上 下
23 / 66

みらいの明暗

しおりを挟む
 お母さんが憎いと自覚してから、みらいは自宅で極端に暗くなった。
 無表情で、母とは目を合わさず、話もしない。
 食事の前の「いただきます」も就寝前の「おやすみなさい」も朝の「おはよう」も言わない。
 以前から会話の少ない親子だったが、いまは皆無になってしまった。
 それに反して、学校でのみらいは明るい。いつも花のように微笑んでいた。
 ガンマ3の授業中に、阿川から「高瀬、微笑んでいるとかわいいな」と言われた。
「そう? ありがとう、阿川くん」
「おまえ、つきあっている男はいるのか?」
「いないよ」
「好きなやつとか、いるのか?」
「うん、いるよ」
「誰だ?」
「授業中にそんなこと訊かないでほしいなあ。樹子だけど」
「樹子? ああ、あのイエロー・マジック・オーケストラに狂っているって言ってた女か。高瀬は女が好きな女なのか?」
「阿川くん、おしゃべりは休み時間にしよう。わたしは授業に集中したいな」
「ふん、真面目かよ」
 阿川はみらいから顔をそむけ、野球部の仲間と話し始めた。
 昼休みは樹子と一緒に学生食堂で昼食を取ることが多かった。
 みらいはカレーライスがお気に入りで、樹子は唐揚げ定食をよく食べていた。彼女は脂っこいものが好きだが、不思議と太らない。
 月曜日の昼休み、樹子とみらいの横に、ジーゼンが座った。彼はトレイの上に焼き魚定食を乗せていた。
「ジーゼンくん、魚好きなの?」とみらいは明るく話しかけた。
「好きだよ。鯖が特に好きだ」
「わたしも鯖の塩焼きが大好きだよ」
「鯖は味噌煮にしても美味しい。しめ鯖も美味しい」
「鯖バンザイ!」
「明るいね、高瀬さん」
「そうかな。普通だよ」
「いや、未来人の今日のテンションは高いわよ」
 樹子の指摘に、「そうかな?」と答え、みらいはカレーライスを微笑みながら食べた。
 自宅で暗いみらいは、学校では明るかった。
 放課後の勉強会でも明るかった。
 良彦が物理と化学を教えているとき、ずっと花のように微笑み、「良彦くんの教え方、凄くわかりやすいよ!」と終わったときに言った。その声はとても明るかった。
 自宅の玄関をくぐった途端に、みらいの表情は変化した。笑顔が消滅し、無表情になった。
 夕食は黙々と食べた。視線は箸に固定され、母の目はおろか、肩から上をまったく見なかった。
「ごちそうさま」も言わずに食器を台所に運び、食後は自室に籠って勉強した。
 火曜日の朝、玄関から出た途端に、みらいは変貌した。微笑みを浮かべて轟駅に向かった。
 教室に入って、「おはよう!」と明るくあいさつする。
「おはよう!」と樹子やヨイチや良彦が言う。ジーゼンやその他のクラスメイトもあいさつを返してくれた。
「私も高瀬さんと仲よくしたいなあ」と樹子に次ぐ美少女で外進生の原田すみれが言った。
「原田さん、仲よくしよう!」
「本当? じゃあ今日の放課後カラオケに行こうよ!」
「今日は勉強会があるからだめ!」と樹子がさえぎった。
「えーっ。じゃあ明日は?」
「明日は文芸部の活動日だからだめ」
「園田さん、高瀬さんの日程管理でもしてるの? マネージャーなの?」
「マネージャーじゃない。あたしはバンドマスターよ!」
「え? ふたりはバンドやってるの?」
「あたしと未来人とヨイチ、あとヘルプの良彦とでやってるわ」
「えーっ、いいなあ。私もやりたい」
「原田さん、ドラムスできる?」
「できない。触ったこともない」
「あと募集しているのはドラムスだけよ」
「つまんないの」
「原田さん、ごめんね」
「いいのよ、都合のいい日にカラオケ行こうね」
 この後、みらいは原田すみれとときどき話すようになった。
 火曜日の昼休み、みらいはまたカレーライスを食べ、樹子はとんかつ定食を食べた。揚げ物が好きなのだ。
 その隣に、またジーゼンが座った。トレイの上に煮魚定食を乗せていた。
「ジーゼンくん、また魚だね」
「鯖の味噌煮だよ。とても美味しいんだ」
「わたしも鯖の味噌煮にすればよかったな」
「ひと口食べていいよ。まだ口をつけていないから、どうぞ」
「本当? ありがとう!」
 みらいは鯖をひと口食べた。
「本当に美味しい。鯖バンザイ!」
「今日も明るいね、高瀬さん」
「そうかもね!」
 みらいは学校でも、樹子の部屋でも機嫌よく過ごした。電車の中でも微笑んでいた。
 しかし自宅の玄関をくぐった途端に、陰欝に変貌するのだった。 
しおりを挟む

処理中です...