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二人の夕べ
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「――それでは賛成多数、室長承認を以て、管理番号二〇‐〇三セヴラン・プレーツ氏を保管から訪問観察対応に戻すこととします。次の採取以後、速やかに帰宅させられるよう、担当園丁官は連携をとるように。任務完了予定は明日正午」
議長を務めた園丁官が発する言葉を長机の端で聞き届けて、カイは詰めていた息を吐き出した。隣のデニスと目配せして頷き合う。
安堵はしたが、彼らには意外な結果だった。この議論が案外簡単に決着したこと――居並ぶ研究棟の面々がセヴランの帰宅に賛成し、重要標本の多い庭ゆえに保護を継続すべきではとした保管庭園の意見を退けたことは。このあたりの説得、折り合いをつけるにはもっと苦労して、まだ何日もあの男の機嫌を取りながらやっていかなければならないのだろうと思っていたのだ。こうして会議に至るまでの日程調整で十日かかっているとはいえ、これはほぼ最短といえた。
会議が終わってすぐエミールに歩み寄るデニスに、カイもついていった。
「趣旨替え?」
絡みづらいと評判の研究主任にも、同期の彼は微塵も臆さない。エミールは忙しいのでさっさと勤務に戻りたいという意思を隠さず、会議室からの退室を促し歩きながら応じた。
「私は一貫しています。先程述べたとおり、データを見るとそちらのほうが賢明だと考えられた。研究の為です」
「もしかして、何か分かったんですか」
今度はカイが控えめに訊ねる。
会議中、エミールはあきらかに帰宅措置に前向きだった。日が経てば、設備や人員についての問題が出てきて判断せざるを得なくなるのでは――というカイたちの予想とはまったく異なる動きだ。今の言い方も違うように感じられた。データというのは、利益と保管の手間や経費などを秤にかけた話ではなく、もっと純粋な成果を見据えた話だと。
黄金果樹の発現も一騒動だったが、長年停滞していた庭の研究に何かが見えたならば、それは園丁官たちにとってさらなるニュースだ。カイは多少緊張して返事を待った。
しかし、足を止めぬまま、年若い後輩を見たエミールは曖昧な肯き方をした。
「正直、解明というよりは希望ですが……これからどのように動くべきか、予定が立つかもしれない、というところです。そういう段階ゆえにあまり軽々に口にしたくはありません。資料を作成して、来週の報告会で伝達します」
「なんだ、まだ秘密かい、来週は長くなりそうだな」
デニスも興味深そうな顔をしたが、追及はしない。慎重な男には先に教えろと言っても無駄なのを知っていた。軽く茶化すに留め、頷きが返ってくるのに肩を竦めた。
「帰宅後のデータが出ればまた確信に近づくと思います。貴方方には気を抜かないで観察するようお願いしたい。――発現した植物については勿論、庭自体の観察も」
一言、言い添える調子にカイは数秒考えこむ。庭自体、という言い方に、近頃は検査着を着た病院の患者めいた姿で定着してしまったセヴランの様子が思い浮かぶ。
「セヴランの……体調などですか?」
「ええ、体調など。明日も頼みましたよ、エッカルト。――それではまた」
他に思いつかず範囲をぼかした言葉はそのまま返された。数歩緩めて、通路を分かれ部下を引き連れて去っていくエミールの背を見送り、カイとデニスは向かい合う。言葉は何やら意味深に感じられ大変気になるが、それよりも。
「じゃあ、本人にも伝えにいこうか。――明日まで待てないって言いそうだな」
「言いますね、多分」
二人の見解は一致して苦笑いになる。それでもまずは本人を喜ばせてやりたいとは思っていた。
翌日、予定どおり採取を終えたセヴランは大分慣れてしまった部屋を出た。久々に自分の服を着て、職員同伴でたまの散歩をしていた通路や庭を抜け、馬車に乗る。敷地の外に出ると見える町並みがもう懐かしかった。
「やーっと出れたー」
歓声に、カイも笑みが零れる。家まで送り届けるのが今日の一番の仕事だ。あの家はセヴランが不在の間も点検しに行ってはいたが、当人が帰るのは実に二週間ぶりだ。
「ご苦労様。ご協力感謝します」
「いっぱい感謝してよ本当。全部我慢したんだからさ。ずっと見られてるしどこにも行けないし、毎日指刺すし。飯は出てくるけどさ……」
言葉は愚痴っぽいが顔は笑ったままだ。昼に向かい活気づいてきた街を見渡し、腕を伸ばす。
「あー、酒が飲みたいっ」
「まず家でゆっくりしたらどうだ」
「今帰って寝たら夕方には起きるよ。そしたら丁度よくない?」
朝の景色には不釣り合いな酒飲みの台詞に些か呆れ気味の声に、セヴランは隣を見遣って言い返す。何せ二週間ぶりである。さっさと一杯引っ掛けてそれから気持ちよく昼寝するのでも全然構わないと思うものの、一応体裁をとった。
「ねえ飲みに行こうよ。奢るからさ」
「いいけど、奢りはよせ」
勿論断られたいわけはなかったが、いつものやりとりのつもりだった。それでなるべく軽口らしく誘ってみたのに拒否ではない返事があるのに目を見開く。低い背凭れに寄りかかっていたところから起き上がり、身を捻ってカイのほうを向く。カイは姿勢を変えずに見返した。
