蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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マツリカ、クヌイ、ダイダイ、ウイキョウ*

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「……コーノのつるばらか」
 祭の喧騒も過ぎて数日。先日ニビが置いていった酒瓶には手をつけず茶を飲んでの会話の合間に呟きが零される。首を傾げるニビにタドは一言足した。
「香水の匂いがする」
「えっ? 風呂入ってきましたけど……」
 咎めたりするのではなくただ教える声音だったが、思わぬ指摘にニビも鼻を鳴らす。香水は使っていない。この客の為に最近匂いは気にしている。今日だってシャワーを借りて体をよく洗ってから来たはずだった。
 しかし確かに、自分でも二の腕など嗅ぐとそういう匂いがする。――数秒で、ああ、と思い至った。椅子の背にかけた藤色の上着を摘まみ上げて嗅ぐともっとはっきり匂う。これはつい二日前、贔屓の婦人から新たに貰ったものだ。秋も本番なのに寒いでしょうと笑って肩にかけられた。いつもどおりお下がりで、箪笥の中から出てくる前には本人が着ているのも見た。だから彼女の香水が飛んでいない。
「すみません、これについてたみたい……」
「いいよ、別に。いい香水だ」
 商品名までぴたりと当てた、犬のように鼻が利く調香師は評して茶を飲んだ。言うとおり不快なものではない。上品で優雅な芳香だ。ただ、と向かいのニビを見据え、思案に顎を撫でた。
「いい物だが、君にはあまり合わないな。別のがいい」
 香水にも相性がある。嗅いでみて気に入っても、肌につけると思ったとおりに決まらないことはある。今回もその枠で、自分ならおすすめはしないと選ってその代わり、タドは長年親しんだ友人のようである店の商品たちを思い浮かべた。もしその中から選ぶなら。
 あまり長くは悩まなかった。香水のことは無論よく覚えており、ニビの匂いももう十分、検分はしていたので。
「香水を選ぶことがあったらロンゼンで、白の園を買うといい」
「ロンゼン……」
「シーナイ通りの、西向きにある……古いほうの橋の近く、四番地だ。うちの店」
 タドが言う名前を繰り返したニビは説明される場所を思い描く。そうして視線は一時余所へと逸れていたが、数秒後には、ん? と声を上げて前に座る男の顔を見直した。
「――そこだと結構高級店ってヤツじゃないですか? タドさんそんなとこで仕事してたんですか」
 シーナイ通りはニビには普段縁がない、立派な仕立て屋なども並ぶ大通りだ。調香師という特別な響きを聞いたときから低賃金の労働者とは違うのだろうと捉えてはいたが、それなら思った以上かも知れないと室内の様子も改めて、さり気なく見る。相変わらず男一人の寂しく慎ましい暮らしという風景だ。もっとよい場所でよい生活をできるのではと訝しんだ。
「まあね。雇われてるだけだ」
 タドははぐらかして笑う。茶を飲み干して、指先で飲み口を辿る。それでニビは一旦踏みとどまった。
 つい訊ねてしまったが――彼は別に、稼いでいるならもっと貢いでくれ、などと言いたいわけではない。やることに見合うだけの金額は受け取っていて寝床だって貸してもらえる。今の状態で十分得をしていた。そこで下手に欲を出して嫌がられるのは頂けない。気持ちよく与えてもらってこそ、より太く長く関係が続くのだ。
「覚えときます。行ったらビシッとお仕事してるタドさんに会えるんですか?」
 目が合わず、自慢したいわけでもなさそうなので茶を飲んで一区切り。話の向きをちょっと変え、ニビはあえて冗談ぽく媚びた口振りを作って首を傾いでみせた。恐らくそんな店に行くことはないだろうが、行くことがないゆえに気負いのない雑談である。タドも軽く応じる。
「俺は裏方だが、呼べば出ていくよ、仕方なくね」
「白の園、は、香水の名前ですよね?」
「そうだ。クチナシに似せて作られた名品だ」
「……クチナシって大きい白い花でしたっけ」
「うん、そう。花弁の大きい。夏の早い頃に咲く」
