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第1章 『昔日の誓い』
7.酒呑童子
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斬って、斬って、斬って。
ただひたすらに斬り続けて。
部隊の連中に任せても大丈夫だろう、と思える頃には、さすがのふたりも息を切らしていて。
三時間、四時間……ともすれば、それ以上の時間がかかったかも分からない。
それだけ長時間、普段より気性の荒くなった妖魔を相手取り刀を振るい続けた手の皮はすっかり剥がれ落ち、柄は鮮血に染まり切っていた。
第一部隊が到着する頃には、強力な妖魔は大方葬った。
あとは、ただ訳も分からず走り回る低級の妖魔を倒すだけ。
ハクを枕に背中合わせで一息ついてようやく、酒呑童子のものと思われる禍々しい妖気も感じられなくなっていることに気が付いた。
「……退いた?」
「或いは、ただの前哨戦だったか、だな」
「それは嫌ですね……もう、指一本も動かせませんよ……」
「まったくだ。長らく前線を離れていたツケだな、これは。改めて鍛え直さなければならん」
そこかしこから隊員と妖魔とによる剣戟の音が響く中、ふたりはこれまでにないほど羽を伸ばしていた。
呼吸は落ち着き、脈も安定している。
体力は、とうに底をついているというのに。
「それにしても、随分と暴れたな……何百年ぶりだろうか」
そこかしこに転がる、未だ霧散していない妖魔の亡骸を横目に、菊理が呟くように言う。
何百年ぶり、という言葉はそのまま、ふたりが最後に共闘した時から今までにも当てはまる。
互いに疲れ果てた中でありながら、どこか懐かしさや感慨深さのようなものを感じていた。
「二百と三十年程でしょうか……やはり、前線には出なくとも、日頃からある程度の鍛錬は積んでおくものですね。刀が、まさかあそこまで重く感じるようになっていたとは」
「馬鹿を言え。それで単独、妖術も使わず千匹近い妖魔を斬ったというのだから、恐ろしい話だ。全盛期のお前を見ているようだったぞ『狂い狐』」
「お互い様ですよ『戦の鬼』さん……貴女だって、可笑しくなるくらいの数を斬っていたではありませんか」
互い皮肉を言い合えることは不思議に思ったが、ふたりはもう、それ以上のことは何を考えることも、身体を動かすことさえも出来ず、ただそこに座り込んで、仄暗い空に目をやるしか出来ないでいた。
「懐かしいものですね……」
「だな。あの頃は、よもや百鬼夜行と対面する日を迎えるなどとは、露とも思っていなかった。それまでに戦死するのだろうと思いながら、毎夜眠りについていたくらいだ」
いくら寿命が長いとは言っても、心身ともに成熟していた当時からして何百年も先の話だ。御伽噺程度にしか考えたことがなかった。
それぞれ自分の役割は理解していながら、百年を切るまでは、その実感が殆ど沸かなかったのだ。
「……ユウは、ちゃんと元の世界へと帰ってくれたでしょうか」
咲夜が、ぽそりと呟いた。
「分からん。ただ、私だけでなく、ハクまで追い打ちをかけていたようだからな。心配はいらんだろう」
『追い打ちとは異なことを言う』
ハクが心底不服そうに溜息を吐くと、ふたりはケラケラと笑った。
こんな光景も、もう随分と懐かしいものになってしまった。
あの頃は、毎日のようにこうやって笑い、仕事をこなし、次の日を迎える、その繰り返しだった。
遊んだことなど、数える程すら無かった。
そのせい、というのも、半分くらいは理由の内なのだろう。ユウの好意を受け取り、剰え何度もこの世界へ来ることを許してしまったのは。
本来ニンゲンは、この世界に来てはいけない。
何かの間違いで来てしまったとしても、それを容認せず、即刻追い返さなければならないはずだった。
甘やかして、また自分自身を甘くして、それを受け入れるようなことは、あってはならなかった。
ただ――あのまま帰ってくれたのなら、それでいい。
間に合った、とは言えないものだが。
「咲夜、何をそんなに息を切らしているのだ?」
ふと、菊理が尋ねる。