「いいの? えっ、ほんと?」
「貴方の奢りじゃなければいい」
「カイが奢ってくれるの?」
「それも無しだ」
国家の軍人である園丁官として、仕事の相手とのやりとりに金銭が絡むとあまりよろしくない。それだけ明確に言い切ったカイの唇の端も堪えきれずに少し上がった。
セヴランが無事戻れるのを祝したい気持ちがあった。茶も飲めなかった分、誘われたら応えたかった。一緒に酒を飲みたかった。共に行けば彼が羽目を外すこともないだろうと、内心もっともらしい言い訳をした。
見る間にセヴランはもう一段明るい顔になって、そわと浮きたつ所作で自身の膝を撫でる。
「どうする何処行く。俺が決めていい?」
「食事もできるところがいいな」
「うん、そうしよ。任せて、美味いとこ知ってる」
カイは落ち着いているふりをして答えた。そのまま、馬車の上で夜の予定が固まった。
都市の各所に点在する銅像の一つ、四つ腕の鍛冶神が立つ三叉路で待ち合わせ、セヴラン行きつけの酒場に向かう。二人とも着替えて普段会うのとは違った装いだった。カイは軍服ではないもののいつもどおりぴしりとした雰囲気の上下一揃いにベストも着ていたが、セヴランは小奇麗にしていてもどことなく緩い。伸びた髪を括って帽子を被り、裾の長い上着を羽織っている。常より浮かれた足取りで、磨かれた靴が音を立てた。
土曜日で、広い店内は早い時間でももう賑わっていた。セヴランは慣れた調子で挨拶し席をとって、さっさと二人分エールを頼んだ。腰を下ろして揚々と品書きを広げる。
「さって、飲むぞー」
「ほどほどにしろよ」
「君と飲めるから昼は我慢したんだ」
「三杯までな」
「これは数えるなよ。――君が居るんだから酔いつぶれても平気だろ。そのつもりで多めに金持ってきてる」
「そんなわけあるか。潰れたら置いて帰るからな」
「ええー?」
言い合いながらも。すぐに運ばれてくるグラスを寄せ、乾杯、と掲げるままに呷ると自然笑みが溢れた。
腸詰めに芋の揚げ物、ピクルスやチーズもテーブルを埋めるだけ遠慮なく注文して、黒パンを齧った。こんな外食もセヴランは二週間ぶりだ。毎日本部近くの食堂から運ばれていた食事も普通に美味いものだったが、今日のこれは格別美味に感じられた。うまい、と喜んで食べて勧められるので、カイも気分よく口にする。
ただその傍ら。店員や常連らしき客からの、見慣れぬ客だからというだけではない視線をカイは感じた。少々気になる程度、居心地が悪くなる前には逸らされるし、悪い感情ではなさそうだったが――軍服を脱いだ今目立つわけでもないので、原因は此処に連れてきたセヴランのほうに違いなかった。
普段はどう過ごしているのかと、気になったが。その場では聞けない。
「カイはさ、なんで園丁官になったの」
手始めに一杯乾して軽く腹に詰め、次の注文までしたところでセヴランのほうが訊ねた。
二週間大変だったという愚痴は進行形で出尽くしており、折角やってきた機会にはそれよりもっと色んな話をしたかった。相手のことを詳しく知るようなやつだ。初めの頃のような面倒臭さはもうどこにも感じないで、カイは少しだけ考えて口を開く。
「――色々ある」
自分の手元にはまだ酒が残っているのを眺めながら続けた。
「本当は庭師とか花屋をやりたかったんだけどな。医者の家だから、皆にそっちに行くものだと思われていて――まあ俺自身ちょっと悩みはして。それで再検討したときに、こういう仕事があるって知った。……神話も好きだし、神々の園の植物なんて聞いたら、見てみたかった。だからやってみようと思った」
「仕事にしたいほど花好きだったの? いやていうか、仕事にしてんのか、結局」
「綺麗でいいだろ? 自分で育てると毎日変化が見えてより楽しい。食べられるものもできたりするし、すごくやりがいがある」
「まあそりゃ綺麗だろうけど」
植物全般、好きかというと大好きだ。仕事にしたかったし、趣味でやっているのも大層熱心である。綺麗なものを眺めるのも、育てるのも、どんな庭にしていくかと計画するのも悩ましくも楽しい。広い部類の家の庭でも場所が足りなくなってきたくらいだった。そういうのは、花といえば綺麗、くらいに思っているだけで何か育てたこともないセヴランにはぴんとこない。最近体に生えてくる植物は愛着を抱くにはちょっと成長が早すぎた。
多分草花の話をするとずっと同じ顔をしているだろう相手を前に、酒を飲みつつ、カイはもう少し考えた。園丁官になったきっかけは包み隠さず今のとおりだが、その前にはまだあるなと思った。
「でも多分、医者じゃなく……と思っていたのは、ちょっとだけ家から離れたかったからだな」
「仲悪いの」
意外そうに瞬いたセヴランの問いにはすぐ首を振った。
「いや、いいほうだと思う。ただなんとなく、――外に出てみたい、くらいだ。冒険心というか。まだ出れてないんだが。そろそろ一人で暮らしてみたい」
と、思ってたのだけれど。とまでは言わなかった。いつかは、とはまだ思っている。まだ甥も可愛がり足りないし、もう少し後でよいが。
カイが腸詰めにフォークを立てるのを眺め、セヴランは頬杖をつく。
「えー、一人大変だけどな。全部自分でやんなきゃだよ。まあやらなくても怒る人はいないけど」
