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曹操孟徳

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 赤壁の戦いには謎がある。
 曹操軍は大敗北したのに、曹操はおろか、魏の有名な武将は誰も死んでいない。
 それはなぜかと考えていたら、曹操について書きたくなった。

 赤壁で勝っていれば、曹操孟徳が天下を統一し、三国時代は来なかっただろう。
 きっと即位していた。
 秦の始皇帝嬴政、漢の高祖劉邦、後漢の光武帝劉秀らと並べても、まったく遜色のない偉大なる魏の初代皇帝曹操となって、その名は中国史に燦然と輝いていたはず……。
 が、負けた。

 五十万の大軍を擁していながら、大コケにコケて、わずか三万の孫権軍に完膚なきまでに敗れた。
 曹操は天下統一の最大のチャンスを逃した。

 呉の名将周瑜の全盛期。
 彼の智謀の限りを尽くした水上火攻が、鮮やかに決まった。
 季節風と反対の風が吹くという曹操にとって最悪のタイミングで、火攻めが敢行された。
 長江に浮かんでいた大水軍は焼き払われ、水底に沈んだ。
 曹操が連れてきた中原と河北の兵は、大半が焼死した。さらに陸でも追撃され、曹操軍は討ちに討たれた。
 曹操は、自分の命が助かっただけでもよしとしなければならないほどの惨敗を喫した……。
 赤壁の戦いは、本当にそのようなものだったのか?

 十万字を費やして、その答えを探っていこう。
 
 曹操は155年、豫州沛国で生まれた。
 後漢の第十一代、桓帝の治世。
 皇室の外戚、梁冀が専横した時代で、帝は傀儡であった。

 159年に桓帝は逆襲した。
 梁冀を自害に追い込んだ。
 だが、それは波乱の終結ではなく、さらなる大乱の幕開けにすぎなかった。
 その後、梁冀粛清に功があった宦官たちが権勢を振るう時代が来る。
 曹操の祖父、曹騰も宦官のひとりである。

 曹騰は中常侍になり、さらに大長秋まで出世した。
 中常侍は、常に皇帝の傍にいて、絶大な権力を持つ役職。
 大長秋は、皇后府をとりしきる宦官の最高位。

 曹騰は優れた人物を抜擢することが好きだった。大長秋になり、人材発掘に努めた。その点が孫の曹操と似ている。
 しかし、宦官は去勢されている。当然、ふたりに血のつながりはない。

 宦官は従来、養子を持つことが許されていなかったが、この時代に法が変わり、認められるようになった。
 曹家の勃興は、法改正により始まったことになる。
 曹騰は、曹操の父、曹嵩を養子にした。

 曹嵩の元の名は、夏侯嵩である。
 曹操の重臣に夏侯氏が多いのは、これに由来する。覚えておくと、どうして曹操の周りに夏侯惇や夏侯淵がいるのか、たやすく理解できる。ちなみに夏侯惇は曹嵩の甥、曹操の従弟。

 曹嵩も出世し、太尉まで昇った。
 太尉とは、人臣最高の位、三公のひとつである。軍事を司る。現代日本で言えば、防衛大臣のようなもの。
 この時代、官職を金で買うことが横行している。
 曹家には、金があった。大長秋にまで成り上がった曹騰は、大いに稼いでいた。
 曹嵩は、第十二代霊帝に大金を献上し、太尉の地位を購入した。

 霊帝の時代、宦官と外戚の争いが激しくなり、世は乱れに乱れている。
 184年に、黄巾の乱が勃発するに至る。
 首都洛陽も安全ではなくなり、曹嵩は、徐州琅邪郡に妻子を連れて避難した。
 ところが、曹操は同行しなかった。
 彼は乱世の只中に身を投じていく。

 父と子がわかれ住んだことで、思いがけぬ運命が生じる。
 194年のことだが、曹嵩は、徐州牧の陶謙に殺された。
 曹操は激怒し、徐州で虐殺をしてしまう。住民を皆殺しにするような大虐殺である。
 なぜそんなにも怒り、無関係な民を殺したのか。
 そのことも、この小説を書くことを通じて、探っていきたい。
 曹操にまつわる第二の謎。
 徐州大虐殺は、なぜ起こったのか?

