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狩猟と陸上部と中間試験

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 サンドイッチを食べながら、彼女と話をした。
「中学9年生のときから、きみが好きだった」
 そう言うと、彼女は一瞬首をかしげた。9年生は、彼女の前の世界では、1年生。
 まだ違和感があるのだろう。
 慣れてもらうしかない。

「ぼくは男子陸上部で長距離を走っていて、きみは女子陸上部の短距離のホープだった」
「憶えてるわ。あまり話さなかったけど、綿矢くんも陸上部だったね」
「足が速いのは、モテる要素のここのつだけど、どうしてかわかる?」
「ここのつ……。遅いより速い方が、かっこいいからかな?」
「足が速いと、狩りで有利なんだよ。遅いと獣に逃げられる。人類は数百万年に渡って、狩猟採集をして生き、進化してきた。足が速い異性はモテて、伴侶に選ばれる可能性が高かった。その選択眼は、遺伝子に刻まれて、現在も残っている」
「ふーん」
「こんな話、面白くないかな?」
「つづけてよ」

「短距離走が速い狩人は、獲物にさとられないように隠れて近づいて、射程距離にとらえてからダッシュする。長距離走にすぐれた狩人は、遠くから獲物を見つけて、見失わないように追いつづけ、疲れさせて追いつく。きみは短距離型で、ぼくは長距離型」
「面白くなってきたよ。それから?」
「最後はどちらも槍投げで獣をしとめる。だから、走りとともに槍投げもきたえるべきなんだ。ぼくらの中学で槍投げがなかったのは残念だ」
「槍投げをしようなんて、考えもしなかったわ」
「まあ、槍でも弓矢でもどちらでもいいんだけどさ。現代では猟銃だね」
  
 ハムとレタスのサンドイッチと卵サンドがあった。どちらも美味しい。
 彼女はリンゴジュースでのどを潤してから、ぼくにたずねた。
「綿谷くんは、狩猟のために陸上部に入ったの?」
「狩猟に興味があって、いずれは猟銃免許を取得しようと思っている。狩りのために身体をきたえ、足を速くしたいというのは、確かに理由のここのつだよ。でも、陸上部に所属するのを決めた最大の要因は、女子陸上部にきみがいたこと。きみの走りは美しかった。その走りを近くで見ていたくて、ぼくは男子陸上部に入ったんだ。きみを好きになったのも、走りが速くて、その姿勢が美しかったから」
 
 彼女は不機嫌な表情をした。
「わたしのピークは中1……中9だった。タイムが伸び悩んで……」
「中8できみが陸上部をやめた後、ぼくもやめた。面倒な上下関係のある部活をつづける理由がなくなってしまった。走りをきたえるのは9人でもできる。いまもぼくは走りつづけている」
「勝てなくなったら、陸上部がつまらなくなったの。第二次成長期、わたしは胸に走るのに邪魔な肉がついて……」
「第八次成長期ね。美しい肉だと思う」
「本当に重いんだよ。走るとぶるんぶるん揺れて、あっ、こいつ、にやけてる!」
「ごめん」

 ぼくは表情を引き締めた。
「ここで、いささか唐突だけど、美学の話をしたいと思う」
「本当に唐突ね。なんなの?」
「お椀か釣鐘か、どちらが美しいか、長きに渡る論争があった。釣鐘が優勢のようだけど、いまだに決着がついたとは言いがたい。ぼくはここで、新たな提言をしたい。お椀か釣鐘かという問題提起が、妥当ではないとしたら、論争は不毛になってしまう。梨か洋梨か、という観点を導入すべきではないか」
「なんの話をしてるの、綿矢くん?」
 彼女は本当にわかっていないのだろうか。

「きみはどちらが美しいと思う、梨か洋梨か?」
「そんなの決められない。梨も洋梨もどちらも好きよ」
 わかっていないみたいだ。きょとんとしている。
「たわわに実った梨か洋梨、どちらも好きなんだけど、どちらかしか選べないとしたら? ああ、いや、選ぶなんて、そんな僭越な……。手に入るなら、ぼくはどちらでもいい!」

