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三種のバラとマツリカ、西方ハッカ、フウロ、猫麝香
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「あのときは本当にすまなかった」
「や」
「どうかしてたよ。あんな状態の君に、いい年して……」
「タドさん。もう言わないでって。僕はあんな風に言ってもらって嬉しかったですよ? ちょっと頭が追っつかなくっていい感じの返事ができなかったのだけ残念ですけど」
食事をして、帰り道。隣に並んで歩きながら話す。普段よりはしっかり髪を纏めたタドは眉の寄る顔をして、これまでより目立たないが質のよい茶色の外套を着たニビがそれに笑う。
人気の疎らな大通り。夕食の済む時間でもまだ空の端が薄明るく空気は温い。街路樹には芽吹きの色が見えた。もうじき春だ。
花の香りは辺りからではなくニビから漂う。身に着けたときからは幾分飛んで変化した、開ききった花の風情を持つ芳香。食事の場には少し主張しすぎたほどのそれは、タドが描いたとおりの美しい花の姿だった。
やや身を屈め覗き込んでくる青年と目を合わせ、タドは曖昧に頷く。先ほどキンセも居た場で話題に出たのでぶり返した罪悪感だった。何度詫びても申し訳ないままだが、煩がられるのは避けたかった。
――あの日。医院のベッドでタドに迫られたニビは発熱で一晩寝込んだ。元々体が冷え風邪まで引いていたのだが、加えて興奮しすぎたのだ。今後の話などというものは体調が落ち着いてからにするべきだったと大いに後悔したタドだが――あんなことを口にするには追いつめられた場の勢いも必要だった。後にすればまた色々と考え尻込みしたに違いないのだ。ニビのほうも、余裕ができてしまったら素直にはいとは言えなかったかもしれない。状況的には世話になるしかないとはいえ、あれほどに言われてしまうと互いの好意を意識せざるを得ない。
それでも。あの日、あの場、あの状況で行き着いた答えは、はい、よろしくお願いします、だった。
「……もう一回口説いてみてって言ったらやってくれるんですか?」
あの時とは違う流暢さを取り戻した、含み笑う声にタドは弱る。
欲しいものは何でもあげると言った手前はあるが。ニビが明らかに冗談だという顔で反応を見ているので、視線を少し下へと逸らして肩を竦めた。
「できたら、勘弁してもらえると……」
「冗談冗談。有難みってモノがありますからね」
その気恥ずかしそうな返事も楽しんでニビはご機嫌だ。思い返す、酷い目に遭った日の記憶も最終的には悪くない。
元より心惹かれていたずっと年上の男が、セックスの最中でもないのに自分が欲しいと熱烈に訴えてくる。何がどうしてそうなったのかは当時まるで分からなかったが、改めて恋に落ちるには十分だった。
軽い返答にタドは内心ほっとして、滑らかな石畳の続く足元を見下ろした。
ニビの存在はもはや必要不可欠で、こんなことにもなってしまったし自分が面倒を見る、今からまず伝えてくるから待っていろ。などと親友兼雇い主に告げたときは、彼は駆け引きなど何一つ考えていなかったし――後にして思えばキンセはその勢いに完全に引いていたが、そうやって押し切ってしまえたのも云わば怪我の功名である。いかに男娼といえ、災難に見舞われた人を放り出すのは善心が咎めるものだ。あのタイミングがまたとない機だったのだ。
やや置いて主導権を取り戻したキンセが二人を擁護するのに出した交換条件は、ニビが男娼を辞めることと、タドの引っ越しだった。長年聞き流していたのが嘘のようにタドはすぐに頷いて、前に見に行ったところがまだ空いているか確認してくれと話を進めた。間取りなども悪くなく、ロンゼンからは少し離れるが市場が近くて、近所に大きなシナノキが植わっているのも教えられ、もし本当に越すなら此処かななどと思っていた矢先のことだった。