 カップを撫でていた指が宙に花の形を描く。拳大で薫る白色。諸々の花と判別のつかない記憶ながら、ニビにもなんとなく覚えがあった。
「それが、僕に似合うんだ?」
 問えば視線が戻ってくる。灰色の双眸がはっきりと正面に顔を見据えて、確信を持って頷く。
「合うだろう。香りも、見た目も。君は美男だから」
 ほのかに笑いを含んだ声。その、飾らぬ褒め言葉にニビは微笑んだ。花の似合う麗人の笑み。端の上がる口元に肘をついた両手で持つカップが寄る。そうして少し潜めるように喋る。
「タドさんは見た目はどうでもいいのかと思ってました」
「まあ、疎いほうだが、君ほど分かりやすければね。よく言われるだろう?」
「まあ、得してます」
 どうでもよい男でもそう感じるだけの抜群の見目で、気取りもせずに言いきる。雑な応酬で笑い合い、互いの顔を見つめる。じっと、先程より長く間があった。
「――匂いは好みでしょ。顔も悪くない感じ?」
「そうだね、悪くない」
 擦り寄る言葉にも淡々と返される、その声音がニビには丁度よかった。素気なくとも何やら嬉しかった。
 その後、茶を飲み干した二人はまたベッドに向かった。そのほうが触れるのも――嗅ぐのもやりやすいと分かってしまったので、そして部屋があるので、そうしない手は無かったのだ。買った、買われた間柄なのだから今更上品ぶって体裁を繕っても仕方がないと、言い合うでもなく流れだった。完全に寝る、、流れで身を寄せ合った。
 シャツも脱いで裸を晒せば他の客の移り香は遠ざかる。確かめるように首元へと顔を埋めた男のこめかみにキスを落として、ニビはその腿を撫で上げた。
 もしや花の化身だろうかと空想めいたことを考えて顔を見遣れば、そういうこともあるかも知れないなと逆に納得してしまうほど美しい男娼は、しかし肉の生臭さを持ってタドに触れる。服を脱ぎ捨て客の下肢からも剥いだところで、躊躇いなく屈んで陰茎を咥えに行った。敏感な場所を唇で食んで、膨らんでくるとじゅぷじゅぷとはしたないほど音を立て、濡らして、そうしながら柔らかな感触を楽しむように指の腹で陰嚢を揉む。こうすると反応がよく勃ちが早い。もう既にそれくらいの体の癖は掴んでいた。
 ――ただやはり、この客は匂いを嗅ぎたがるのであまり長くはやらない。勃起させてしまえばすぐに身を起こしいつもの距離に戻る。向かい合わせに跨って腰を振る。深く貫かれる喜びに肌を染め、喘ぎ、締めつけて絞った。
 腹の奥に精液を受け止めてニビもぶると身を震う。互いの息が落ち着くまで待つ少しの余韻だけ持って離れ、壁に凭れるタドを眺めて密やかに生唾を飲んだ。最中は顔が近すぎてあまり見る隙がないが、事後の色気は格別だった。まだニビの匂いに飲まれてぼうとしているのが分かる。
 仕事を終えた尻がまた疼く。が、これは後で自分で慰めることにした。萎えた物から身を引いて座りなおす。
「……ニビ君、そのうち来れる日はあるかい」
 射精したほうはともかく、後孔で達すると快感が長引く。ニビのほうも些か頭の働きが鈍いうち、雰囲気を出すでもなく緩慢な所作で再び動き出そうとしたあたり、タドからかけられた言葉には反応が遅れた。
「明日、でもいいんですか? 全然、いつでも大体、来れますが」
 愛人扱いしてくれる奥様の機嫌を取って、酒場に繰り出して声をかけられるのを待ち、ときに自分からも客に会いに行く。それがニビの生活だ。多少――たとえば奥様の夫が帰宅する日などは一応居合わせないようにするとか、毎月給料が入った頃に会う客だとか、そういう予定のようなものはあったが、多くの時間は自由で身軽だ。昨日立ち寄った酒場でも呼び出しの伝言などはなかったので少なくとも明日は暇だった。
「うん。そうしたら明日来てくれ。待ってる」
「はーい」
 毎旬、およそ十日ごとの通い。そこから一つ抜き出た約束にニビは機嫌のよい返事をした。自分は上手くやった、順調にタドを知り、好かれて、よい客にできている。そういう満足感がセックスで得た気持ちよさと入り混じってにまにまとする。
「俺も別に予定なんて無いからね。いつでもいいんだけど、」
 そんな様子を見て付け足し言うのが照れた雰囲気で可愛らしく思え、じゃあまた明日と言って別れるのも嬉しい。この男と十日後ではなく明日すぐに会えるのが、ニビには楽しみでならなかった。

