ナオが死んだ。

水鳴諒

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―― 本編 ――

【三】虹の橋

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 ――美術館へ行く日が訪れた。
 連絡先は交換していたが、僕は一度も礼子嬢に連絡しなかったし、あちらからも連絡は無かった。柊と先方の使用人が打ち合わせをし、僕はある祝日に、美術館の前に立った。秋の風に錆浅葱色のマフラーが揺れる。少しの間待っていると、正面で車が停車し、礼子嬢が降りてきた。

「来てくれてありがとう」

 僕が義務的にそう述べると、礼子嬢が軽く頭を振った。

「私のほうこそ、美術館に連れてきて貰えたのが嬉しいです。ありがとうございます」

 そんなやりとりをしてから、礼子嬢が入り口に立てられている看板を見た。つられて視線を向けると、『猫の絵画展』と書かれていた。僕の心は平坦で、特に心は動かない。だが興味のある素振りで笑顔を浮かべ、先導するように中へと入った。

 そこには高名な画家が描いた、様々な猫をモティーフにした油絵が飾られていた。
 入り口付近の猫達は、どれも明るく楽しそうだった。陽気な絵の数々に、僕はしらけた気持ちになる。一つ一つ興味深そうに見ている礼子嬢を観察しながら、僕は正直なところ、退屈でたまらなかった。苦痛だ、猫の絵なんて。

 そう考えながら、長い路地の突き当たりで、右手に曲がる。この図書館はL字型だ。
 すると最奥に、一際巨大な油絵があった。
 僕は何気なくそれを見上げる。そこには、ハチワレの猫と、虹の橋が描かれていた。僕は息を詰めた。その絵画を見ると、ドクンドクンと心臓の音が響いてきて、特に猫を直視すると、それは酷くなった。心を動かされたのは初めてだった。ナオが死んだ時、僕はやはり動悸がした。衝撃を受けた。それと同じくらいの衝撃が、この絵を見ていると僕に襲いかかってくる。

「虹の橋」

 隣にいた礼子嬢がぽつりと呟いた事で、僕は我に返った。
 そちらを見ると、どこか悲しげな顔で小さく笑っている礼子嬢が、続けて口を開く。

「猫は、死ぬと虹の橋を渡ると言います。これは、亡くなった猫を描いているのですね」

 奥は思わず、片手で口を覆った。
 それから、改めて描かれている猫を見る。何故なのか、僕の灰色になってしまった世界の中で、この絵画だけは色を持っているように見えた。

 ――図書館を後にした僕達は、最寄りのカフェでお茶をする事になっていた。
 僕はココアを頼み、彼女はカフェラテを頼んだ。
 飲み物の温かさと甘さに、僕の胸の動悸が少しだけ鎮まった。

「猫の絵画は、いかがでしたか?」

 カップを両手で持っている礼子嬢に声に、僕は必死で笑顔を作ろうとした。なのにいつもと違って上手くいかず、口元だけが歪んだ笑みを形作った。それに焦りながら、僕は答えた。

「その……興味深かったよ」

 すると小さく礼子嬢が頷いた。

「猫、お好きなのですか?」
「うん、まぁ」
「飼ったことがあるのですか?」
「あるよ。死んじゃったけど」
「そうですか……どんな猫だったのですか?」
「ハチワレ。最後に見た絵画の猫にそっくりだったよ」
「お名前は?」
「――ナオだよ」

 僕はナオの名前を放った時、胸が苦しくなった。世界が歪んで見える気がした。
 ――理由は分かっている。なにせ医師の診断を受けたからだ。僕は重篤な、ペットロス症候群なのだという。息苦しくなって、僕は思わず片手で口元を覆う。呼吸が上がっていく。頭の中に、ナオの姿がよぎっては消えていく。

「どうかなさいましたか? 大丈夫ですか?」
「っ……平気だから……なんでもないよ……なんでもないから」

 僧は言いつつ涙がこみ上げてきたので、僕は零れないように天井を向いた。早く涙を乾かさなければと必死になる。

「お辛いのですね」
「……」
「いつも余裕そうに笑っていらっしゃるのに……そんなお顔もされるのですね。貴方の感情的な面を、私は初めて見たように思います」

 そう語ると、礼子嬢は立ち上がり、僕の隣に座り直した。四人がけの席だから、僕は顔の向きを戻して少しだけ窓際につめた。礼子嬢は、僕の肩に手を優しく置くと、僅かに首を傾げ、じっと僕の顔を覗き込んだ。目が合う。

「悲しい時は、泣けばよいのですよ。誰も咎めません」
「っ、うちの執事なんかは、もうやめろと言うけどね」

 僕は涙で瞳を潤ませつつ、冗談めかした明るい声を放つ。表情と言葉が一致していない自信がある。ただ、僕の唇だけが、弧を貼り付けて必死に笑おうとしていた。

「今おそばにいるのは、私です。私は、咎めません」
「……っ」
「悲しいのでしょう? 辛いのでしょう? そういった気持ちを内側にため込んでいたら、具合が悪くなってしまいますよ」

 穏やかな彼女の声を聞いていたら、僕はついに涙を零した。
 笑う努力は続けているのだが、涙は止まってくれない。
 この日僕は、ひとしきり泣き、彼女に弱さを見せてしまった。

「……ありがとう。もう大丈夫だよ」

 二時間ほどしてから、僕は泣き止んだ。そして苦笑した。僕が泣いている間、礼子嬢は何も言わずに、ただ僕に寄り添ってくれた。

 こうしてこの日の義務的なデートは、予定外の内容で終了した。
 僕は、次の約束を取り付けるのを失念してしまった。


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