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第4楽章 『amoroso』
4-5.大好きだよ、ずっと
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『凄いね、陽和。ちゃんと仕上げられたんだ』
声が、懐かしいような音で耳に届いた。
未だ姿を見せていなかった時のような、包み込むような声。
(そ、っか……)
姿が見えないだけではない。
細めた視界で捉えた世界そのものが、少しずつではあるが確かに、その姿を失いつつあった。
『もう、これで本当にお別れになるからね。挨拶をしようと思って』
「何が挨拶よ、もう。せっかくいいところだったのに」
『あはは。まぁ、そう怒らないでくれよ。これで、本当に最後なんだから』
「……うん、分かってる。私も昨日会えなくて、ちょっとイライラしてたところだったから」
『え――えっ、イライラ…!? ごめん、それは限界だったと言うか、出るに出られなかったと言うか、本当はちゃんと会って話したかったんだけど、あれで最後になっちゃうなら、全部練習に充てて欲しかったからだし、えっと……』
「まったく、思い返せば最初からそうだったよね、陽向ってば。わけの分からないタイミングで呼び出すし、そのくせ姿を見せて欲しいって懇願したら誤魔化すし、でも結局見せてくれたり、かと思えば最後の最後まで黙ってることもあったし」
『それは――』
「…………なんて」
思えばそれすらも。
今となっては良い思い出だ。
「陽向には感謝しかないよ。一つ一つにお礼を言いたいけど、色々あり過ぎて出し切れないし、時間も足りない」
『感謝と言うなら、僕だって同じさ。一時とは言え、良い思い出を残すことが出来た。君の一部として、記憶として、ずっと残り続けていくものになった』
「うん、それなら嬉しい。あーあ、なんか勿体ないなー! こんなに綺麗な場所なのに。うわ、ほら見て、本棚どんどん壊れていってる。壁も剥がれてくね」
『そうだね。もう少し、僕だってここにいたかったけど――』
寂しそうに、
『陽和にはもう、必要ないからね』
陽向は、そう呟いた。
寂しさは勿論ある。
けれどもそれ以上に、明るい気持ちにもなれた。
「言い足りないし時間もないし、いいこと思いついた!」
『何だい?』
「ちょっとの時間だけでも良いからさ、最後だって言うなら姿見せてよ。頑張ったら出来ない?」
『そう長い時間は難しいけど――』
一瞬間光った目の前の空間に、陽向は姿を現した。
そのすぐのこと。
私は、力の限り強く、その華奢な身体を抱き締めた。
「えっ、ちょ、痛い痛い…!」
「夢なんでしょ? ほら痛くない痛くない。男の子ならちょっとは我慢する」
「あ、はは……はいはい、痛くない痛くない。分かったから、もう離さなくてもいいよ」
「うん。ありがと、そうする」
観念したように言う陽向の身体を、私は離さない。
確かに伝わる熱も、微かに聞こえる吐息も、優しく撫でてくれる掌の感触も。
どれも、これで本当に最後だ。
崩れゆく景色の中、私はただ一つだけ伝えられていない言葉があったことを思い出した。
母のことを知って気分が落ちている時に寄り添ってくれていたこと。
ピアノの練習に付き合ってくれていたこと。
いや、その遥か以前――姿形、声すらも知らない時から、ずっと呼び続けてくれていたこと。
その途方もない思いに、私も答えないといけない。
「あの――」
「そう言えば陽和、作家になるのが夢なんだって?」
「え? なんでそれ――って、そっか、私の経験したことなら分かってるんだっけ」
「前々からね。それで、どうかな? 僕と出会ったこと、この夢のことなんかを作品にしてみたら、きっと売れるよ?」
「だーめ。きっと面白いけど、それだけは絶対にやらないって決めたの。ここは、陽向と私だけの、特別な場所なんだもん」
「友達には話してたけどね」
「……うるさい」
「あはは! そっか、まぁ残念だけど、確かにそうだ。ここは僕と陽和だけの、特別な場所だ」
「そうそう、当たり前のこと言わせないでよね」
私はわざと呆れたように笑った。
それに陽向も笑い返して――少ししたらまた、静寂が戻った。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
陽向は当たり前に頷く。
私がそう呼ぶことが、そう呼んだことが、とても自然なことのように。
優しく温かな声に、今更胸が苦しくもなるけれど。
伝えないわけにはいかない。
「大好きだよ――ずっとずっと、私のことを呼び続けてくれて、ありがと。そのおかげで、今の私がある」
やっとの思いで絞りだした言葉。
陽向は、しばらく黙ったままだった。
どうしたものかと見上げかけたところで、はぁ、と息を吐くのが聞こえた。
「あぁ、もう……そんなことを言われたら、消えるのが嫌になるじゃないか」
「何よ、今更。自分から言い出しておいてさ」
「そうだけど……君の中で生き続けることにかわりはないんだけど、やっぱり、たまにはこうして話したくもなってきちゃった。僕だって、陽和のことが大好きなんだから」
「……うん」
陽向のことを抱き締める両手に、残った力の全てを注ぎ込んだ時、世界は大きく崩れ始めた。
陽向の身体が淡い光に包まれる。
たった今まで腕の中にあった筈の感触が、徐々に軽くなってゆく。
そうして軽くなった陽向の身体は、立ち昇る光に導かれるように、私の身体を離れた。
寂しいし、悲しいし、辛い。
だからこそ私は、せめて最後くらいは、嘘でもいいから笑顔で送り出さないと。
「絶対、絶対にお母さんに届けるから――だから見ててね、お兄ちゃん!」
大きく、決意と覚悟を込めて伝えると、陽向は優しく微笑んで、確かに頷いてくれた。
