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海のレクイエム
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時計坂はサードアルバムの制作に取りかかった。『父よ母よ故郷よ』の歌詞を見せられた海野は「困惑した」という。「両親を失った悲しみがストレートにつづられていました。いままでのカナエの詞とは明確に変わっていたんです」。時計坂の歌詞の特徴は難解で抽象的なことだった。心の中の悩み苦しみを直接的には表現せず、悲痛な想いを洗練されたシュルレアリスム詩のように仕立てていた。それが誰にでもすぐにわかる平易な鎮魂の詩に変化した。
「これでいいの?」と海野は訊いた。「いいんだ。やっとこういう詞が書けるようになったんだよ」と時計坂は答え、ピアノの弾き語りを恋人に聴かせた。「歌詞は暗めだったけど、メロディには前向きな希望が感じられて、カナエはようやく克服しつつあるんだと思いました。哀しみが風化したわけじゃない。でも自分を直視して、素直に悼みを歌えるようになったのでしょう」(海野談)。歌詞とメロディの奇妙な乖離という時計坂の曲のもうひとつの特徴は維持されていた。
『天国にいるよね』『海のレクイエム』『忘れないよずっと忘れない』『待っててねいつかわたしもそこへ行くから』『さよなら太平洋の魚たち』『夢で見た泣いちゃった』『仙台の素敵なパン屋さん』『しおからい』『ありがとう雫』『父よ母よ故郷よ』全10曲を弾き語りで聴かされた伊東は、「これは売れるのだろうか。あまりにも歌詞が暗い」と不安になったらしい。金崎は「高校生のポエムかよ」と吐き捨てた。それを聞いても時計坂は怒らなかった。「ごめんなさい。いまはこんなのしかつくれないんです」と静かな声で金崎に言った。「揺るがない時計坂の信念を感じた」伊東は金崎を説得して、この曲でアルバムの制作を続行することにした。
駒田の後任のドラムには、オーディションで茨城県大洗町に住む高校2年生才原絵理が選ばれた。選定にあたっては、ドラムの力量とともに容姿も重視されたらしい。才原は日に焼けた小麦色の肌を持つ元気な美少女だった。BMOのメンバーは選定にかかわらなかったが、パワフルにドラムを鳴らす明るい少女を受け入れた。「サイバラって呼んでください。パワーだけは誰にも負けません。上腕二頭筋が自慢です」と才原はあいさつし、海野と石亀を両腕でぶら下げてみせたという。
「あたしはあんまり太鼓がうるさいのは好きじゃないんだ。駒田さんのドラムをよく勉強してね」と時計坂は注文をつけた。「はーい」と答えたが、新しいドラマーは自分のスタイルを変えなかった。「だんだんとサイバラの音に慣れちゃった」(時計坂談)。「大洗に帰るのがめんどくさいし、アパートを借りるお金もないから」才原は時計坂と海野のひばりヶ丘の家に転がり込む。人懐っこい少女だった(この年、才原は高校を留年する)。
サードアルバムのレコーディングは2015年7月から始まった。編曲の中心となったのは意外にも時計坂ではなく、祈沢であった。作詞作曲をやめた祈沢は、演奏と編曲で自らの価値を証明しようとしていた。彼女はギターの技術を高めて、スタジオミュージシャンを務めるようになっていた(フューチャーフレーム所属のソロアーティストのバック演奏など)。才原の練習にいちばん長くつきあったのも祈沢で、この頃まちがいなくもっとも長く楽器に触っているBMOメンバーだった。
時計坂は「今度のアルバムではピアノを弾きたい」とだけ祈沢に告げた。この希望を容れて、祈沢はアコースティックなサウンドを取り入れる。『海のレクイエム』『父よ母よ故郷よ』では石亀にウッドベースを弾かせ、自らはクラシックギターを奏でている。時計坂は7曲でグランドピアノを弾き、3曲で電子的なキーボードの音を鳴らした。
