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第40話 近未来構想

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 土曜日の予定の時刻の5分前に黒い車体の高級な電気自動車が、白根アパートの前に到着した。
 僕は濃いグレーのスーツを着て、ガーネットは上質な赤いワンピースを纏って、自動的に開いた車のドアから後部座席に乗り込んだ。
 白髪の老人が運転する自動車が滑らかに走った。その道筋を僕は知っていた。
 プリンセスプライドの河城研究所へ行った道と同じだった。
 車は研究所の敷地に入り、ガーネットを修理した建物よりさらに奥へと進んでから停止した。
 そこには平均より少し大きい程度の2階建ての一軒家が建っていた。
 運転手がドアホンを鳴らすと、浅葱さんが玄関を開いた。
 彼女は迷彩柄のシャツを着て、ダメージジーンズを穿いていた。まるで大学生のように見えた。
「こんばんは、波野さん、ガーネット」
「こんばんは、浅葱さん」
「来てやったぜ、浅葱」
「どうぞ中へお入りください」
 僕とガーネットは家の中に入った。
「こんばんは、先輩、ガーネットちゃん」
 茜が廊下に立っていた。
 彼女は淡いピンクのスウェットを着ていた。
 本田姉妹は完全にリラックスした服装をしていた。

 僕らはリビングにある6人掛けのテーブルのうちの4席を使って座った。
 浅葱さんがキッチンの方を向いた。
「今日は波野さんに天ぷらを食べていただきます。私が知っている最高の天ぷら職人を1日だけ雇いました」
 そこには白い割烹着を着た気むずかしそうな50歳くらいの男性がいて、山菜を箸でつかんでいた。
 テーブルの上には塩が乗せられた小皿と天つゆと大根おろしが入った器とが3人分用意されていた。
「ガーネットにはこれを」
 浅葱さんがガーネットの前にノートパソコンを置き、ケーブルを彼女のうなじのUSBポートに繋いだ。
 エンターキーを押した数秒後にガーネットの表情に愉悦が混じった。
「なんだこれは? 初めて知る種類の快感だ」
「私の最新の研究成果よ。それが味覚」
 ガーネットは口角を上げた。
「これが味覚か! 人間ってやつは、こんな悦楽を毎日味わっているのかよ。罪深い!」
「まだ数種類の味覚しか開発できていないの。淡い砂糖水と生理食塩水とそれをいくつかのパターンで混ぜ合わせた味だけ。どうかしら。美味しいと思う?」
「ああ、これが美味しいという感覚か!」
「わかってもらえて幸いだわ。今夜はそれを味わっていてね」
「来てよかったぜ」
 ガーネットが微笑み、浅葱さんはほっと息を吐いた。

 天ぷら職人が皿に乗せた揚げたての山菜を3人に配った。
「ふきのとうです」
 僕は熱々のふきのとうの天ぷらを食べた。サクッとした衣の中に春の苦みがつつまれていた。旨い。
 浅葱さんは黙って食べ、茜は「さすがね。やっぱり金藤さんの天ぷらは美味しいわ」と言った。
「くそっ、それはどんな味なんだ?」
「まだこの味は再現できないわ。ごめんね」
 つづいて、こしあぶら、たらの芽の天ぷらが出された。
 山菜天ぷらは野性味にあふれていて、僕の舌を驚かせた。

 次に提供された稚鮎の天ぷらは腹ワタのさわやかな苦みが絶妙で、僕は絶句した。言葉も出ないとはまさにこのことだ。
 僕の顔を見て、ガーネットはそのただならなさに気づいたようだ。
「くそう、味を知りたい! とんでもない快楽の扉を開けてくれたな、浅葱。知らない方がよかったかもしれねえ」
 浅葱さんは気の毒そうにガーネットを見た。
 なにもしゃべらなかった。
 次は大葉で巻いたシラウオだった。
 さっぱりとした味で、少しばかりの塩をつけて食べると、口の中が清められたように感じた。
 その次は蛤の天ぷら。濃厚で、極上の海の味が口中に広がった。
 