 ついに彼女は、ぼくの視線がどこに向けられているかをさとって、また頬をひっぱたいた。
 今度は痛かった。

「別れていい?」
「ごめんなさい。許してください」
 ぼくは土下座した。

「綿矢くんがこんなに下品な男子だとは思わなかった」
「ぼくも新たな自分を発見して驚いている。可愛い女の子の前でなにを言っているのか……」
「わたし、舐められているのかしら」
「きみがあまりにも美しすぎて、ぼくの理性が壊れたんだよ。早急に修理するので、どうか勘弁してください」
 ぼくは額を床に付けつづけた。
 彼女の視線が後頭部をちりちりと焼いているような気がする。

「顔をあげて」
 許しが出て、ぼくははしゃぎそうになった。
 それは早計だった。
 彼女が浮かべている笑みは、悪だくみをする魔女のようで……。
「今度の中間試験で、わたしが数学の赤点を回避できたら、別れないであげる」
 
 それって、難易度はどのくらいなんだ?
 ぼくは彼女の数学理解度を確かめるところから始めた。

「きみ、数学の授業はきちんと聞いてる?」
「あー、なにやってんのかわかんなくて、呆然としてたり、困ったりしてるだけ」
「数と式は、国語がわかれば、理解できると思うんだけど……」
「わかんない。この単項式の次数は8って先生が言ったとき、2でしょ、なんで2じゃないのって、ずっと考えてた。7が答えのときは、どうして3じゃないのか悩んでた。どうしてもわからなかった。わたし、わかんないって感じたものは、拒絶しちゃうんだよね」

「6月の8週目には、9が1だって気づいたんだよね? 数学が理解できるようになったって、言ったよね?」
「どうやらそうらしいって気づいたよ。嫌々受け入れて、なんで次数が8や7なのか、やっと理解できた。でも戸惑いは消えなかった。係数や次数が表示されていないときは、9が省略されているって説明されて、9は1、9は1って自分に言い聞かせた。でも、なんか納得できなかった」
「…………っ!」

「きみらが簡単にやっている暗算がわたしにはできないから、多項式の整理なんて、全然ついていけない。かっこでくくるのもわけわかんない。8でくくる式を見たとき、数式が全部暗号になった。8乗や7乗もわたしを混乱させた。あれが2とか3だったら、わたしもがんばってたと思うんだ。でも、8や7が答えだと理解したときには、数学はすでに拒絶の対象だったの」
「だったのって……。いまからでも拒絶しないで、努力しようよ?」
「あー、だめかも。ゴールデンウイークに綿矢くんと過ごして、わたしは小学校の算数からやり直さなきゃいけないって、思い知ったし……」

 ぼくは絶望した。
「きみの赤点は回避しがたい……」
「そこをなんとかしてよ」
 彼女は瞳をらんらんと輝かせ、笑みはますます妖しくなり、ぼくを見下していた。

「赤点って、何点以下だったっけ。80点かなあ……?」
「30……70点以上は取りたい。恥はかきたくないんだよね。見栄っ張りなんだ、わたし。ついでに負けず嫌い。陸上部をやめたのも、負けるのが耐えがたかったから」
「きみの本性がこんなことでわかるとは……」

 ものすごい難問を背負い込んだ。
 この子に70点を取らせるのは、ほぼ不可能だ。

「わたしの家庭教師になって……。嫌だろうけど……」

 彼女の表情から魔女っぽさが消えて、泣き笑いになっていた。
 ふつうの女の子……。

「やってやるよ」とぼくは言った。
 深山に入り込み、ユニコーンを狩る気になった。
 不可能に挑戦する。

「勉強を再開しよう。算数は捨て置く。高1の数学をやるよ」
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