石亀は声優の仕事が忙しくなっていた。10月放送開始のアニメ『ガールズバンドファイト』の主役に抜擢され、アニメ内バンド『フルスロットル』のボーカルも任されたのだ。石亀は連日の睡眠不足で目に隈をつくっていたが、祈沢は一切妥協せず、サードアルバムでも海野・石亀のツインボーカル体制をつらぬいた。石亀はベースも弾かなくてはならなかった。「祈坂さんは鬼ですね。サイバラはカナエさんにべたべたするし、ストレスマックスでした」と彼女は言ったが、その仕事ぶりは充実しており、BMOと声優業を見事両立させた。
海野は2016年3月の大学卒業をめざして真面目に通学し、BMOの歌以外の仕事は入れなかった。彼女の美貌はますます冴えて、モデルなどのオファーがフューチャーフレームに寄せられていたが、歯牙にもかけず、金崎を怒らせ、君塚を困らせていた。「音楽は好きだけど、芸能人になる気はまったくありませんでした。カナエとサイバラの世話もしなくちゃならなかったし、けっこう忙しかったんですよ。あの子たち、まったく家事をしないんだから」(海野談)。
時計坂はサードアルバムの作詞作曲を終えてから、一歩引いてキーホード奏者に徹していた。祈沢の編曲にはまったく口出しせず、ていねいにピアノの演奏をして、静かに微笑んでいた。ただ、歌詞の英訳は許可せず、祈沢と揉めた。「外国語にすると、ニュアンスが変わったりするでしょ。それがちょっと嫌なんだ。今回の歌詞は特にセンシティブなので」(時計坂談)。「あいつは絶対に主張を取り下げないんだ。いつも私が折れる」(祈沢談)。時計坂は練習もレコーディングも楽しそうで、ピリピリしている祈沢と対称的だった。「アルバムが完成する前からやり切って満足したみたいなようすで、引退を考えているのではないかと思った」とBMOを支えつづけた君塚はこの頃の時計坂の印象を語っている。
アレンジには祈沢のこだわりが込められ、録音に相当な時間がかかった。才原は何度もだめ出しされ、泣きながらドラムを叩いたという。9月、ブラック・マジック・オーシャンサードアルバム『海のレクイエム』レコーディング終了。CDジャケットはメンバー5人が仙台市荒浜海岸を歩く写真。作詞作曲は時計坂カナエ、編曲は祈沢ネムとクレジットされている。このアルバムが発売直後から大きな反響を巻き起こし、金崎と伊東の不安を払拭してヒットしたのは、周知のとおりである。
「これでいいの?」と海野は訊いた。「いいんだ。やっとこういう詞が書けるようになったんだよ」と時計坂は答え、ピアノの弾き語りを恋人に聴かせた。「歌詞は暗めだったけど、メロディには前向きな希望が感じられて、カナエはようやく克服しつつあるんだと思いました。哀しみが風化したわけじゃない。でも自分を直視して、素直に悼みを歌えるようになったのでしょう」(海野談)。歌詞とメロディの奇妙な乖離という時計坂の曲のもうひとつの特徴は維持されていた。
『天国にいるよね』『海のレクイエム』『忘れないよずっと忘れない』『待っててねいつかわたしもそこへ行くから』『さよなら太平洋の魚たち』『夢で見た泣いちゃった』『仙台の素敵なパン屋さん』『しおからい』『ありがとう雫』『父よ母よ故郷よ』全10曲を弾き語りで聴かされた伊東は、「これは売れるのだろうか。あまりにも歌詞が暗い」と不安になったらしい。金崎は「高校生のポエムかよ」と吐き捨てた。それを聞いても時計坂は怒らなかった。「ごめんなさい。いまはこんなのしかつくれないんです」と静かな声で金崎に言った。「揺るがない時計坂の信念を感じた」伊東は金崎を説得して、この曲でアルバムの制作を続行することにした。
駒田の後任のドラムには、オーディションで茨城県大洗町に住む高校2年生才原絵理が選ばれた。選定にあたっては、ドラムの力量とともに容姿も重視されたらしい。才原は日に焼けた小麦色の肌を持つ元気な美少女だった。BMOのメンバーは選定にかかわらなかったが、パワフルにドラムを鳴らす明るい少女を受け入れた。「サイバラって呼んでください。パワーだけは誰にも負けません。上腕二頭筋が自慢です」と才原はあいさつし、海野と石亀を両腕でぶら下げてみせたという。