全部というほどの家事はまるでやっていない――のはもう知っているだろうとばかりに笑う。カイはその目に、微かに寂しさが過ぎるのを見た。決意して彼も一歩、相手の質問を真似るようにしてセヴランに踏み込んだ。
「貴方は、……仕事は?」
「お察しのとおり竪琴弾きさ。ろくにできなかった時期があって、干されちゃったけど」
セヴランのほうも、訊かれて嫌だと思うことはもうなかった。ただ少し声を小さくして、ちらと横も見た。そうして誤魔化すように酒を飲む。
四年前のことだろうとカイは推察した。母親の死がきっかけで仕事も私生活も駄目になったのだと、ほとんど確信に近く思った。一人暮らしの家がセヴランさえ暮らしていないようにがらんとしているのを知っていた。楽器がすっかり埃を被っていたのも目にしている。
しかし最近は多少雰囲気が変わって――変えて、その中で彼がまた弾くようになったことも。
爪弾いているときのセヴランの表情も知っていた。
「……別に、また弾けるなら弾けばいいだろう。広場でも何処でも」
思い出して、カイの声は真剣に低くなる。
彼は楽師の事情には詳しくなかった。何処で弾くのにどういう理由があるのか、ただ弾くのと弾いて稼ぐのとにどんな違いがあるのかは分からなかった。しかし――口にすると下手な慰めのようだなとも思ったが、心底本心だった。もうやらない、と諦めるには勿体無い。セヴランは弾きたがっている。それならと思う。
本部でも、セヴランの振る舞いは厄介がられていたが、竪琴だけは誰にも評判がよかった。それほどのものなのだ。きっと何処だってよいと思った。
「……広場。それもいいな。言われたとおり日向ぼっこもできる」
セヴランは繰り返し――出会ってからずっと注意されてきた庭としての自覚を示して笑う。いいな、と呟いてテーブルに置いた自身の手を見た。カイも指先を見遣って問うた。
「……弾くようになったきっかけは?」
「……生まれたときから弾いてた」
セヴランは懐かしむように、そして誇るように呟いた。
「母さんが竪琴弾きだった。だから俺の一番のおもちゃは竪琴で、いつも近くにあった。母さんから教わった。――二人で弾いた。毎日、沢山、ずっと。子供の頃から稼いだよ。子供だとちょっと上手いと大げさに褒めてもらえる。そうすると調子乗って上達する」
言いながら、以前は仕事場でもあった馴染みの場所を見渡して、カイを見て笑う。やはり少し寂しい笑顔で。
「でも本当になかなかの腕前だろ、俺。母さんほどじゃないけどさ」
カイは口を開いたが――母はどうしたんだとは、やっぱり訊けなかった。もう知っていた。それをセヴランのほうも何となく察した。園丁官の立場を通して色々と知られた仲だったから気にしなかった。それで済むのにほっとしてもいた。
それから暫らく、旬の茸料理や酒も追加して、二人はもっと取り留めのない話をした。
二週間、こうして酒場で食べるような、いつもは添え物のつもりで口にする一皿がいざ食べられないとなるとどうしようもなく食べたかったこと。酒は寝酒に一杯くらいはよかったのではという意見。
園丁官になるには医学の基礎知識を身に着ける必要があるので医者の家の人間も多いが、大半は次男三男であり、昔から義兄が父の弟子として家に出入りしていたのでカイも気分的には次男だということ。一方植物学や神話の専門から入ってくる人も当然いて、そういう人たちは本当に知識が豊富で尊敬すること。まだまだ勉強だとカイが言えば、神話なら自分だって詳しいから、質問があれば受けつけようとセヴランが胸を張る。
医者や軍人と聞けばいかにもモテそうな感じなのに恋人がいないのは本当なのか、居たこともないのかとセヴランは茶化したが、そういうアンタこそどうなんだとカイが言い返してやると途端に黙り込んだ。セヴランは女好きではあったが、こんな振る舞いで甲斐性なしなのでモテはしない。経験のすべては娼婦の相手だった。
「一人で居るのって、寂しいか」
やがて飲み進めて心地よい酔いが回ってきたところで、カイは再び決意して、身を寄せるような気分で訊ねた。
あの夜の一言に引き留められて、気づけばこうして酒を飲むような関係になった。全然そんなつもりはなかったのに不思議なものだと思う。
――まだ寂しいか。いつも寂しいのか。俺はそれを、どうにかできるだろうか。
どうにかしたいと考えて、しかしそこまでは言えないで反応を窺う。
セヴランは碧い瞳の動きを追って空いた皿を眺めつつ質問の意図を考え、また一人暮らしの話だなと思った。小さい物に変わった杯を傾け、体を温める蒸留酒をぐびりと飲んで、数度頷いた。
「寂しいね。寝るときも、起きても、話し相手もカードの相手もいない。家が静かで、風邪を引いてても誰も何もしてくれない。だから、俺はやだな」
「そうか、」
「君、一人暮らしするなら俺んちの近くにしなよ。――あ、部屋貸そうか?」
「いや、いやいや」
一瞬、またしんみりとしたが。何か返す前にされた思いがけない提案にカイは驚き、笑ってしまいながら首を振った。庭と園丁官としてそれはまずい。けれど、まずいと思うのが先で、嫌ではなかった。仕事のことがなければちょっと考えたかも知れない。
それは――悪くないのかもしれない。大体一人暮らしではなくなるが。
考えて、幾らか具体的な想像もした。口には一切出さなかった。その分酒が進んだ。