「息を? 私が?」
「呼吸が乱れている原因が疲れでないことくらい、考えずとも分かる。つい数秒前までは、そんなことが無かったのだからな」
「……ええ、まあ。そうですが」
「言わんとしていることは分かるがな。私も、伝え聞く『ニンゲン』という生き物を実際に見るのは初めてだった。あれが、私たちの護っているものなのだな」
「現世と幽世は、唯一の場合を除き、本来は互いに干渉出来ませんから」
「そうだ。しかし、ならなぜ、あの少年はこちら側へ来られたのか――それは、私も気になるところではあった。まあ、恐らくはアレが関係していることなのだろうがな。お前の妖気も、日に日に着実に増しているのが分かる」
菊理の言葉に、咲夜は一度、目を伏せた。
それは咲夜自身、一番気になっていることでもあった。
唯一の場合、というのは、二つの世界を咲夜が繋げた場合に限られる。その為には、咲夜が長年蓄え続けてきた妖気を纏めて消費する。
しかしユウの件に関して、そのようなことは決して行っていない。
行う為の理由もはっきりとしている上、そもそも今はまだその時ではないからだ。
「まただ。呼吸が乱れているぞ。そんなに心配なら、今すぐにでも城へ帰還すればいいだろう?」
「自分だって動けもしない身体で、よく言います。それより――痛っ、ハク? どうしたのです?」
ハクが急に全身に力を籠め、身体を強張らせたことで、柔らかな毛並みに癒されていた頭に痛みを覚えた。
どうしたのかと思考している内、ハクは立ち上がり、森の奥、ある一点だけを険しく見つめ、少ししたら唸り声まで上げ始めた。
全身の毛が強く逆立っている。
「は、ハク……? 一体……」
『静かにしろ。物音を立てるな』
ハクの静かで強い口調に、咲夜は言いかけた言葉を飲み込む。
そうしてすぐに、違和感を覚えた。
ふたりして声を出していたからか、気が付かなかった。否、大規模な戦闘が終わりを見せ始めていたことで、気が緩んでいた。
そのせいで、一瞬だけ判断が遅れた。遅れてしまった。
気の緩みは、戦場では死と同義だ。それを、ふたりはよくよく理解していた筈なのに。
目には見えないながらも、近くからこれでもかというくらいに聞こえていた部下たちの剣戟の音が、すっかりと止んでしまっている。
静か過ぎるのだ。
咲夜と菊理、互いにすぐ隣にいたとは言え、小さな息遣いまではっきり聞こえるというのは、少し考えれば、何よりおかしい事象だと気付けたはずだった。
「ハク――」
『ぐあっ…!』
近くの木陰から、短い悲鳴が聞こえた。
それは次第に、森の中そこかしこから響き始めた。
前後左右、どこからともなく響く悲鳴。目に見えない『それ』に恐怖まで覚え始め、刀の柄を何とか握った矢先。
『グルァ…‼』
ハクの鋭い攻撃が空を切った――そう認識した刹那、
「咲夜ッ…!」
菊理の声が聞こえたかと思うと、咲夜はその身体を大きく弾き飛ばされた。
身体のいたるところをぶつけながら力なく転がり、大木に打ち付けられる形で止まった視界で捉えたのは、
「す、まん、さく……いたかっ、だろ……」
「くく――ぁ、ぁぁあ…!」
声にならない声で、その身体を凝視する。
何度瞬きをしても、その光景は変わらない。
右肩から腹部まで削り取られ、穴の開いた身体からは、その向こう側にあるはずの景色がしっかりと見えてしまっている。
薄暗い森の中にあっても、曇りない満月が落とす光で、よく見えてしまう。
菊理の周りだけ、ちょうど月明かりが綺麗に降りていることも悪く手伝った。
「う、雲外……だれか……」
「どうした……あぁ、これか……きにす、な……あちこちぶつけさせた、おまえの、が……」
「し、喋らないで…! 雲外、雲外…! 今すぐ菊理を運びなさい…! 雲外…!」
叫ぶように願う声は、茂る木々に阻まれて、響くことなく空気に溶ける。
虚しさだけが残ったその場には、菊理の身体が倒れる音だけが木霊した。
少し遅れて、遠くの方でハクまでもが倒れていることにも気が付く。
その脇を、音もなく通り過ぎ近付いて来る『それ』を、咲夜はついぞ目にしてしまった。
「酒吞、童子……」
ただひたすらに斬り続けて。
