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第35話 彼女がいない夜

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 ガーネットがいない部屋は妙に広く感じられた。
 3月27日まで、僕はここにひとりで暮らしていたのだ。
 それでなんの不都合も感じていなかった。
 いまは違和感がすごい。
 空虚だ。

 ひとりで風呂に入り、布団に横たわって寝た。
 夜中に悪夢を見て、目を覚ました。
 どんな悪夢だったのか思い出せなかった。
 その後は寝つけないまま、朝を迎えた。

 出勤し、心を無にして仕事をした。
「波野先輩、ひどい表情をしていますよ」と本田さんから言われた。
「そうかな」とだけ答えた。本当にひどい顔をしているのだろう。
 目の前の仕事だけに集中した。
 ガーネットのことを考えないように。
 電話にも出たし、庶務事務も火災保険業務も行った。
 一昨日までやりがいがあったはずの仕事に、なんの手応えも感じられなかった。
 ただの作業だった。
 僕は電話の受け答えをし、パソコンの入力をする機械のようだった。
 アンドロイド。
 意思と感情を持たない、ガーネット未満のアンドロイド……。
 自分がそんなふうに感じられた。

 午後9時まで残業してから、庁舎を出た。
 白根アパートの自転車置き場から201号室を見上げた。
 あかりがともっていない。 
 僕はギシギシと音を立てながら、外階段を上った。
 脚が重い。

 お湯を沸かし、カップラーメンをつくって、麺をすすった。
 なんの味もしない。
 スマホを見たが、浅葱さんからの着信はなかった。
 ガーネットがいない夜。
 生きている意味が見い出せない。
 僕は自分でも驚くほど落ち込んでいた。
 彼女を購入する前、僕はなにをして夜を過ごしていたんだっけ?
 アニメを視聴していたはずだ。
 でも、いまはなにを見る気にもなれなかった。
 僕から浅葱さんに電話をしようか?
 いや、むやみに電話をするのはやめよう。
 1度かけたら、2度3度と無意味に連絡してしまいそうだ。
 堪えろ。
 死別したわけじゃない。
 恋人は入院しているだけなんだ。
 それもまだひと晩だけだ。
 まもなくふた晩になるが……。

 機械的に風呂に入り、布団に入った。
 なかなか眠れない。
 眠っても、夢を見てすぐに起きてしまう。
 なにかに脚を取られる夢。
 誰かが去っていく夢。
 深い森の中から出られない夢。
 いつのまにか朝になっていた。
 鏡を見ると、昨日よりさらにひどい表情になっていた。
 目には隈ができて、全体にげっそりとしている。
 僕は顔を洗い、髭を剃った。
 しっかりしろ、と自分に言い聞かせた。
 こんな表情で仕事をしていていいはずがない。

 また出勤し、懸命に働いた。
 努めて笑顔をつくろうとした。
 それは哀れを誘うだけだったようだ。
「先輩、ちゃんとごはんを食べていますか?」
「ああ、カップ麺を食べているよ」
「そんなんじゃだめですよ! わたしがバランスのいい食事をつくってあげましょうか?」
 ガーネットの留守に本田さんを部屋に上げるわけにはいかない。
 僕は首を振った。
「ありがとう。今夜は定食屋にでも寄って帰るよ。マシなものを食べる」
 本田さんの表情も憂鬱そうになっていた。

 その夜、僕は定食屋の前に立った。
 でも、食欲がなかった。 
 コンビニでサンドイッチを買った。
 自分の部屋の中でそれを食べた。
 彼女のいない夜が過ぎていく。
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