近かったからという不謹慎な理由だけだ。

「えっと、ごめんなさい。私、人の名前や顔を覚えるのが苦手で」

「それ! 高校のときも同じこと言われました。やっぱり日和さんなんだ・・・。どうして啓太と一緒に?」

 眉を寄せた土屋くんは睨むように五十嵐社長を見た。私としてはどうして東京と福岡の人間がこんなにも親しい友人なのか、ということの方が不思議なのだけれども。そう思いながら私も五十嵐社長を見上げれば、意味深な合図を土屋くんに送っているところだった。また私には何も言ってくれないつもりなのだろう。

「え? なんだよ。日和さんとお近づきになれたのなら教えてくれよな。俺、高校の頃毎日のように日和さんのこと好きだって言ってたじゃないか。あ、これじゃ告白みたいだ」

 空気を読めない様子の土屋くんが照れくさそうに私を見ながら言っているが、そんなこと私にはどうでもよかった。五十嵐社長のことをまるで高校生の頃毎日のように一緒にいた学友のような言い方をするじゃないか。目をしぱしぱさせてから、五十嵐社長を指さす。

「福一こ、う?」

「え? 言ってなかったのか?」

 肯定の声を上げたのは土屋くんで、当の五十嵐社長は苦虫を潰したような顔をしながら明後日の方向を見ていた。
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