 本作は、三国志の主人公のひとり、曹操の生涯を追おうとしている。
 曹操の特徴は、人材好きであること。
 出自の貴賤を問わず、有能な人材を集め、彼らを活かし切ろうとした。
 その結果として、天下を手中にする寸前までいった。
 そう書いてみると、なにやら織田信長に似ている。

 曹操については数多書き尽くされているが、彼の人事に注目することにより、なにかしら目新しい曹操の伝記を書けないだろうかと考えている。
 荀彧、荀攸、程昱、郭嘉、賈詡が、どのような軍師だったのかも追及してみたい。
 もちろん、赤壁と大虐殺の謎もつきとめたい。

 少年時代の曹操がどのように暮らしていたのかは、まったくわからない。
 豫州沛国譙県で誕生したことは確かだが、いつまでそこにいたのだろうか。
 曹操は譙県で幼少期を過ごし、曹嵩が赴任する土地についていったと考えるのが自然であろう。
 父の太尉在任中は、後漢の首都、洛陽に住んでいた。

 ここで、三国志の基礎知識を書いておく。
 後漢政府は、州郡県制を採用している。
 州の長官を刺史と言い、郡を治める者を太守と呼ぶ。県の長は令。

 やや面倒な話になるが、州刺史は郡太守や県令が不正をしていないか調べる監察官の任を帯びていたが、軍権がなかった。
 平時ならこれでも問題は起こらなかったが、乱世になると、郡兵を統率している太守の方が、刺史よりも力を持つという逆転現象が見られるようになった。
 この不都合を解消するため、188年、州の軍権を持つ牧という官職が制定された。
 後漢末期、中国には州刺史と州牧が混在していた。
 実にわかりにくい。
 刺史は名のみで力がなく、牧は軍事力を持つと理解しておくと、三国志を読みやすくなる。

 曹操は青春時代に洛陽で、ライバル袁紹と多少の縁を持ったようである。
 袁紹本初は、豫州汝南郡の出身。
 生年は不明だが、曹操と同い年くらいと見てよいだろう。
 袁氏は三公を輩出した名門中の名門である。
 祖父が苦労の末に大長秋になった宦官で、父が太尉の地位を金で買った曹操とはちがい、袁紹は正真正銘の貴公子。
 それゆえに袁紹は、曹操に先んじて強大な力を得ることになる。
 ふたりの決戦、官渡の戦い。
 これも本作のハイライトのひとつとしたい。

 真偽のほどは定かでないが、曹操と袁紹の花嫁泥棒という逸話がある。
 曹操は小柄ですばしっこく、顔立ちの整った美青年だった。
 袁紹はいかにも貴公子然とした姿勢のよい長身の男だが、少し動作がにぶいところがあった。
 そのつもりでお読みいただきたい。

 ふたりは結婚式が行われている家に忍び込んだ。
 袁紹が「泥棒だ!」と叫んで家の中を混乱させた。泥棒は彼自身である。
 曹操と袁紹は、花嫁をさらって逃げた。
 逃亡中、袁紹はとげを踏んで、うずくまってしまった。
 そのとき曹操が、「泥棒はここだ!」と大声を出した。
 袁紹はびっくりして立ち上がった。
「やめてくれ。捕まっちまうだろ!」
 彼は痛みを忘れて、再び逃走することができた。

 上記はおそらく作り話だろうが、曹操は若い頃、素行が悪かったようである。
 多少の不良行為をしていた方が、品行方正であるよりも、乱世の奸雄と言われた彼らしい。

 後に曹操と袁紹は、黄河流域で壮絶な戦いをすることになる。
 天下分け目の決戦、官渡の戦い。
 実はここでも曹操は、捕虜の大虐殺という問題行為をしている。
 第三の謎、官渡大虐殺。
 それはなぜ行われたのか?

 花嫁泥棒のつづきだが、曹操と袁紹と花嫁が、本当は友達であって、望まぬ結婚から救い出したとすると、爽やかな青春の一ページとなる。
 血みどろの戦いが始まる前に、そんな楽しいエピソードがあったということにして、物語を始めよう。
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