翡翠の環−ご主人様の枕ちゃん

綿入しずる

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Ⅰ‐翡翠の環

鸞の庭ⅰ

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 なんだか屋敷の空気が慌ただしいので今日は何かあるのかと訊ねると、例の王宮での宴に向けて奥様たちがお帰りになるのだと教えられた。そう思えば、主人もいつもより早く部屋を出たかもしれない。
 タラブ様も忙しなく、俺にあれこれと教えながらも使用人が何か聞きに来るたび答えたり部屋を出ていったりして――終いには今日の指導は早めに終わりにしようということになった。それで俺も急いで身繕いして離れへと戻ったので、今日は昨日の白奴隷アラグラルどころか、主人もまだ離れにはいなかった。
 奥様や子供が来たなら、もしかしたら主人は今日はこっちに戻ってこないのかもしれない。そのあたり訊いておけばよかったなと思いながら、俺は決まりのようにベッドに、姿勢よく座る練習のつもりで背筋を伸ばして腰掛けて、手持無沙汰にしていた。
 慌てていたから勉強道具などは借りてこなかった。算盤でも持っていれば計算の練習でもしたのだが。考えて、俺はベッドの奥の棚へと手を伸ばした。
 主人の持ち物には触れない。主人が読んでいるときにたまに見える文字の並びは小難しくて俺には理解できそうにないし、俺が勝手にしていい物は一つだけ。小さな、繋ぎ目もない一枚きりの巻紙をそっと開いて、座った膝の上で眺める。
 砂色の紙の上に黒いインクで主人の字。他の人より綺麗に整ったものなのだと、最近分かるようになった。
 音も、順番ももう覚えた。最初はまるで模様のように見えて区別のつかなかったこれも、今では立派に文字として一つ一つに見える。以前教えてもらったように辿って単語を作るのも、自分一人でできるようになった。しろ、くろ、みどり。もっと長い言葉も文章も作れるようになった。思いつく限り、全部文字で表せる。たまには間違うかも知れないが。
 あの夜のように自分の手も見る。夜会の為に描かれていた模様はとっくに消えて記憶もおぼろげだが、なんて書いてあったかは教えてもらったので覚えている。
 リーシャット。
 たしかこのへんに線があったと、思い出して手の甲を指で辿ってみた。俺はこの家の物、あの人の物だと教える文字が、膝の上の紙のようなかっちりしたのではなく少し流れるような雰囲気で、模様と共に飾るようなかたちでここにあったはずだ。
 またあれを描いてもらう機会があるだろうか。……夜会には行きたくないしああいう格好もしたくはないんだけど、あれは綺麗だったし一応守ってもくれたし、教えてくれた主人の声は優しかったから、案外悪いものな気がしないのだ。
 リーシャット、触れるべからず。練習のように何度か辿っても指では痕も残らないが。
 そんなことをして遊んでいたら扉のほうで物音がした。灯りを点けに来たのか。それにしてはまだ早い。主人だろうか。出迎えに立ったほうがいいか。
 ついたての陰から向こうを覗くと、やけにもたついてごとごとと音がして、ゆっくりと時間をかけて扉が開く。扉の取っ手に手を伸ばしていたのは、背の低い――小さい、子供。
 え、と声を上げる暇もなく、部屋に入ってくる。後ろから続く大人の姿が無いのに俺は慌てて立ち上がった。
 四、五歳くらいの、貴族らしい小奇麗な服を重ねて着膨れた男の子だ。部屋に入ってきて辺りを見渡して、歩み寄った俺に気がつく。
「あれ? だれ? だれのマルディア?」
 黒い髪に、金色の目。加護の光。主人と同じだ。間違いなく主人のご子息、今日皆が話していた、この屋敷の若様と見えた。
「ここ、父さまの部屋だよ。だあれ?」
 幼い声で重なる問いかけに、俺は慌てて跪いた。子供と同じ目の高さ。見れば見るほど、主人の子という感じだ。母親――奥様のほうは知らないが、きっと綺麗なひとなんだろうなと思わせる整った顔をしている。
「失礼いたしました、ハツカと申します。お父様の――うぶっ……」
 名乗ったところで、伸びてきた両手に顔を鷲掴みにされた。小さな掌が頬を揉む。
 子供特有の突拍子のなさだが、目は確かに俺を見ていた。何かを思い出すなと思えばやっぱり主人だ。最初に市場で首輪を掴まれたときを思い出す。
「ハツカ、顔に星があるんだねえ」
 虫食い痕を撫でるのも。勿論手つきは全然違って、ごしごしと擦るようになったが。
「ぼくたちのところにきたことないマルディアだね。今晩くる?」
「えっと……多分、俺は行けません」
「どうして?」
「俺はお父様のものなので」
 俺はもう立ち上がることもできずにそのまま応じる。誰か追いかけてきていないかと開いたままの扉の向こうを窺おうとしたが、手が外れないので顔を動かせなかった。
 少なくとも泣きだしたりはしなさそうな様子だが、俺はあんまり、子供の相手は得意じゃないから困る。嫌いではないし世話はするが、誰かのように上手く相手をできるかというとできない。ましてこれは同じ奴隷の子供とかではなく、貴族の、主人の子供だ。抱え上げてあやしたりとか、そういうのは駄目だろうと思えばいよいよできることが限られてくる。
「父さまのマルディアなの?」
「アラグラル……はご存じないですか。俺はそれです」
「アラグラルはマルディアだよ!」
「……では俺もそうかと」
 マルディアとはなんだろう。分からないが、まあそう言うなら多分、奴隷とかそのへんの言葉だろう。もう諦めて肯定すると、なんとなく満足そうだ。
「ね、父さまはどこ?」
 ようやく顔を掴む手からは解放してもらえた。今度は首輪を見られている気がするが、関心はそれよりも主人のことらしい。此処まで来た目的もそれなんだろう。きっと久しぶりに父親に会いに来たのだ。
「まだお仕事中かと思います。……若様、はお一人でいらしたんですか」
「うん! ぼくもうお兄さんだからね、一人で来られる! 母さまと姉さまはお茶をしているから、先に来ちゃった」
「そうですか」
 一人で来てもよかったとは思えないが、来てしまったものは仕方ない。仕方ないが。
 ではこの先も一人で、とは行かないだろう。でも俺は勝手に此処を離れて動いてもいいものかと考えて、すぐには結論できなかった。このご子息がもう少し年をとった相手であればそのあたりを委ねることもできたのだが。いや、そもそも俺の付き添いなんて本当に不要だったろう。
「お母様はどちらに?」
「いつもの部屋」
「いつもの……」
 答える声ばかりははっきりとしていたが、俺に分かるわけもなかった。書斎と、どっちが近いだろう。書斎に主人はいるだろうか。その前に誰か使用人が見つかるか。
「ぼく、父さまのところ行かないと」
 迷ううちに若様が言う。迷ったまま、俺はとりあえず立ち上がった。
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