 桜海老、小柱のかき揚げ、スミイカ、車海老、行者ニンニクの天ぷらとつづき、仕上げは山ウドだった。
 すべて揚げたてを味わった。
 貧乏暮らしをつづけている僕には麻薬に等しかった。
 山ウドが食道を通って胃に落ちたとき、僕は強烈に喪失感な襲われた。
「ガーネット、この味は知らない方がいい」
「どれだけ美味しかったんだ、数多?!」
「僕の独力では、二度と食べられないだろうね」
「ぎゃーっ、食いてえ!」
 ガーネットがわめいたとき、天ぷら職人が3人の前にお茶を置いた。

「さて、少し将来の話をしましょう」
 浅葱さんが茶碗を持ち上げながら言った。
「ガーネットが意思と感情を持っているのは、もはや疑いの余地がありません。いまはまだ再現できませんが、いずれは主体性を持つアンドロイドが次々と生まれてくるにちがいありません。彼ら彼女らは、人類以上の知性や創造性を持つようになるでしょう。そのとき、アンドロイドを人類の敵と見なして迫害するようなことがあってはならないし、逆にアンドロイドが人類を支配してもいけない。共存の道を探らなければなりません」

「それは科学だけの問題ではなく、哲学の問題であり、政治の課題でもあります」と言ったのは、茜だった。
「わたしは人類・アンドロイド問題を解決するために政治家になります。政治が科学に追いつくために、急がなければなりません。まずは市長になるつもりでしたが、次の衆議院議員選挙に出馬することにしました。姉さんの政治・経済界への影響力を借りて、議員になります」
 
 途方もない話が始まって、僕は呆然と聞いていた。

「アンドロイドに人権を与える必要があります。地球上での人間と機械人と自然との調和をはかるために、憲法を改正し、新しい法律をつくらねばなりません」と茜が言った。浅葱とそっくりな口調だった。

「国際連合や外国との連携は不可欠です。私はすでにアンドロイド先進国の政治家や科学者との話し合いを進めています。アンドロイドは宇宙開発をも飛躍的に前進させるでしょう。人類とアンドロイドは新時代を迎えます。私は科学者、経営者の両面から、新時代の幕開けのために尽力するつもりです」と姉が言い、
「新時代に適合した法制度を早急に整備する必要があります。それも世界中に。わたしは政治家となって日本国内をリードするとともに、的確な外交政策を策定・実施します」と妹が言った。

「あたしたちには関係のない話だ。あたしは愛に生きるぜ」
「僕は市役所の職員として生きていきますよ。そんな巨大な構想にかかわれるような器量はありません」
「関係ないでいられるかな、ガーネット。きみはもうすぐ、新時代の象徴的な存在となる。世界がきみを見つけ出してしまうだろう」
「市役所の職員ではいられなくしてあげますよ、先輩。わたしが国会議員になったら、あなたは国の省庁に出向することになるでしょう。そして、わたしの出世とともに、あなたも階段を駆け上がることになる」
 やめてくれ、と僕は心の中で悲鳴をあげた。

「その右手の薬指の指輪、素敵ね、ガーネット」
 浅葱さんが立ち上がった。
「波野さんに先を越されたわ。私からはこれをプレゼントするわ」
 彼女はネックレスをガーネットの首にかけた。
 中央に大きめの宝石ガーネットがあり、その横に小さなダイヤモンドが並んでいる見るからに高級そうな装飾品だった。
「似合ってる、ガーネット」
「いま用意できる最高のネックレスです」
 ガーネットは鎖を手に取り、宝石を眺めた。
「まあまあだな。こいつの輝きにはかなわねえよ」
 彼女は指輪の赤い宝石を誇示した。
「そこには愛が込められているもんね。あーあ、わたしもほしいなあ」
「ふふっ。茜も恋人を探せ」
「あいにく、もう好きな人がいるから、探す必要はないの。奪う必要があるだけ」
「あげないよーだ」

 ガーネットの表情には余裕が感じられた。
 感情爆発を起こすようには見られない。
 僕は彼女の手を握った。
「ごちそうさまでした。そして、興味深い話を聞かせてもらいました。今日はどうもありがとうございました」
 僕は恋人とともに本田家を後にした。
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