そうして少しずつ、身体を包み込む光に連れられて――陽向は、世界とともに見えなくなった。
声が、懐かしいような音で耳に届いた。
未だ姿を見せていなかった時のような、包み込むような声。
(そ、っか……)
姿が見えないだけではない。
細めた視界で捉えた世界そのものが、少しずつではあるが確かに、その姿を失いつつあった。
『もう、これで本当にお別れになるからね。挨拶をしようと思って』
「何が挨拶よ、もう。せっかくいいところだったのに」
『あはは。まぁ、そう怒らないでくれよ。これで、本当に最後なんだから』
「……うん、分かってる。私も昨日会えなくて、ちょっとイライラしてたところだったから」
『え――えっ、イライラ…!? ごめん、それは限界だったと言うか、出るに出られなかったと言うか、本当はちゃんと会って話したかったんだけど、あれで最後になっちゃうなら、全部練習に充てて欲しかったからだし、えっと……』
「まったく、思い返せば最初からそうだったよね、陽向ってば。わけの分からないタイミングで呼び出すし、そのくせ姿を見せて欲しいって懇願したら誤魔化すし、でも結局見せてくれたり、かと思えば最後の最後まで黙ってることもあったし」
『それは――』
「…………なんて」
思えばそれすらも。
今となっては良い思い出だ。
「陽向には感謝しかないよ。一つ一つにお礼を言いたいけど、色々あり過ぎて出し切れないし、時間も足りない」
『感謝と言うなら、僕だって同じさ。一時とは言え、良い思い出を残すことが出来た。君の一部として、記憶として、ずっと残り続けていくものになった』
「うん、それなら嬉しい。あーあ、なんか勿体ないなー! こんなに綺麗な場所なのに。うわ、ほら見て、本棚どんどん壊れていってる。壁も剥がれてくね」
『そうだね。もう少し、僕だってここにいたかったけど――』
寂しそうに、
『陽和にはもう、必要ないからね』
陽向は、そう呟いた。
寂しさは勿論ある。
けれどもそれ以上に、明るい気持ちにもなれた。
「言い足りないし時間もないし、いいこと思いついた!」
『何だい?』
「ちょっとの時間だけでも良いからさ、最後だって言うなら姿見せてよ。頑張ったら出来ない?」
『そう長い時間は難しいけど――』
一瞬間光った目の前の空間に、陽向は姿を現した。
そのすぐのこと。
私は、力の限り強く、その華奢な身体を抱き締めた。
「えっ、ちょ、痛い痛い…!」
「夢なんでしょ? ほら痛くない痛くない。男の子ならちょっとは我慢する」
「あ、はは……はいはい、痛くない痛くない。分かったから、もう離さなくてもいいよ」
「うん。ありがと、そうする」
観念したように言う陽向の身体を、私は離さない。
確かに伝わる熱も、微かに聞こえる吐息も、優しく撫でてくれる掌の感触も。
どれも、これで本当に最後だ。
崩れゆく景色の中、私はただ一つだけ伝えられていない言葉があったことを思い出した。
母のことを知って気分が落ちている時に寄り添ってくれていたこと。
ピアノの練習に付き合ってくれていたこと。
いや、その遥か以前――姿形、声すらも知らない時から、ずっと呼び続けてくれていたこと。
その途方もない思いに、私も答えないといけない。
「あの――」
「そう言えば陽和、作家になるのが夢なんだって?」
「え? なんでそれ――って、そっか、私の経験したことなら分かってるんだっけ」
「前々からね。それで、どうかな? 僕と出会ったこと、この夢のことなんかを作品にしてみたら、きっと売れるよ?」
「だーめ。きっと面白いけど、それだけは絶対にやらないって決めたの。ここは、陽向と私だけの、特別な場所なんだもん」
「友達には話してたけどね」
「……うるさい」
「あはは! そっか、まぁ残念だけど、確かにそうだ。ここは僕と陽和だけの、特別な場所だ」
「そうそう、当たり前のこと言わせないでよね」
私はわざと呆れたように笑った。
それに陽向も笑い返して――少ししたらまた、静寂が戻った。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
陽向は当たり前に頷く。
私がそう呼ぶことが、そう呼んだことが、とても自然なことのように。
優しく温かな声に、今更胸が苦しくもなるけれど。
伝えないわけにはいかない。
「大好きだよ――ずっとずっと、私のことを呼び続けてくれて、ありがと。そのおかげで、今の私がある」
やっとの思いで絞りだした言葉。
陽向は、しばらく黙ったままだった。
どうしたものかと見上げかけたところで、はぁ、と息を吐くのが聞こえた。
「あぁ、もう……そんなことを言われたら、消えるのが嫌になるじゃないか」
「何よ、今更。自分から言い出しておいてさ」
「そうだけど……君の中で生き続けることにかわりはないんだけど、やっぱり、たまにはこうして話したくもなってきちゃった。僕だって、陽和のことが大好きなんだから」
「……うん」
陽向のことを抱き締める両手に、残った力の全てを注ぎ込んだ時、世界は大きく崩れ始めた。
陽向の身体が淡い光に包まれる。
たった今まで腕の中にあった筈の感触が、徐々に軽くなってゆく。
そうして軽くなった陽向の身体は、立ち昇る光に導かれるように、私の身体を離れた。
寂しいし、悲しいし、辛い。
だからこそ私は、せめて最後くらいは、嘘でもいいから笑顔で送り出さないと。
「絶対、絶対にお母さんに届けるから――だから見ててね、お兄ちゃん!」
大きく、決意と覚悟を込めて伝えると、陽向は優しく微笑んで、確かに頷いてくれた。
そうして少しずつ、身体を包み込む光に連れられて――陽向は、世界とともに見えなくなった。
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