そうして二人でもう一杯ずつ飲んだ。そろそろ切り上げようとカイが決めたところで、セヴランは囁く。
「家で歌ってやるよ」
まだ飲みたい、のは今日のところは我慢するが、楽しい時間を終わらせたくないと引き留める。
「そんな酔っ払いで弾けるか」
「酔ってたって竪琴くらい弾ける」
言い切って、最初に話していたとおり支払いは半々に帰路につく。灯りの並ぶ道を、家はあっちだと示した腕がそのまま、カイの肩を抱いた。
「――おい、重い」
「重くないだろ別にぃ」
「ちゃんと歩けよ……」
「歩いてるよ、ほらまっすぐ」
注意には笑い声と甘えた声が重なる。
セヴランは酒場育ちなので、実は並程度には飲める。普通に飲んだ三、四杯くらいなら酔ったとして十分歩いて帰れる。しかし酒も弱いのだと思い込んでいるカイは、半分ふりでじゃれつかれていることに気づかない。酒の所為にしてもたれてみても呆れるだけで振り払われないのに嬉しくなった男の身の預け方に遠慮がなかったというのもある。
大体にして、セヴランが肩を組んできた時点で、カイの気持ちには余裕がなくなっていた。冷えた秋風の中で寄り添った体の温かさ、すぐ傍でする気慣れした声、至極幸せそうな鼻歌、二人してちょっとばかり酒臭いのに交じる他人の匂い。すべてが彼の心臓を早くして思考を奪った。こういうとき、支えてやるにはどうやって触れるのだったか忘れてしまって腕は上手く動かなかった。
触れた人の体をこんなにも意識するのは初めてだった。飲んでいた間より余程、酒が回った。
二人で帰って灯りを点けた家の中、セヴランはカイをベッドに座らせた。帽子や上着は脱ぎ散らかして、袖を捲る。自身は立って正面に向かい合い、ふふんと笑み、自信たっぷりに竪琴を構える。
「なーににしようか、な」
その様を幾分ぼうとして見遣るカイに、へらりと微笑む。酔っ払いの笑顔だった。本当にちゃんと弾けるのだろうかと、カイが疑ったのは束の間のことだった。
指先が軽やかに弦を撫でる。ぽろ、と零れるように音がする。ぽん、ぽろん、と連なって、曲になった。
それは酒場の喧騒から離れた場所に似合いの静かな曲だった。
「まっさら、古き、波しぶき、最初の話を聞かせよう。これは神々の歌。遥か昔のことなれど、今このときに至る我らの歌――」
歌って、指先が動く。音が響く。誰もが知っている神話の導入だ。
世界の始まりは海だった。大神リーアーがその上澄みを天に切り分けた。その所作が大地をも生んだ。
このことから海と天は兄弟であり、大地は子である。神々は降り立ち様々に成した……
「麗し、麗し、泡沫の」
親や教師が最初に子供たちに言って聞かせる話だ。カイにとっても何度も聞いたことのある歌だった。しかしこんな酒を飲んだ後、酔い醒ましのように聴くのは初めてで――実によかった。話しているのとは違う美声が歌うのが身に沁みるように響いて気持ちよかった。
――セヴランは歌っていると様になって格好いい。
ほろ酔いの意識で素直に思う。暗がりに揺らめく火に似た巧みな指捌きに見惚れて聞き入った。気づけば歌い終わっている。さざ波が遠ざかるように竪琴の音が小さくなる。ふ、と一瞬立ち返るだけの間を空けて次の音が響く。
「ああ、ん、指がもつれる。ほんとはもっと上手いんだ」
セヴランがもどかしがって小さく言い訳する。彼が思い描くより縺れるのは、弾いていない時間が長くて動きが鈍ったからだ。それもここ最近ずっと奏でていたので取り戻したほうだった。
酔っ払いの指でも弾ける竪琴を、長らく弾けなくしたのは孤独の悲しみだ。ようやく、癒えた。
暫しの間を繋ぐ音階から移って響くのはまた、カイにも聞き覚えのある旋律だった。親しんだものではない。それでも初めて聞いたときから忘れられないその調べに、ああ、と顔が綻んだ。
「また聴きたかったんだ」
庭常を伝って聞こえた彼方の庭園の歌。その、再現だ。
「いい曲だよな。さすが神様の音楽――」
「貴方の竪琴でまた聴きたいとずっと思ってた」
セヴランが言ううちにカイは深く頷いて続けた。未だ、自分だけが聞いた元の調べを思うセヴランに対し、純粋に今前に立つ竪琴弾きを喜ぶ言葉だった。
カイにとってこの曲はセヴランのものだ。庭が奏でた美しい音楽。景色と言ってもよいのかもしれない。
あのときは美しくも寂しい景色だった。それが今は、緑の盛りか花の時期を迎えたように思える。だから尚更に、カイは嬉しい。
「……光栄だな」
セヴランは瞬き、自分を見上げて笑む男の顔を眺めて、少し照れて、改めて手を動かし始めた。もう一杯酒を呷ったように体の芯がじんわりと熱るのを感じながら、一層機嫌よく竪琴を撫でた。弦を張り直し手入れをした相棒は以前より調子よく響く。歌声が乗った。
それから夜更けまで、セヴランはカイに神話の歌を幾つも聞かせた。歌だけではなく語りもした。旋律も言葉もすべて覚えている。自らの記憶力を披露して誰の話をしようかと聴衆に訊ねる、神話の登場人物を家系や交友関係で諳んじていく連想歌は淀みなく。じゃあ植物の出てくる話、と思い起こして、黄金の果実の賛歌や、花の姫たちの歌を。女神サリュラーエと英雄グロインの歌はやらなかった。
楽しい楽しい夜だった。
酒に酔い歌に酔う心地よさのまま一つの寝台で寝てしまって、起きるのはカイのほうが早い。まだ夢の中の隣の人を見て、部屋を照らす朝日に彼は思う。