「あ、僕が開けます」
大木を通り過ぎ帰り着いた、以前より数段立派な家を見上げる。綺麗に塗られている白っぽい壁の二階建て、三世帯が横並びになる集合住居だ。飾り数字で三と書かれた扉が彼らの家で、数度訪れ引っ越しの荷物の運び込みもしたが、帰宅はこれが初めてだった。
ニビはさっと新しい鍵を取り出した。鍵も以前のものより一回り大きい。手首を捻り開ける所作はまだぎこちない。扉を開けて中へと進む足取りも探るような雰囲気がある。
ただいま、と確認のように二人で声を掛け合いながら、ランプに火を点して部屋を照らす。
「お疲れ様」
「確かにちょっと疲れたかも」
「茶を淹れようか」
今日は夕食の前にも色々なことがあった。
まず朝のうち、強盗の疑いのある男が捕まったとの一報を受けて警察に確認に行った。間違いなくあの男だとニビが証言した。
男の捕縛に至ったきっかけは、数日前にタドが偶然町中で特別な匂いを嗅ぎ取ったことだった。あの日部屋から盗まれた香水――彼がニビの香りを下地に作った例の新作、その試作品の香り。まだ世に出回ってはいない調合を彼が間違えるはずはなかった。身に着けていた女に贈った不届きな男が、余罪も多数で刑罰を受けることとなった。
他の物は何一つ返ってはこなかったが、これで終わって落ち着きはした。元通りなどではなく、大きな変化の上での一件落着だ。
そしてその後は香水店ロンゼンへと二人で向かった。予定していた仕事の為である。
改めて怪我も癒えたニビの容姿を認識したキンセは、むしろタドよりも熱心にニビを口説き始めた。ロンゼンの広告になってくれ、と言うのである。
かねてより新しい香水の宣伝方法を模索していた彼は、調香師が惚れた美青年を見ていて閃いた。新作のお披露目や店頭での香水の試供をするのにただ店員が手を貸すのではなく、もっと目を惹く存在が欲しい。それをニビにやらせたい。そういう話だった。
勿論働きの分は金を出すと言うので、ニビとしては断る理由がなかった。これから男娼を辞めるなら何か代わりの仕事が要る。――誰かに養われるのは楽だが、案外遊んでいるのは性に合わない。ましてや好いた相手と暮らすならば、そういう関係ではなく、という風にしておきたかった。
快諾の後はすぐ具体的な検討が始まった。どうニビを使うか、見せていくか、熱心に考え話し合われた。キンセとタドだけでなく、今日は店の従業員たちも寄って相談をした。
ただの店員との違いは。何処でどのように振舞うのか。何を着せるか、ロンゼンの制服か。もっと着飾るべきでは。装飾品の類は。髪型はどうするのか。纏めて、流行らしく編んで、逆に解いて。あれこれと着せ替え弄られては、真剣に意見を出し合い悩む人々の顔を見る。――ニビは話を聞いているだけだったが、数時間で浴びせられた情報の量はとんでもなく多かった。これまでは安い服を精々二枚三枚で着まわしている生活で、服をくれていた貴婦人も自らが着ていたものを気分で一着放って寄越すような人だったので、着丈の合う服を用意してもらえるだけでも新鮮だったけれど。そんな服の揃いを着た人々が立ち並ぶ、格式と高級感のある店内の装い、やはりずらりと並ぶ化粧瓶。香水とその表現、商品をより魅力的に見せ売り込む営業の作法、店の経営の話……となると本当にまったく未知の世界で、同じ場に居ても遠くの出来事のようだった。初対面の人と話をするのが苦にならないニビでもやはり疲れた。
「……彼らとは仲良くやれそうかい? 何かあったら言うんだよ」
あの場では誰にも劣らず意欲的で幾つかの意見は断固として譲らなかった調香師が、今は常以上に優しく気遣う声をかける。ニビは軽く頷いて差し出されるカップを受け取った。
