ブラック・ジャッキー ~視能訓練士Nの毛深い眼球~

伊佐坂 風呂糸

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完全におかしくなる

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 中村はリハビリも順調にこなし、頭部の傷も癒え、もうすぐ療養期間を終えようとしていた。ついに視能訓練士として、眼科の仕事に戻れる日が現実味を帯びてきたのである。

 彼は今日も平穏で幸せだった。
 リビングでソファの上に寝そべって新聞を読んでいると、娘の真里が四つん這いで来て中村の背中に飛び乗った。

「何だよ真里。重いじゃないか、よしてくれよ~」

「今日はアジが食べたいの、買ってきて」

「ははは、相変わらず魚が好きなんだな。よしよし、しょうがないなぁ。買い物にでも行ってくるよ」

 中村が真里の頭を撫でてやると、満足げに目を細めて頬ずりしてきた上に、彼の手の甲を舐めてくれた。何だかザラザラとしていたが、大きくなっても甘えんぼうだな、とますます娘の事が愛おしくなった。

 外出の際、妻の香里を誘ったが、今日は出たくないと言う。

「近所に犬を飼い始めた人がいるの。毛むくじゃらの小さな犬なんだけど、放し飼いにしてるから追いかけられるのが怖くて怖くて……」

「何だと、よし! 今度会ったら抗議してやるよ。犬の首輪にリードを付けさせよう。何て非常識な飼い主なんだ」

「ありがとう、あなた……」

 妻が部屋着にしているレギンスの後ろから、黒いフサフサとした尻尾のようなものが見え隠れする気がした。変わったファッションアイテムがあるものだ、と中村は見て見ぬふりをするのだ。

 

 勇んで近所にある大型スーパーまで自転車を漕いでいくと、中村が心の底で恐れていた事が起こった。
 2車線の国道で信号待ちをしていると、自家用車やバス、タクシーに混じって巨大な金属光沢のある毒虫が複数、高速で走り去っていったのだ。

「……まだ、あれが見えてしまうのか……」

 忘れかけていた恐怖に心臓が鷲掴みにされる気がして、思わず頭を抱えこんで息を整えた。運転中にも時折こういった怪現象が起こって、中村を耐え難い暗黒の気分に叩き落とすのだ。

「大丈夫、日常生活には影響ないって……。僕の頭は正常で、何も問題ないんだ……」

 自分に言い聞かせるように独り言を唱えた中村は、震える足腰を奮い立たせたのだ。




   ✡ ✡ ✡ 

 


 その日は来客の予定があった。
 中村が公立の総合病院から個人眼科へと転職するきっかけを作った人物であり、独立開業する際に中村を検査技師としてスカウトした先生……、眼科医の平田が復職を祝って自宅まで挨拶に来るというのだ。

 朝から散らかった自宅を一人で大掃除して平田ドクターの訪問を待つ。
 妻の香里、娘の真里も滅多にない来客を予感したのか、身だしなみを整えて緊張しているようだ。

「ごめんくださーい」

「来た! は~い」

 挨拶もそこそこに平田ドクターは中村の完全回復に目を見張り、自分の事のように喜んでくれた。
 既婚だが、まだまだ若く中堅の眼科医であった平田ドクターは、興味深く中村の自宅を観察する。中村は思わず嬉しくなってリビングからダイニング、子供部屋に至るまで丁寧に案内して回った。
 
 どこにでもあるような一戸建ての家は、他人が住む家の多くがそうであるように何だか異臭がする。特に和室は、入るのを躊躇われるほどの重苦しい空気が漂っていた。

「中村君、もしよければ仏壇を拝ませて……」

「先生? お茶の用意ができましたので、どうぞこちらへ」

 リビングでもてなしを受けた平田ドクターは、ソファーで落ち着き払っていたが、髭を剃ったばかりの顎を撫でながら何かしら言いようのない違和感を心の隅に感じていた。
 
 そもそも自分がかけた電話のせいで中村が家族を乗せた車を路肩に停車させ、それが結果的に一家を巻き込む大惨事を引き起こしたのだ。遠因とはいえ、平田ドクターが責任を全く感じない訳がない。
 そう……、この場において、中村に不幸のドン底を味わわせた張本人でもある平田ドクターが、平気でいられるはずはなかったのである。
 
 なのに視能訓練士の中村は、幸せそうに笑っていた。
 眼前に座っている彼は、復職を前にした希望に満ち溢れ、活き活きと笑っていたのである。
 一瞬、遠回しの当てつけか何かと勘繰ったが、中村の笑顔には一点の曇りも見られなかった。

「……中村君、やっぱり忘れられないんだね」

「はい、……何の事でしょうか?」

「さっき子供部屋を拝見させてもらったが、娘さん……真里ちゃんだったかな? いつ帰ってきても問題ないように一切部屋の片付けをせず、そのままだったじゃないか」

「………………」

「いや、すまなかった、謝るよ。軽々しく口にしては、だめだったかな。医者なのにデリカシーに欠けるよね。君にとってまだ触れられたくない事だったのか……、無神経な僕で本当にすまない」

 ドクターの言葉に中村の顔から笑顔が消え失せていった。

「中村君、お亡くなりになった家族も、きっと天国から君の事を応援しているよ。もちろん全て忘れろ、とは言わない。でもこの不幸を乗り越える力が君にはあると、僕は確信してるし」

 黙って聞いていた中村は、キョトンとしていたままだったが、13度ほど首を傾げながら答えた。

「……先生、先ほどから何の事をおっしゃっているのでしょうか?」

「中村……君?」

「亡くなった家族とは、一体誰の事なのでしょう? 妻と娘なら、さっきからずっと先生の隣にいるじゃないですか」

「えっ?」

 平田ドクターが、はっとして振り向いた先には誰もいなかった。

  
 中村が指差す方向には、何も見えなかった。












  







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