竪琴は磨かれたけれど。この部屋は日当たりばかりがよくて、明るいのに物悲しい。もっと、もっと――植物でも置いたほうがいい。それを、思った。
議長を務めた園丁官が発する言葉を長机の端で聞き届けて、カイは詰めていた息を吐き出した。隣のデニスと目配せして頷き合う。
安堵はしたが、彼らには意外な結果だった。この議論が案外簡単に決着したこと――居並ぶ研究棟の面々がセヴランの帰宅に賛成し、重要標本の多い庭ゆえに保護を継続すべきではとした保管庭園の意見を退けたことは。このあたりの説得、折り合いをつけるにはもっと苦労して、まだ何日もあの男の機嫌を取りながらやっていかなければならないのだろうと思っていたのだ。こうして会議に至るまでの日程調整で十日かかっているとはいえ、これはほぼ最短といえた。
会議が終わってすぐエミールに歩み寄るデニスに、カイもついていった。
「趣旨替え?」
絡みづらいと評判の研究主任にも、同期の彼は微塵も臆さない。エミールは忙しいのでさっさと勤務に戻りたいという意思を隠さず、会議室からの退室を促し歩きながら応じた。
「私は一貫しています。先程述べたとおり、データを見るとそちらのほうが賢明だと考えられた。研究の為です」
「もしかして、何か分かったんですか」
今度はカイが控えめに訊ねる。
会議中、エミールはあきらかに帰宅措置に前向きだった。日が経てば、設備や人員についての問題が出てきて判断せざるを得なくなるのでは――というカイたちの予想とはまったく異なる動きだ。今の言い方も違うように感じられた。データというのは、利益と保管の手間や経費などを秤にかけた話ではなく、もっと純粋な成果を見据えた話だと。
黄金果樹の発現も一騒動だったが、長年停滞していた庭の研究に何かが見えたならば、それは園丁官たちにとってさらなるニュースだ。カイは多少緊張して返事を待った。
しかし、足を止めぬまま、年若い後輩を見たエミールは曖昧な肯き方をした。
「正直、解明というよりは希望ですが……これからどのように動くべきか、予定が立つかもしれない、というところです。そういう段階ゆえにあまり軽々に口にしたくはありません。資料を作成して、来週の報告会で伝達します」
「なんだ、まだ秘密かい、来週は長くなりそうだな」
デニスも興味深そうな顔をしたが、追及はしない。慎重な男には先に教えろと言っても無駄なのを知っていた。軽く茶化すに留め、頷きが返ってくるのに肩を竦めた。
「帰宅後のデータが出ればまた確信に近づくと思います。貴方方には気を抜かないで観察するようお願いしたい。――発現した植物については勿論、庭自体の観察も」
一言、言い添える調子にカイは数秒考えこむ。庭自体、という言い方に、近頃は検査着を着た病院の患者めいた姿で定着してしまったセヴランの様子が思い浮かぶ。
「セヴランの……体調などですか?」
「ええ、体調など。明日も頼みましたよ、エッカルト。――それではまた」
他に思いつかず範囲をぼかした言葉はそのまま返された。数歩緩めて、通路を分かれ部下を引き連れて去っていくエミールの背を見送り、カイとデニスは向かい合う。言葉は何やら意味深に感じられ大変気になるが、それよりも。
「じゃあ、本人にも伝えにいこうか。――明日まで待てないって言いそうだな」
「言いますね、多分」
二人の見解は一致して苦笑いになる。それでもまずは本人を喜ばせてやりたいとは思っていた。
翌日、予定どおり採取を終えたセヴランは大分慣れてしまった部屋を出た。久々に自分の服を着て、職員同伴でたまの散歩をしていた通路や庭を抜け、馬車に乗る。敷地の外に出ると見える町並みがもう懐かしかった。
「やーっと出れたー」
歓声に、カイも笑みが零れる。家まで送り届けるのが今日の一番の仕事だ。あの家はセヴランが不在の間も点検しに行ってはいたが、当人が帰るのは実に二週間ぶりだ。
「ご苦労様。ご協力感謝します」
「いっぱい感謝してよ本当。全部我慢したんだからさ。ずっと見られてるしどこにも行けないし、毎日指刺すし。飯は出てくるけどさ……」
言葉は愚痴っぽいが顔は笑ったままだ。昼に向かい活気づいてきた街を見渡し、腕を伸ばす。
「あー、酒が飲みたいっ」
「まず家でゆっくりしたらどうだ」
「今帰って寝たら夕方には起きるよ。そしたら丁度よくない?」
朝の景色には不釣り合いな酒飲みの台詞に些か呆れ気味の声に、セヴランは隣を見遣って言い返す。何せ二週間ぶりである。さっさと一杯引っ掛けてそれから気持ちよく昼寝するのでも全然構わないと思うものの、一応体裁をとった。
「ねえ飲みに行こうよ。奢るからさ」
「いいけど、奢りはよせ」
勿論断られたいわけはなかったが、いつものやりとりのつもりだった。それでなるべく軽口らしく誘ってみたのに拒否ではない返事があるのに目を見開く。低い背凭れに寄りかかっていたところから起き上がり、身を捻ってカイのほうを向く。カイは姿勢を変えずに見返した。
「いいの? えっ、ほんと?」
「貴方の奢りじゃなければいい」
「カイが奢ってくれるの?」
「それも無しだ」
国家の軍人である園丁官として、仕事の相手とのやりとりに金銭が絡むとあまりよろしくない。それだけ明確に言い切ったカイの唇の端も堪えきれずに少し上がった。