茶を飲む時間も前と同じではない。テーブルと椅子が新しくなって、そうそう足がぶつからない程度の距離が出来た。椅子の座り心地はよくなり、景色も違う。先程までは隣で食事していた男が新しい部屋の中に居る姿を新鮮な気持ちで眺めながら手を温めて、ニビは飲むより先に口を動かす。
「女の人はすぐ仲良くなれるかも。男は一度引かれると難しいなァ。でもうん、悪い感じはしないかな、意外と。……僕はタドさんのほうが心配ですけど」
キンセがしっかり店側にも話を通してはいたものの。タドが連れてきた年若い彼について、他の従業員が何も思わないことはない。暫くタドと共に暮らす、などと聞けば皆想像が捗るものである。――実際、ほぼ想像どおりなのだ。愛人か、恋人か、それ以外の名前を付けるのかは、まだ二人は決めていないが。女でも皆驚いただろうが、男同士というのは店に相当の衝撃を齎していた。
ただし逆に、衝撃が大きすぎたのか今のところはそれで揉める気配もなく、拍子抜けするほどに円滑だった。今後も何もないとも限らないが――まあこれならなんとかなるだろうとニビは楽観している。整った容姿と愛想のよさを持って、空気を読んで人と仲良くなるのは得意だという自負があった。いける相手といけない相手を見極める勘もよく働く。
「俺はまあ、一応彼らより偉いってことになってるから。キンセがこうしたんだから大丈夫だろう。あいつの判断を信じる」
そしてタドも、そうと思っている。巻き込んだようでいて、もう完全に主導者になっている友人に全幅の信頼を見せて言う。
今の言い方なんか妬けるなあとは心中に。ニビはもう一つ頷いて、これだけは前と同じ味わいの茶をゆっくりと啜った。
一服の後、二人はまた揃って二階へと上がった。廊下にも灯りを増やす中で、確かめるように部屋の扉を開けてニビはふふんと笑う。右側の一室が彼の私室だ。現状物は多くないが、新品の椅子も箪笥もベッドも、室内のすべてがニビの所有物だ。知らないベッドはいつものことだったが、これからは此処で寝ると決まっていたことなど久しぶりで、彼は浮かれた。
その様子にタドも目を細める。家具などの購入は彼もあまり縁がなく不得手だったが頑張ったのが報われた気でいた。
「――ちなみにタドさん、どっちかで一緒に寝るんじゃ駄目なんですか?」
隣の部屋へと行く前に投げかけられた声。――返事の前に触れる手。色気を出してくるのに、タドは足を止めた。緩く振り返る。ランプの火に蕩ける甘い飴色の目と合う。
ニビが纏う今日の服はキンセが適当に調達してきたもので男物の普段着だが、香りは華やかだ。昼の衣装合わせの為に幾分多めにつけさせた香水が、この時間になってもタドの鼻には明瞭に感じとれる。彼がニビに合わせて選んだ香料を微に細に気遣い配合したものが、体温や汗と共に幾重もの花弁となり開いた花を象っている。
美しく花開く、つけた始めから終わるまで馨しい、言ったとおりの傑作だった。
「……寝るって言ってもその気だものなあ」
「僕は男娼ですよ。寝るって言ったら大体ソッチのことなんで。何でもしてくれるって言いましたしー」
自然、呼吸を深くして、そのまま味わいたい気持ちになるのを抑えて呟くが堪えぬ返事は流れるようだ。
肩やら腕やら、ぺたぺたと甘えて見下ろしてくる綺麗な顔にはタドは困ってしまう。彼はニビには何でも与えてやりたいし、確かに約束までした。が――今日の予定を見越して昨日は休憩としたにしても、日々こうなってくると少々心配だった。体力や精力に腰などが。それで一応、迷う。
しかしニビの何か絶妙な言動はその気にさせるのが上手すぎる。気持ちだけはもう完全に傾いていた。
「どっちかのベッドを寝るほうにして、どっちかのベッドをヤる用にっていうのはどうです」
そしてとどめに、以前の家でそうしていたようにと囁く声は腰に効く少し擦れた響きだ。ねだられたから仕方なく、などではなく、己の中にも情欲があるのを認めてタドは息を吐く。
