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第一章:残んの月
【四】三百二十文
しおりを挟む駆け込んできたのは、あじさい長屋で暮らす棒手振りの甚吉だった。豆腐売りをしている青年で、妻のお安と娘のお絹と三人で暮らしている。
「お安のやつ、酷ぇ熱なんです」
「すぐに参りましょう」
話を聞いた椋之助は、薬籠を持ってくると、甚吉に続いて七星堂から外に出た。卯月の陽光が照らす中、二人で裏長屋へと急ぐ。
心配そうに唇を引き結んでは、何度も頭を振りながら今にも走り出しそうに歩く甚吉は、たぐいまれなる愛妻家だ。
もうじき花が咲き誇りそうな紫陽花の脇を通り抜けて甚吉の家に入る。
するとお安が布団に横になっていて、そばではまだ幼いお絹が心配そうに目を潤ませていた。
「ほら、若先生が来てくれたからな!」
元気づけるように声を上げた甚吉が、草履を慌てたように脱いで、布団のそばに座り込む。薬籠を持つ手に力を込めつつ、椋之助も中へと上がった。
膝をつき、椋之助はまじまじとお安の様子を窺う。汗ばんだ肌に、乱れた黒い髪がはりついている。瞼を開けたお安の瞳には辛そうに涙が滲んでいた。
「失礼しますよ」
お安の手首に触れ脈を取った椋之助は、その後あれやこれやと問診をした。
怜悧に変わった眼差しだったが、声音は柔らかく穏やかなままだ。
「なるほど」
「若先生、お安はどうなんです!?」
「風邪でしょう」
弧を描いた唇に僅かばかり苦笑の色を差し、椋之助が告げた。すると甚吉の表情が、目に見えて安堵したものへと変わる。肩から力を抜いた様子の甚吉が、正座した膝の上に置いた両手の拳をぎゅっと握り、涙ぐみながら大きく何度も頷き笑みを椋之助へと返す。
「こちらを飲むように」
薬籠から漢方薬を入れた薬包紙を取り出し、椋之助は日に三度飲むようにと伝える。
「有難うございます、有難うございます!」
拝むように薬を受け取った甚吉がそばにそれを置いてから、燧袋に手を伸ばす。
「お代は――」
「いつも通りですよ」
「三百二十文ですね!」
この頃、町人が医者にかかるというのは、実は中々に難しいことではあった。理由は診療費だ。だが七星堂は、藩に仕えていない時分は、貧富の差無く広くを助けたいという、凌雲の意向から、どのような病や怪我であっても、相手の身分がどのようなものであっても、基本的に診療費は三百二十文(約八千円)と一律で決めてあった。代わりに、必ずその銭は貰っている。
椋之助の費えは、柴崎家への俸禄から援助を受けている。なお凌雲もそれは同じだが、藩医としての収入もある。後ろ盾があることもあり、ゆったりと構えて七星堂を運営することが叶っているといえる。
「確かに」
事前に用意してあった様子の三百二十文を受け取り、椋之助は唇の両端を持ち上げてそれをしまう。
その後は甚吉に見送られて、椋之助はあじさい長屋を後にした。
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