セヴランが無事戻れるのを祝したい気持ちがあった。茶も飲めなかった分、誘われたら応えたかった。一緒に酒を飲みたかった。共に行けば彼が羽目を外すこともないだろうと、内心もっともらしい言い訳をした。
見る間にセヴランはもう一段明るい顔になって、そわと浮きたつ所作で自身の膝を撫でる。
「どうする何処行く。俺が決めていい?」
「食事もできるところがいいな」
「うん、そうしよ。任せて、美味いとこ知ってる」
カイは落ち着いているふりをして答えた。そのまま、馬車の上で夜の予定が固まった。
都市の各所に点在する銅像の一つ、四つ腕の鍛冶神が立つ三叉路で待ち合わせ、セヴラン行きつけの酒場に向かう。二人とも着替えて普段会うのとは違った装いだった。カイは軍服ではないもののいつもどおりぴしりとした雰囲気の上下一揃いにベストも着ていたが、セヴランは小奇麗にしていてもどことなく緩い。伸びた髪を括って帽子を被り、裾の長い上着を羽織っている。常より浮かれた足取りで、磨かれた靴が音を立てた。
土曜日で、広い店内は早い時間でももう賑わっていた。セヴランは慣れた調子で挨拶し席をとって、さっさと二人分エールを頼んだ。腰を下ろして揚々と品書きを広げる。
「さって、飲むぞー」
「ほどほどにしろよ」
「君と飲めるから昼は我慢したんだ」
「三杯までな」
「これは数えるなよ。――君が居るんだから酔いつぶれても平気だろ。そのつもりで多めに金持ってきてる」
「そんなわけあるか。潰れたら置いて帰るからな」
「ええー?」
言い合いながらも。すぐに運ばれてくるグラスを寄せ、乾杯、と掲げるままに呷ると自然笑みが溢れた。
腸詰めに芋の揚げ物、ピクルスやチーズもテーブルを埋めるだけ遠慮なく注文して、黒パンを齧った。こんな外食もセヴランは二週間ぶりだ。毎日本部近くの食堂から運ばれていた食事も普通に美味いものだったが、今日のこれは格別美味に感じられた。うまい、と喜んで食べて勧められるので、カイも気分よく口にする。
ただその傍ら。店員や常連らしき客からの、見慣れぬ客だからというだけではない視線をカイは感じた。少々気になる程度、居心地が悪くなる前には逸らされるし、悪い感情ではなさそうだったが――軍服を脱いだ今目立つわけでもないので、原因は此処に連れてきたセヴランのほうに違いなかった。
普段はどう過ごしているのかと、気になったが。その場では聞けない。
「カイはさ、なんで園丁官になったの」
手始めに一杯乾して軽く腹に詰め、次の注文までしたところでセヴランのほうが訊ねた。
二週間大変だったという愚痴は進行形で出尽くしており、折角やってきた機会にはそれよりもっと色んな話をしたかった。相手のことを詳しく知るようなやつだ。初めの頃のような面倒臭さはもうどこにも感じないで、カイは少しだけ考えて口を開く。
「――色々ある」
自分の手元にはまだ酒が残っているのを眺めながら続けた。
「本当は庭師とか花屋をやりたかったんだけどな。医者の家だから、皆にそっちに行くものだと思われていて――まあ俺自身ちょっと悩みはして。それで再検討したときに、こういう仕事があるって知った。……神話も好きだし、神々の園の植物なんて聞いたら、見てみたかった。だからやってみようと思った」
「仕事にしたいほど花好きだったの? いやていうか、仕事にしてんのか、結局」
「綺麗でいいだろ? 自分で育てると毎日変化が見えてより楽しい。食べられるものもできたりするし、すごくやりがいがある」
「まあそりゃ綺麗だろうけど」
植物全般、好きかというと大好きだ。仕事にしたかったし、趣味でやっているのも大層熱心である。綺麗なものを眺めるのも、育てるのも、どんな庭にしていくかと計画するのも悩ましくも楽しい。広い部類の家の庭でも場所が足りなくなってきたくらいだった。そういうのは、花といえば綺麗、くらいに思っているだけで何か育てたこともないセヴランにはぴんとこない。最近体に生えてくる植物は愛着を抱くにはちょっと成長が早すぎた。
多分草花の話をするとずっと同じ顔をしているだろう相手を前に、酒を飲みつつ、カイはもう少し考えた。園丁官になったきっかけは包み隠さず今のとおりだが、その前にはまだあるなと思った。
「でも多分、医者じゃなく……と思っていたのは、ちょっとだけ家から離れたかったからだな」
「仲悪いの」
意外そうに瞬いたセヴランの問いにはすぐ首を振った。
「いや、いいほうだと思う。ただなんとなく、――外に出てみたい、くらいだ。冒険心というか。まだ出れてないんだが。そろそろ一人で暮らしてみたい」
と、思ってたのだけれど。とまでは言わなかった。いつかは、とはまだ思っている。まだ甥も可愛がり足りないし、もう少し後でよいが。
カイが腸詰めにフォークを立てるのを眺め、セヴランは頬杖をつく。
「えー、一人大変だけどな。全部自分でやんなきゃだよ。まあやらなくても怒る人はいないけど」
全部というほどの家事はまるでやっていない――のはもう知っているだろうとばかりに笑う。カイはその目に、微かに寂しさが過ぎるのを見た。決意して彼も一歩、相手の質問を真似るようにしてセヴランに踏み込んだ。
「貴方は、……仕事は?」
「お察しのとおり竪琴弾きさ。ろくにできなかった時期があって、干されちゃったけど」
