ナオが死んだ。

水鳴諒

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―― 本編 ――

【四】新しい命

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 礼子嬢から連絡が来たのは、冬にさしかかった頃の事だった。既に結婚したい旨は、叔父が通達してあったが、連絡をしていなかった僕達。僕は前回のデートの事が気まずくて、礼子嬢の事を時々思いだしては、頭を振ってその出来事の記憶を振り払おうとしていた。

『私の家にお招きしたいのです。日時は――』

 突然の誘いだったが、スッと目を眇めて、僕は同意の返事をした。
 それから柊に、告げられた日のスケジュールを調整してもらった。

 そして招かれた当日が訪れた。

「いってらっしゃいませ」

 柊に見送られて、僕は車に乗り込む。専属の運転手が、御笠家まで僕を乗せていった。御笠家は和風建築だったが、内部は所々洋風に改装されていた。

「来てくれて有難うございます」

 黒いハイネックのセーター姿の礼子嬢は、僕が初めて見る笑顔を浮かべていた。

「実は、新しい命が生まれたのです」

 それを聞いて、僕は息を呑んだ。彼女は三女だったなと思い出す。ならば二人の姉のどちらかに、子供が生まれたのだろうかと考えた。家族構成は聞いていた。

「ぜひ、日向様に会わせたくて。どうぞこちらへ」

 歩きはじめた彼女の後ろを、僕は追いかけた。そして応接間の前をすぎ、奥の一室の洋風の扉を礼子嬢が開けるのを見た。

「ニャァ」

 その瞬間に声がした。

「ミー」
「ニャ」
「ウミャ」
「ミー」
「ニヤァ」

 それは、紛れもなく猫の声だった。驚いて僕は目を見開く。
 そこには、乳をあげている母猫と、それを求めている五匹の仔猫の姿があった。目は開いているが、まだ生まれたばかりだと分かる。

「愛らしいでしょう?」
「……そっ、そうだね」

 驚愕したままで、僕は頷いた。確かに、新しい命には違いない。ただ、僕は動揺していた。ナオの死後、これほど間近で猫を見た事が無かったからだ。

「実は、里親を探しているのです。三匹は既に見つかっていて、一匹は私の家で、母猫と一緒に飼うと、父や母を説得したのですが……もう一匹。新しい家族を迎えてくれる里親を探しているのです。これ以上は、私の家では飼えません」

 頬に手を添え、悲しそうに礼子嬢が述べた。
 それから彼女は、大きく深く息を吐く。

「脱走して帰ってきたら、妊娠していたのです。避妊手術をする予定の直前に脱走してしまって……」
「……な、なるほど……」
「帰ってきたら、お腹が大きくなって、そして五匹の新しい命が生まれたのです。みんな、本当に可愛くて。本音を言えば、全員飼いたいのですが、そういうわけにもいかなくて……」

 礼子嬢はそう述べると、他の猫とは異なり、一歩後ろにいて、他の猫たちが占領しているから乳にありつけないトラ猫を見た。

「このトラ猫です。キジトラで、茶色の仔。ちょっと控えめで、他の猫たちに気をつかってしまうのです。弱々しくて」

 苦笑した礼子嬢は、トラ猫をゆっくりと手で抱いた。
 片手にのりそうなくらい小さく、他の仔猫たちよりも痩せ細っていて、四つの足はまるで棒のように細かった。

「この仔だけが、飼い主が見つからないのです。私の両親は、別の仔を気に入ってしまっていて」
「そうなんだ……」
「日向様は、猫を飼育した経験があるのでしょう? 猫を飼うのは、慣れているのでは?」
「……」

 それはそうだ。誰よりもナオを愛していた僕は、徹底的に猫の育て方を学んだ。

「里親になって頂けませんか?」
「ッ」

 そう言われるのではないかと、予測していた言葉だった。僕は硬直し、瞳だけを左右に揺らした後、改めて仔猫を見る。キジトラの仔猫は、少しだけ垂れ目に見える。

「ぼ、僕は……ナオの代わりはいないから、もう猫は飼わないと決めてて……」
「それは残念です。とすると、この仔は……保健所に連れて行くしかありませんね……」

 礼子嬢の声が沈んだ。僕は目を見開く。
 その意味を正確に理解した。
 ――殺処分するという意味だ。
 ナオの顔がよぎる。ナオのように、この仔は死んでしまう。それも、ナオと違って元気なのに。そんな事が許されるのか? 僕は気づくと口を開いていた。

