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―― 本編 ――
【二】ナオの夢。
しおりを挟む帰宅した僕は、ソファに座って、背中を深々と預けた。とても疲れていた。
ナオがいないと全てが億劫だ。何故ナオがそばにいないのかと疑問に思っては、ナオの最期を思い出す。僕は胸が苦しくなって、窓を見た。僕はナオを窓の前で、幾度も抱きしめた。そばにある寝台で、僕はナオを抱いた。優しく撫でれば、ナオはくすぐったそうに顔を動かし、僅かに顎を持ち上げて僕を見ていた。僕は頻繁に、彼女の顎の下を擽り、耳の後ろを指で撫でた。そうすると、ナオは甘い声で啼いた。僕は、寝台で何度も何度も、ナオを抱いた。それを思い出し、彼女の体温を想起し、僕はさらに苦しくなって、ギュッと目を閉じた。
僕は両腕で体を抱く。何故腕の間に、ナオはいないのだろう。再び疑問に思っては、彼女の最期の姿に直面する。目を伏せれば、瞼の裏に焼き付いて離れない、入院中の苦しそうな姿がよぎった。不安そうな瞳が僕の脳裏を埋め尽くす。
気づくと僕の体は震えていて、頬に涙の筋が出来ていた。
僕は声を出さずに、静かに泣く。いくら泣いてもナオが帰ってこないことは、勿論理解している。この涙は、自然に出てくるから、僕にはどうしようもない。僕はそのままひとしきり、目を伏せナオを思い出しながら涙を零した。
――涙を拭ったのは、柊が夕食の知らせを運んできた時だった。腕で目を擦ってから、僕は立ち上がり、自室から出た。本当は、食欲なんてない。もうずっと、僕は味のしない食事を義務的に食べている。
ダイニングへ着くと、本日はボロネーゼらしく、皿が僕の席の前にあった。
フォークで僕は、パスタを巻き取る。
ミートソースの赤い色が、最期が近づいた頃、血を吐いたナオを彷彿とさせた。気分が悪くなる。白いテーブルクロスの上にあるワイングラスに浸る葡萄酒の赤もまた、僕を苦しくさせる。吐き気がした。僕は一口だけ食べて、席を立つ。
「日向様?」
柊の声を無視して、僕は足早に階段を上り、自室へと戻った。
そしてチェストの上に置いてあるナオの写真を手に取った。僕と二人で撮った写真だ。
それを見たら、僕の涙腺が決壊し、今度は僕は声を上げて号泣した。
そこへノックの音がし、僕は何も答えなかったのに、柊が入ってきた。
僕の様子を見た柊は、ハッとした顔をした。
「日向様……」
僕を哀れむような声が、静かな室内に響く。
「ナオ様の事は、本当に残念です。不治の病を急に発症するなんて……」
「……」
ナオは、急性の病で亡くなった。誰にも、どうしようもなかった。手の施しようがなかった。その事実を思い出し、脳裏に様々な、末期の苦しげなナオの姿が浮かび、僕はさらに号泣した。声を上げて、泣き叫ぶ。
「どうして、どうして……! どうしてなんだ。どうして……ナオ、ナオ……僕はナオがいないとダメなのに……僕をおいていった、酷い、酷いよナオ……なんで、なんで!!」
首を振りながら、僕は声を上げる。すると柊が、困ったような顔をして、歩みよってきた。そして泣きすぎて呼吸が苦しくなっていた僕の背中を、柊はゆっくりと撫でた。
「日向様。ナオ様はもういない――それは、お分かりですね?」
「誰よりも分かってる!! ナオがいなくて、こんなにも苦しいんだから、僕ほどナオが世界から消えてしまった事を分かっている人間なんていない!」
「ナオ様は、そのように悲しむ日向様を見たら、どのように思うのでしょう? きっとナオ様は、日向様の幸福を願っているはずです」
「ナオがいなきゃ、幸福になんてなれない!」
「日向様、現実を直視して下さい。死は等しく、なにものにも訪れるのです。厳しいことを申し上げますが、自己憐憫に浸るのも、いいかげんになさいませ」
強い口調でそう言ってから、呆れたように吐息し、柊は目を眇めた。
柊の言葉はきっと正しい。
僕の理性はそう述べたけれど、感情が理解を拒否した結果、僕は泣き叫んで、ナオをひたすら求めた。号泣している僕のそばに、ずっと柊が立っていた。次第に無表情になった彼だが、僕が泣き止むまで、見守ってくれた。僕が泣き止んだのは、深夜のことだった。
「安心するように、紅茶をお持ち致します。カフェインが入っていない品を」
そう言うと柊は一度出て行き、それからすぐに茶器の載る盆を持って戻ってきた。
「セントジョーンズワートに類似の効果があります。きっと、ぐっすりと眠れますよ」
柊は微苦笑しながら、テーブルにティーセットを置いた。そして紅茶をカップに注ぐ。泣き疲れた僕は、ぼんやりとそれを見ていた。そうしてお茶が注がれた後、カップを持ち上げて、ゆっくりと傾ける。カップに浸るお茶の味は、僅かに甘かった。飲むと、体が温まっていき、確かに安心する気がした。
ゆっくりと飲む内に、三十分ほど経過した頃、僕を睡魔が襲った。
「ありがとう、柊。眠れそうだよ」
「そうですか。それでは私は失礼致します」
柊は茶器を片付けてから、盆を持って、部屋から出て行った。僕は寝台へと向かい、寝転がって、布団を掛けた。ナオも同じ毛布の中にくるまっていたのが懐かしい。僕が腕枕をするようにして、そこに頭を預けて、僕の体の方を向いて、ナオはよく眠っていた。そんな事を考える内に、ぼくはすぐに眠りについた。
――そして、夢を見た。
ナオが元気だった頃の夢だ。
僕の膝の上にのり、安心した様子で、僕の体に密着していたナオ。
なにものよりも愛らしく、可愛く、綺麗で、美しかった。性格は温厚だったが、時に子供のように玩具に興味を示す、純粋さがあった。僕はたびたび、ナオが好きそうな玩具を買って、二人で遊んだ。ナオは、僕の目には、幸せそうに映っていた。
幸せだ。夢の中で、僕の胸は、日だまりのように温かかった。ナオのそばにいられる。それがどうしようもなく嬉しくて、僕は嬉しさから、頬に涙の筋を作った。
するとジリジリジリと唐突に音がした。
ハッとして目を開けると、ナオの姿はどこにもなく、無情な目覚まし時計の音が鳴り響いていた。夢の痕跡は、僕の頬を塗らしている涙だけだった。
辛かった。幸せがあったからこそ、幸せを知ってしまったからこそ、喪失が辛い。
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