セヴランのほうも、訊かれて嫌だと思うことはもうなかった。ただ少し声を小さくして、ちらと横も見た。そうして誤魔化すように酒を飲む。
四年前のことだろうとカイは推察した。母親の死がきっかけで仕事も私生活も駄目になったのだと、ほとんど確信に近く思った。一人暮らしの家がセヴランさえ暮らしていないようにがらんとしているのを知っていた。楽器がすっかり埃を被っていたのも目にしている。
しかし最近は多少雰囲気が変わって――変えて、その中で彼がまた弾くようになったことも。
爪弾いているときのセヴランの表情も知っていた。
「……別に、また弾けるなら弾けばいいだろう。広場でも何処でも」
思い出して、カイの声は真剣に低くなる。
彼は楽師の事情には詳しくなかった。何処で弾くのにどういう理由があるのか、ただ弾くのと弾いて稼ぐのとにどんな違いがあるのかは分からなかった。しかし――口にすると下手な慰めのようだなとも思ったが、心底本心だった。もうやらない、と諦めるには勿体無い。セヴランは弾きたがっている。それならと思う。
本部でも、セヴランの振る舞いは厄介がられていたが、竪琴だけは誰にも評判がよかった。それほどのものなのだ。きっと何処だってよいと思った。
「……広場。それもいいな。言われたとおり日向ぼっこもできる」
セヴランは繰り返し――出会ってからずっと注意されてきた庭としての自覚を示して笑う。いいな、と呟いてテーブルに置いた自身の手を見た。カイも指先を見遣って問うた。
「……弾くようになったきっかけは?」
「……生まれたときから弾いてた」
セヴランは懐かしむように、そして誇るように呟いた。
「母さんが竪琴弾きだった。だから俺の一番のおもちゃは竪琴で、いつも近くにあった。母さんから教わった。――二人で弾いた。毎日、沢山、ずっと。子供の頃から稼いだよ。子供だとちょっと上手いと大げさに褒めてもらえる。そうすると調子乗って上達する」
言いながら、以前は仕事場でもあった馴染みの場所を見渡して、カイを見て笑う。やはり少し寂しい笑顔で。
「でも本当になかなかの腕前だろ、俺。母さんほどじゃないけどさ」
カイは口を開いたが――母はどうしたんだとは、やっぱり訊けなかった。もう知っていた。それをセヴランのほうも何となく察した。園丁官の立場を通して色々と知られた仲だったから気にしなかった。それで済むのにほっとしてもいた。
それから暫らく、旬の茸料理や酒も追加して、二人はもっと取り留めのない話をした。
二週間、こうして酒場で食べるような、いつもは添え物のつもりで口にする一皿がいざ食べられないとなるとどうしようもなく食べたかったこと。酒は寝酒に一杯くらいはよかったのではという意見。
園丁官になるには医学の基礎知識を身に着ける必要があるので医者の家の人間も多いが、大半は次男三男であり、昔から義兄が父の弟子として家に出入りしていたのでカイも気分的には次男だということ。一方植物学や神話の専門から入ってくる人も当然いて、そういう人たちは本当に知識が豊富で尊敬すること。まだまだ勉強だとカイが言えば、神話なら自分だって詳しいから、質問があれば受けつけようとセヴランが胸を張る。
医者や軍人と聞けばいかにもモテそうな感じなのに恋人がいないのは本当なのか、居たこともないのかとセヴランは茶化したが、そういうアンタこそどうなんだとカイが言い返してやると途端に黙り込んだ。セヴランは女好きではあったが、こんな振る舞いで甲斐性なしなのでモテはしない。経験のすべては娼婦の相手だった。
「一人で居るのって、寂しいか」
やがて飲み進めて心地よい酔いが回ってきたところで、カイは再び決意して、身を寄せるような気分で訊ねた。
あの夜の一言に引き留められて、気づけばこうして酒を飲むような関係になった。全然そんなつもりはなかったのに不思議なものだと思う。
――まだ寂しいか。いつも寂しいのか。俺はそれを、どうにかできるだろうか。
どうにかしたいと考えて、しかしそこまでは言えないで反応を窺う。
セヴランは碧い瞳の動きを追って空いた皿を眺めつつ質問の意図を考え、また一人暮らしの話だなと思った。小さい物に変わった杯を傾け、体を温める蒸留酒をぐびりと飲んで、数度頷いた。
「寂しいね。寝るときも、起きても、話し相手もカードの相手もいない。家が静かで、風邪を引いてても誰も何もしてくれない。だから、俺はやだな」
「そうか、」
「君、一人暮らしするなら俺んちの近くにしなよ。――あ、部屋貸そうか?」
「いや、いやいや」
一瞬、またしんみりとしたが。何か返す前にされた思いがけない提案にカイは驚き、笑ってしまいながら首を振った。庭と園丁官としてそれはまずい。けれど、まずいと思うのが先で、嫌ではなかった。仕事のことがなければちょっと考えたかも知れない。
それは――悪くないのかもしれない。大体一人暮らしではなくなるが。
考えて、幾らか具体的な想像もした。口には一切出さなかった。その分酒が進んだ。
そうして二人でもう一杯ずつ飲んだ。そろそろ切り上げようとカイが決めたところで、セヴランは囁く。
「家で歌ってやるよ」
まだ飲みたい、のは今日のところは我慢するが、楽しい時間を終わらせたくないと引き留める。
「そんな酔っ払いで弾けるか」
「酔ってたって竪琴くらい弾ける」