「あたしはあんまり太鼓がうるさいのは好きじゃないんだ。駒田さんのドラムをよく勉強してね」と時計坂は注文をつけた。「はーい」と答えたが、新しいドラマーは自分のスタイルを変えなかった。「だんだんとサイバラの音に慣れちゃった」(時計坂談)。「大洗に帰るのがめんどくさいし、アパートを借りるお金もないから」才原は時計坂と海野のひばりヶ丘の家に転がり込む。人懐っこい少女だった(この年、才原は高校を留年する)。
サードアルバムのレコーディングは2015年7月から始まった。編曲の中心となったのは意外にも時計坂ではなく、祈沢であった。作詞作曲をやめた祈沢は、演奏と編曲で自らの価値を証明しようとしていた。彼女はギターの技術を高めて、スタジオミュージシャンを務めるようになっていた(フューチャーフレーム所属のソロアーティストのバック演奏など)。才原の練習にいちばん長くつきあったのも祈沢で、この頃まちがいなくもっとも長く楽器に触っているBMOメンバーだった。
時計坂は「今度のアルバムではピアノを弾きたい」とだけ祈沢に告げた。この希望を容れて、祈沢はアコースティックなサウンドを取り入れる。『海のレクイエム』『父よ母よ故郷よ』では石亀にウッドベースを弾かせ、自らはクラシックギターを奏でている。時計坂は7曲でグランドピアノを弾き、3曲で電子的なキーボードの音を鳴らした。
石亀は声優の仕事が忙しくなっていた。10月放送開始のアニメ『ガールズバンドファイト』の主役に抜擢され、アニメ内バンド『フルスロットル』のボーカルも任されたのだ。石亀は連日の睡眠不足で目に隈をつくっていたが、祈沢は一切妥協せず、サードアルバムでも海野・石亀のツインボーカル体制をつらぬいた。石亀はベースも弾かなくてはならなかった。「祈坂さんは鬼ですね。サイバラはカナエさんにべたべたするし、ストレスマックスでした」と彼女は言ったが、その仕事ぶりは充実しており、BMOと声優業を見事両立させた。
海野は2016年3月の大学卒業をめざして真面目に通学し、BMOの歌以外の仕事は入れなかった。彼女の美貌はますます冴えて、モデルなどのオファーがフューチャーフレームに寄せられていたが、歯牙にもかけず、金崎を怒らせ、君塚を困らせていた。「音楽は好きだけど、芸能人になる気はまったくありませんでした。カナエとサイバラの世話もしなくちゃならなかったし、けっこう忙しかったんですよ。あの子たち、まったく家事をしないんだから」(海野談)。
時計坂はサードアルバムの作詞作曲を終えてから、一歩引いてキーホード奏者に徹していた。祈沢の編曲にはまったく口出しせず、ていねいにピアノの演奏をして、静かに微笑んでいた。ただ、歌詞の英訳は許可せず、祈沢と揉めた。「外国語にすると、ニュアンスが変わったりするでしょ。それがちょっと嫌なんだ。今回の歌詞は特にセンシティブなので」(時計坂談)。「あいつは絶対に主張を取り下げないんだ。いつも私が折れる」(祈沢談)。時計坂は練習もレコーディングも楽しそうで、ピリピリしている祈沢と対称的だった。「アルバムが完成する前からやり切って満足したみたいなようすで、引退を考えているのではないかと思った」とBMOを支えつづけた君塚はこの頃の時計坂の印象を語っている。
アレンジには祈沢のこだわりが込められ、録音に相当な時間がかかった。才原は何度もだめ出しされ、泣きながらドラムを叩いたという。9月、ブラック・マジック・オーシャンサードアルバム『海のレクイエム』レコーディング終了。CDジャケットはメンバー5人が仙台市荒浜海岸を歩く写真。作詞作曲は時計坂カナエ、編曲は祈沢ネムとクレジットされている。このアルバムが発売直後から大きな反響を巻き起こし、金崎と伊東の不安を払拭してヒットしたのは、周知のとおりである。
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