「分かりやすくていい。でも折角だから、寝るのにも使いなさい。――あー、睡眠に」
あとはまず風呂に入ろう、と明確な了解の代わりに促した。ニビは満面の笑みで返事をした。
「や」
「どうかしてたよ。あんな状態の君に、いい年して……」
「タドさん。もう言わないでって。僕はあんな風に言ってもらって嬉しかったですよ? ちょっと頭が追っつかなくっていい感じの返事ができなかったのだけ残念ですけど」
食事をして、帰り道。隣に並んで歩きながら話す。普段よりはしっかり髪を纏めたタドは眉の寄る顔をして、これまでより目立たないが質のよい茶色の外套を着たニビがそれに笑う。
人気の疎らな大通り。夕食の済む時間でもまだ空の端が薄明るく空気は温い。街路樹には芽吹きの色が見えた。もうじき春だ。
花の香りは辺りからではなくニビから漂う。身に着けたときからは幾分飛んで変化した、開ききった花の風情を持つ芳香。食事の場には少し主張しすぎたほどのそれは、タドが描いたとおりの美しい花の姿だった。
やや身を屈め覗き込んでくる青年と目を合わせ、タドは曖昧に頷く。先ほどキンセも居た場で話題に出たのでぶり返した罪悪感だった。何度詫びても申し訳ないままだが、煩がられるのは避けたかった。
――あの日。医院のベッドでタドに迫られたニビは発熱で一晩寝込んだ。元々体が冷え風邪まで引いていたのだが、加えて興奮しすぎたのだ。今後の話などというものは体調が落ち着いてからにするべきだったと大いに後悔したタドだが――あんなことを口にするには追いつめられた場の勢いも必要だった。後にすればまた色々と考え尻込みしたに違いないのだ。ニビのほうも、余裕ができてしまったら素直にはいとは言えなかったかもしれない。状況的には世話になるしかないとはいえ、あれほどに言われてしまうと互いの好意を意識せざるを得ない。
それでも。あの日、あの場、あの状況で行き着いた答えは、はい、よろしくお願いします、だった。
「……もう一回口説いてみてって言ったらやってくれるんですか?」
あの時とは違う流暢さを取り戻した、含み笑う声にタドは弱る。
欲しいものは何でもあげると言った手前はあるが。ニビが明らかに冗談だという顔で反応を見ているので、視線を少し下へと逸らして肩を竦めた。
「できたら、勘弁してもらえると……」
「冗談冗談。有難みってモノがありますからね」
その気恥ずかしそうな返事も楽しんでニビはご機嫌だ。思い返す、酷い目に遭った日の記憶も最終的には悪くない。
元より心惹かれていたずっと年上の男が、セックスの最中でもないのに自分が欲しいと熱烈に訴えてくる。何がどうしてそうなったのかは当時まるで分からなかったが、改めて恋に落ちるには十分だった。
軽い返答にタドは内心ほっとして、滑らかな石畳の続く足元を見下ろした。
ニビの存在はもはや必要不可欠で、こんなことにもなってしまったし自分が面倒を見る、今からまず伝えてくるから待っていろ。などと親友兼雇い主に告げたときは、彼は駆け引きなど何一つ考えていなかったし――後にして思えばキンセはその勢いに完全に引いていたが、そうやって押し切ってしまえたのも云わば怪我の功名である。いかに男娼といえ、災難に見舞われた人を放り出すのは善心が咎めるものだ。あのタイミングがまたとない機だったのだ。
やや置いて主導権を取り戻したキンセが二人を擁護するのに出した交換条件は、ニビが男娼を辞めることと、タドの引っ越しだった。長年聞き流していたのが嘘のようにタドはすぐに頷いて、前に見に行ったところがまだ空いているか確認してくれと話を進めた。間取りなども悪くなく、ロンゼンからは少し離れるが市場が近くて、近所に大きなシナノキが植わっているのも教えられ、もし本当に越すなら此処かななどと思っていた矢先のことだった。
「あ、僕が開けます」