「分かったよ。僕が引き取るよ」

 こうして、僕はこの日、キジトラの仔猫を引き取った。

 ――仔猫の世話は、非常に大変だ。ナオ用の大きな猫用のトイレなどは家にあったが、小さすぎる仔猫は、その大きさではトイレには入れない。僕はすぐに、仔猫用のトイレを購入してくるように、柊に命じた。そもそもまだ、トイレの躾もされていない仔猫は、当初は僕の布団の上で粗相をする事もあった。

「ミーミー」

 僕の姿が見えないと、仔猫は啼く。か細い声で、ずっと啼いている。その上、僕の後を必死についてきては、僕の体をよじ登って肩にのる。

「名前……どうしようかな」

 引き取って一週間。僕はまだ名前を決められないでいた。いくつかの候補はあるのだが、決定打が無く、悩みあぐねいている。

「相談してみようかな」

 猫を引き取って以来、毎日写真と共に躾けの状態や、離乳食についてなどを、僕は礼子嬢とやりとりしている。当然のように毎日、幾度も携帯端末で、僕は礼子嬢とやりとりをした。今では、それが自然だ。返事が無いと、気になる。

「ううん。僕の猫なんだから、僕が決めないと」

 そう呟いて、僕はネットで名前の検索をした。
 それから、ナオと名付けた時はどうしたのだったかと考える。

「あ、そうだ。啼き声が、『なぁお』って聞こえたからだった。とすると、こいつは、『みー』って啼くことが多いから……うん、『ミー』にしよう。お前の名前、決まったぞ。ミーちゃん」
「ミー、ミー」

 愛らしく啼く仔猫の名前を、ミーに決めた僕は、ニコニコしながら、小さなその仔の頭を撫でた。思ったよりは固いが、柔らかい。毛並みはフワフワだ。

 僕は、ミーと共に毎夜眠る。朝も共に起きる。
 ミーの存在は、すぐに僕の生活の一部になった。

 そんなある日、紅茶を持ってきた柊が、僕の膝の上にいるミーを一瞥してから、微笑した。

「最近、日向様は笑顔が増えましたね。それに、涙を零さなくなった」

 それを聞いて、僕はハッとした。仔猫を育てる事は大変で、毎日必死に接していた結果、僕はナオの事を、先輩の猫、以前育てたお手本の猫として日々思いだしてはいるけれど、辛い姿や喪失感に飲み込まれる事が無くなっていた。チラリと僕は、膝の上にいるミーに視線を落とす。

「ミー、ミャァ、ニャァ」

 少しずつ泣き方が変わってきたミー。必死で生きようとしていて、少しずつだが大きくなっていくのが実感できるミー。ミーは僕に、生を教えてくれた。

 ――ああ、そうか。

 ナオは幸福と愛と喪失を僕に与えた。だから僕は、愛を持ってミーを育てられるし、ミーのことを、幸福をもらう対象としてではなく、僕が幸せを与える側として接する事が出来る。ナオが全部教えてくれた事柄だ。そして――残った喪失。これに関しては、ミーが今、僕に新しい事を教えてくれている。それは、生きると言うことだ。ミーを見ていると、僕は生を実感する。ナオの喪失がもたらした心の中の空虚な穴が、必死に生きるミーの姿で、明るさで埋められていく。そう気づいた瞬間、僕はいつの間にか、世界が灰色ではなくなっていたことに気づいた。どこも色づいていない。今、柊がテーブルに並べたティースタンドを一瞥し、マカロンを一つとって口へと放り込めば、きちんと甘い味がした。

 救済された僕は、静佳に瞼を伏せる。
 ナオのことは生涯忘れない。そして同じ猫であっても、ナオとミーは違う。
 そして僕は、ミーの事もまた、今、とても大切だ。

「幸せだからね。笑っていられるんだ。柊、その……これまで沢山、泣いちゃって、迷惑をかけたね。ごめん。僕はもう大丈夫だよ」

 苦笑しながら僕が述べると、柔らかな笑顔を浮かべた柊が、軽く首を振った。

「私では、癒やしの存在になれなかった事が少々残念ですが――このように愛らしいミー様を見ていると、この結果が、当然の帰結だったようにも感じます。日向様には、笑顔が似合います。誰よりも、幸せが似合います。そのために、ミー様は一助となるのでしょうが、私も今後も日向様をお支えしますからね?」
「ありがとう」

 僕もまた笑う。自然と笑みが浮かんできた。周囲の人々にも恵まれて、僕は本当に幸せ者だと実感した。ナオが教えてくれていたから、僕は素直に幸せを享受できるし、ミーを初め、大切な人のことを、僕自身が幸せにしてあげられる気がした。

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