 翌日いつもと同じように訪れたニビを迎え入れたタドは、早速という様子で果物籠の横から瓶を持ち上げた。掌に納まる小ささのなめらかな白い陶瓶だ。タドに渡されたのでニビにも中身の察しがついた。
「香水ですか? もしかして昨日言ってたやつ?」
「そう、白の園。――言ったら気になってしまってね。それで来れないか聞いたんだ。つけてみてくれ」
 捻ってぴたりと嵌る作りのいい蓋が慣れず上手く開けられないでいると、タドが手を貸す。こう、とやり方を見せながら彼は労せず開ける。クチナシを象る甘い香りが零れた。
「つけるよ」
 一歩寄ったタドは少し考えて高く束ねられた髪の下、色白の項にそれを乗せた。これまで散々顔を近づけて嗅いでいた分、遠慮や緊張とは無縁の動きだった。ひやと濡れた感触にニビは小さく肩を竦め、タドを窺い、それから香水のついた肌を手で押さえて、嗅いでみた。
「いい匂い」
 どんな匂いでもそう言うつもりで準備のようなものはしていたが、その前に率直な声が口から出ていった。柔らかく品のよい甘さをもう一度吸い込んで、感嘆の息を漏らす。タドは満足気に頷いた。
「やっぱりこれのほうが合ってる」
 蓋を閉めて置き。香水のみを嗅いだときとは異なる香りに鼻を寄せ、目を閉じる。
「今日は……此処で済ませてもいいかな。昨日もしたから」
「いーですよ、どこだって。ノらなかったら嗅ぐだけでも、僕は全然。タドさんの好きにして」
 首元で呟く吐息が擽る。柔らかに低い声。情事の最中に言うように囁きを返して、ニビも深呼吸した。今日は彼の嗅覚でも十分にその芳香が知れた。心地よい香りに包まれて過ごすと確かにうっとりとして、タドの気持ちも分かるように思えた。
 ――そうして久々に嗅ぐだけで終わった別れ際。代金と共にさっきの小瓶を持たされるのにニビは目を丸くした。
「あげるよ。好きに使ってくれ。来るときにはつけなくていい」
「これ高いんでしょ」
「少量だから大したことない。俺はつけないし……うん、無駄にしない為にも持っていきなさい。嗅ぎたくなったら君に頼むから」
 タドの口振りはいつもどおりだ。冗談のように言って押しつけてしまう。不要ならどうとでもしてくれとまではわざわざ言わず、ニビに任せる。
「じゃあ、遠慮なく、ありがとうございます――」
 明るく笑って瓶を握って見せながら、ニビは内心困惑していた。
「わざわざ来てもらってすまないね、たまには俺が飲み屋にでも行くようにすればよかったなと、昨日あの後思ったんだけど」
「や、全然、この辺ほら、来るの慣れてますし」
「たまには飲みに行こうかな」
「うん、是非。いいとこ案内できますよ、僕」
 客から香水を贈られたことはこれまでにも数度あった。振りかけられたこともあれば、瓶ごともらったこともある。その客の為に気にしてつけて会わねばならないのはちょっと苦労だが、まったく知識が無いにしてもよい匂いは素敵だし、贈り物は何であれ嬉しいものだ。ニビは素直に喜んだ。
 今日も喜んだ。けれどいつも以上に――タドの気軽さには不釣り合いなほどに喜んでいる自分が分かって戸惑っていた。嬉しいあまりに相手との距離を掴み損ねる感じがして挨拶もそこそこ、半ば逃げるように外に出る。
 昨日まではこれはいつもの達成感だと思っていたが、違うかも知れない。何やらぐらつく心地がする。いつもどおりではない。
 大事に握り締めた瓶を確かめずとも、つけてもらった匂いが意識させてくる。見ていた顔に触れた熱、先程まで話していた声の調子を思い出させる。頬が緩む。
 会いに行く日が楽しみで、一緒に過ごすと心地よい人。金を貰っているのだから客には違いないが。
「……僕、あの人好きかも……」
 暗がりに弱った声で呟きを落とし、次には大きく息を吸う。こんな静かな場所では浮かれた心がすべて外に出てきてしまいそうで、ニビは歓楽街の喧騒を求めて急ぐ。
 路地には、どこかで季節外れの花が開いているかの香りが残る。いい匂い、いい匂いだと嬉しくなって躍る心を抱きこんで、彼の足元は些か弾むようだった。
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