言い切って、最初に話していたとおり支払いは半々に帰路につく。灯りの並ぶ道を、家はあっちだと示した腕がそのまま、カイの肩を抱いた。
「――おい、重い」
「重くないだろ別にぃ」
「ちゃんと歩けよ……」
「歩いてるよ、ほらまっすぐ」
注意には笑い声と甘えた声が重なる。
セヴランは酒場育ちなので、実は並程度には飲める。普通に飲んだ三、四杯くらいなら酔ったとして十分歩いて帰れる。しかし酒も弱いのだと思い込んでいるカイは、半分ふりでじゃれつかれていることに気づかない。酒の所為にしてもたれてみても呆れるだけで振り払われないのに嬉しくなった男の身の預け方に遠慮がなかったというのもある。
大体にして、セヴランが肩を組んできた時点で、カイの気持ちには余裕がなくなっていた。冷えた秋風の中で寄り添った体の温かさ、すぐ傍でする気慣れした声、至極幸せそうな鼻歌、二人してちょっとばかり酒臭いのに交じる他人の匂い。すべてが彼の心臓を早くして思考を奪った。こういうとき、支えてやるにはどうやって触れるのだったか忘れてしまって腕は上手く動かなかった。
触れた人の体をこんなにも意識するのは初めてだった。飲んでいた間より余程、酒が回った。
二人で帰って灯りを点けた家の中、セヴランはカイをベッドに座らせた。帽子や上着は脱ぎ散らかして、袖を捲る。自身は立って正面に向かい合い、ふふんと笑み、自信たっぷりに竪琴を構える。
「なーににしようか、な」
その様を幾分ぼうとして見遣るカイに、へらりと微笑む。酔っ払いの笑顔だった。本当にちゃんと弾けるのだろうかと、カイが疑ったのは束の間のことだった。
指先が軽やかに弦を撫でる。ぽろ、と零れるように音がする。ぽん、ぽろん、と連なって、曲になった。
それは酒場の喧騒から離れた場所に似合いの静かな曲だった。
「まっさら、古き、波しぶき、最初の話を聞かせよう。これは神々の歌。遥か昔のことなれど、今このときに至る我らの歌――」
歌って、指先が動く。音が響く。誰もが知っている神話の導入だ。
世界の始まりは海だった。大神リーアーがその上澄みを天に切り分けた。その所作が大地をも生んだ。
このことから海と天は兄弟であり、大地は子である。神々は降り立ち様々に成した……
「麗し、麗し、泡沫の」
親や教師が最初に子供たちに言って聞かせる話だ。カイにとっても何度も聞いたことのある歌だった。しかしこんな酒を飲んだ後、酔い醒ましのように聴くのは初めてで――実によかった。話しているのとは違う美声が歌うのが身に沁みるように響いて気持ちよかった。
――セヴランは歌っていると様になって格好いい。
ほろ酔いの意識で素直に思う。暗がりに揺らめく火に似た巧みな指捌きに見惚れて聞き入った。気づけば歌い終わっている。さざ波が遠ざかるように竪琴の音が小さくなる。ふ、と一瞬立ち返るだけの間を空けて次の音が響く。
「ああ、ん、指がもつれる。ほんとはもっと上手いんだ」
セヴランがもどかしがって小さく言い訳する。彼が思い描くより縺れるのは、弾いていない時間が長くて動きが鈍ったからだ。それもここ最近ずっと奏でていたので取り戻したほうだった。
酔っ払いの指でも弾ける竪琴を、長らく弾けなくしたのは孤独の悲しみだ。ようやく、癒えた。
暫しの間を繋ぐ音階から移って響くのはまた、カイにも聞き覚えのある旋律だった。親しんだものではない。それでも初めて聞いたときから忘れられないその調べに、ああ、と顔が綻んだ。
「また聴きたかったんだ」
庭常を伝って聞こえた彼方の庭園の歌。その、再現だ。
「いい曲だよな。さすが神様の音楽――」
「貴方の竪琴でまた聴きたいとずっと思ってた」
セヴランが言ううちにカイは深く頷いて続けた。未だ、自分だけが聞いた元の調べを思うセヴランに対し、純粋に今前に立つ竪琴弾きを喜ぶ言葉だった。
カイにとってこの曲はセヴランのものだ。庭が奏でた美しい音楽。景色と言ってもよいのかもしれない。
あのときは美しくも寂しい景色だった。それが今は、緑の盛りか花の時期を迎えたように思える。だから尚更に、カイは嬉しい。
「……光栄だな」
セヴランは瞬き、自分を見上げて笑む男の顔を眺めて、少し照れて、改めて手を動かし始めた。もう一杯酒を呷ったように体の芯がじんわりと熱るのを感じながら、一層機嫌よく竪琴を撫でた。弦を張り直し手入れをした相棒は以前より調子よく響く。歌声が乗った。
それから夜更けまで、セヴランはカイに神話の歌を幾つも聞かせた。歌だけではなく語りもした。旋律も言葉もすべて覚えている。自らの記憶力を披露して誰の話をしようかと聴衆に訊ねる、神話の登場人物を家系や交友関係で諳んじていく連想歌は淀みなく。じゃあ植物の出てくる話、と思い起こして、黄金の果実の賛歌や、花の姫たちの歌を。女神サリュラーエと英雄グロインの歌はやらなかった。
楽しい楽しい夜だった。
酒に酔い歌に酔う心地よさのまま一つの寝台で寝てしまって、起きるのはカイのほうが早い。まだ夢の中の隣の人を見て、部屋を照らす朝日に彼は思う。
竪琴は磨かれたけれど。この部屋は日当たりばかりがよくて、明るいのに物悲しい。もっと、もっと――植物でも置いたほうがいい。それを、思った。
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