大木を通り過ぎ帰り着いた、以前より数段立派な家を見上げる。綺麗に塗られている白っぽい壁の二階建て、三世帯が横並びになる集合住居だ。飾り数字で三と書かれた扉が彼らの家で、数度訪れ引っ越しの荷物の運び込みもしたが、帰宅はこれが初めてだった。
ニビはさっと新しい鍵を取り出した。鍵も以前のものより一回り大きい。手首を捻り開ける所作はまだぎこちない。扉を開けて中へと進む足取りも探るような雰囲気がある。
ただいま、と確認のように二人で声を掛け合いながら、ランプに火を点して部屋を照らす。
「お疲れ様」
「確かにちょっと疲れたかも」
「茶を淹れようか」
今日は夕食の前にも色々なことがあった。
まず朝のうち、強盗の疑いのある男が捕まったとの一報を受けて警察に確認に行った。間違いなくあの男だとニビが証言した。
男の捕縛に至ったきっかけは、数日前にタドが偶然町中で特別な匂いを嗅ぎ取ったことだった。あの日部屋から盗まれた香水――彼がニビの香りを下地に作った例の新作、その試作品の香り。まだ世に出回ってはいない調合を彼が間違えるはずはなかった。身に着けていた女に贈った不届きな男が、余罪も多数で刑罰を受けることとなった。
他の物は何一つ返ってはこなかったが、これで終わって落ち着きはした。元通りなどではなく、大きな変化の上での一件落着だ。
そしてその後は香水店ロンゼンへと二人で向かった。予定していた仕事の為である。
改めて怪我も癒えたニビの容姿を認識したキンセは、むしろタドよりも熱心にニビを口説き始めた。ロンゼンの広告になってくれ、と言うのである。
かねてより新しい香水の宣伝方法を模索していた彼は、調香師が惚れた美青年を見ていて閃いた。新作のお披露目や店頭での香水の試供をするのにただ店員が手を貸すのではなく、もっと目を惹く存在が欲しい。それをニビにやらせたい。そういう話だった。
勿論働きの分は金を出すと言うので、ニビとしては断る理由がなかった。これから男娼を辞めるなら何か代わりの仕事が要る。――誰かに養われるのは楽だが、案外遊んでいるのは性に合わない。ましてや好いた相手と暮らすならば、そういう関係ではなく、という風にしておきたかった。
快諾の後はすぐ具体的な検討が始まった。どうニビを使うか、見せていくか、熱心に考え話し合われた。キンセとタドだけでなく、今日は店の従業員たちも寄って相談をした。
ただの店員との違いは。何処でどのように振舞うのか。何を着せるか、ロンゼンの制服か。もっと着飾るべきでは。装飾品の類は。髪型はどうするのか。纏めて、流行らしく編んで、逆に解いて。あれこれと着せ替え弄られては、真剣に意見を出し合い悩む人々の顔を見る。――ニビは話を聞いているだけだったが、数時間で浴びせられた情報の量はとんでもなく多かった。これまでは安い服を精々二枚三枚で着まわしている生活で、服をくれていた貴婦人も自らが着ていたものを気分で一着放って寄越すような人だったので、着丈の合う服を用意してもらえるだけでも新鮮だったけれど。そんな服の揃いを着た人々が立ち並ぶ、格式と高級感のある店内の装い、やはりずらりと並ぶ化粧瓶。香水とその表現、商品をより魅力的に見せ売り込む営業の作法、店の経営の話……となると本当にまったく未知の世界で、同じ場に居ても遠くの出来事のようだった。初対面の人と話をするのが苦にならないニビでもやはり疲れた。
「……彼らとは仲良くやれそうかい? 何かあったら言うんだよ」
あの場では誰にも劣らず意欲的で幾つかの意見は断固として譲らなかった調香師が、今は常以上に優しく気遣う声をかける。ニビは軽く頷いて差し出されるカップを受け取った。
茶を飲む時間も前と同じではない。テーブルと椅子が新しくなって、そうそう足がぶつからない程度の距離が出来た。椅子の座り心地はよくなり、景色も違う。先程までは隣で食事していた男が新しい部屋の中に居る姿を新鮮な気持ちで眺めながら手を温めて、ニビは飲むより先に口を動かす。
「女の人はすぐ仲良くなれるかも。男は一度引かれると難しいなァ。でもうん、悪い感じはしないかな、意外と。……僕はタドさんのほうが心配ですけど」
キンセがしっかり店側にも話を通してはいたものの。タドが連れてきた年若い彼について、他の従業員が何も思わないことはない。暫くタドと共に暮らす、などと聞けば皆想像が捗るものである。――実際、ほぼ想像どおりなのだ。愛人か、恋人か、それ以外の名前を付けるのかは、まだ二人は決めていないが。女でも皆驚いただろうが、男同士というのは店に相当の衝撃を齎していた。
ただし逆に、衝撃が大きすぎたのか今のところはそれで揉める気配もなく、拍子抜けするほどに円滑だった。今後も何もないとも限らないが――まあこれならなんとかなるだろうとニビは楽観している。整った容姿と愛想のよさを持って、空気を読んで人と仲良くなるのは得意だという自負があった。いける相手といけない相手を見極める勘もよく働く。
「俺はまあ、一応彼らより偉いってことになってるから。キンセがこうしたんだから大丈夫だろう。あいつの判断を信じる」
そしてタドも、そうと思っている。巻き込んだようでいて、もう完全に主導者になっている友人に全幅の信頼を見せて言う。
今の言い方なんか妬けるなあとは心中に。ニビはもう一つ頷いて、これだけは前と同じ味わいの茶をゆっくりと啜った。
一服の後、二人はまた揃って二階へと上がった。廊下にも灯りを増やす中で、確かめるように部屋の扉を開けてニビはふふんと笑う。右側の一室が彼の私室だ。現状物は多くないが、新品の椅子も箪笥もベッドも、室内のすべてがニビの所有物だ。知らないベッドはいつものことだったが、これからは此処で寝ると決まっていたことなど久しぶりで、彼は浮かれた。
その様子にタドも目を細める。家具などの購入は彼もあまり縁がなく不得手だったが頑張ったのが報われた気でいた。
「――ちなみにタドさん、どっちかで一緒に寝るんじゃ駄目なんですか?」
隣の部屋へと行く前に投げかけられた声。――返事の前に触れる手。色気を出してくるのに、タドは足を止めた。緩く振り返る。ランプの火に蕩ける甘い飴色の目と合う。
ニビが纏う今日の服はキンセが適当に調達してきたもので男物の普段着だが、香りは華やかだ。昼の衣装合わせの為に幾分多めにつけさせた香水が、この時間になってもタドの鼻には明瞭に感じとれる。彼がニビに合わせて選んだ香料を微に細に気遣い配合したものが、体温や汗と共に幾重もの花弁となり開いた花を象っている。
美しく花開く、つけた始めから終わるまで馨しい、言ったとおりの傑作だった。
「……寝るって言ってもその気だものなあ」
「僕は男娼ですよ。寝るって言ったら大体ソッチのことなんで。何でもしてくれるって言いましたしー」
自然、呼吸を深くして、そのまま味わいたい気持ちになるのを抑えて呟くが堪えぬ返事は流れるようだ。
肩やら腕やら、ぺたぺたと甘えて見下ろしてくる綺麗な顔にはタドは困ってしまう。彼はニビには何でも与えてやりたいし、確かに約束までした。が――今日の予定を見越して昨日は休憩としたにしても、日々こうなってくると少々心配だった。体力や精力に腰などが。それで一応、迷う。
しかしニビの何か絶妙な言動はその気にさせるのが上手すぎる。気持ちだけはもう完全に傾いていた。
「どっちかのベッドを寝るほうにして、どっちかのベッドをヤる用にっていうのはどうです」
そしてとどめに、以前の家でそうしていたようにと囁く声は腰に効く少し擦れた響きだ。ねだられたから仕方なく、などではなく、己の中にも情欲があるのを認めてタドは息を吐く。
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