部隊の連中に任せても大丈夫だろう、と思える頃には、さすがのふたりも息を切らしていて。
三時間、四時間……ともすれば、それ以上の時間がかかったかも分からない。
それだけ長時間、普段より気性の荒くなった妖魔を相手取り刀を振るい続けた手の皮はすっかり剥がれ落ち、柄は鮮血に染まり切っていた。
第一部隊が到着する頃には、強力な妖魔は大方葬った。
あとは、ただ訳も分からず走り回る低級の妖魔を倒すだけ。
ハクを枕に背中合わせで一息ついてようやく、酒呑童子のものと思われる禍々しい妖気も感じられなくなっていることに気が付いた。
「……退いた?」
「或いは、ただの前哨戦だったか、だな」
「それは嫌ですね……もう、指一本も動かせませんよ……」
「まったくだ。長らく前線を離れていたツケだな、これは。改めて鍛え直さなければならん」
そこかしこから隊員と妖魔とによる剣戟の音が響く中、ふたりはこれまでにないほど羽を伸ばしていた。
呼吸は落ち着き、脈も安定している。
体力は、とうに底をついているというのに。
「それにしても、随分と暴れたな……何百年ぶりだろうか」
そこかしこに転がる、未だ霧散していない妖魔の亡骸を横目に、菊理が呟くように言う。
何百年ぶり、という言葉はそのまま、ふたりが最後に共闘した時から今までにも当てはまる。
互いに疲れ果てた中でありながら、どこか懐かしさや感慨深さのようなものを感じていた。
「二百と三十年程でしょうか……やはり、前線には出なくとも、日頃からある程度の鍛錬は積んでおくものですね。刀が、まさかあそこまで重く感じるようになっていたとは」
「馬鹿を言え。それで単独、妖術も使わず千匹近い妖魔を斬ったというのだから、恐ろしい話だ。全盛期のお前を見ているようだったぞ『狂い狐』」
「お互い様ですよ『戦の鬼』さん……貴女だって、可笑しくなるくらいの数を斬っていたではありませんか」
互い皮肉を言い合えることは不思議に思ったが、ふたりはもう、それ以上のことは何を考えることも、身体を動かすことさえも出来ず、ただそこに座り込んで、仄暗い空に目をやるしか出来ないでいた。
「懐かしいものですね……」
「だな。あの頃は、よもや百鬼夜行と対面する日を迎えるなどとは、露とも思っていなかった。それまでに戦死するのだろうと思いながら、毎夜眠りについていたくらいだ」
いくら寿命が長いとは言っても、心身ともに成熟していた当時からして何百年も先の話だ。御伽噺程度にしか考えたことがなかった。
それぞれ自分の役割は理解していながら、百年を切るまでは、その実感が殆ど沸かなかったのだ。
「……ユウは、ちゃんと元の世界へと帰ってくれたでしょうか」
咲夜が、ぽそりと呟いた。
「分からん。ただ、私だけでなく、ハクまで追い打ちをかけていたようだからな。心配はいらんだろう」
『追い打ちとは異なことを言う』
ハクが心底不服そうに溜息を吐くと、ふたりはケラケラと笑った。
こんな光景も、もう随分と懐かしいものになってしまった。
あの頃は、毎日のようにこうやって笑い、仕事をこなし、次の日を迎える、その繰り返しだった。
遊んだことなど、数える程すら無かった。
そのせい、というのも、半分くらいは理由の内なのだろう。ユウの好意を受け取り、剰え何度もこの世界へ来ることを許してしまったのは。
本来ニンゲンは、この世界に来てはいけない。
何かの間違いで来てしまったとしても、それを容認せず、即刻追い返さなければならないはずだった。
甘やかして、また自分自身を甘くして、それを受け入れるようなことは、あってはならなかった。
ただ――あのまま帰ってくれたのなら、それでいい。
間に合った、とは言えないものだが。
「咲夜、何をそんなに息を切らしているのだ?」
ふと、菊理が尋ねる。
「息を? 私が?」
「呼吸が乱れている原因が疲れでないことくらい、考えずとも分かる。つい数秒前までは、そんなことが無かったのだからな」
「……ええ、まあ。そうですが」
「言わんとしていることは分かるがな。私も、伝え聞く『ニンゲン』という生き物を実際に見るのは初めてだった。あれが、私たちの護っているものなのだな」
「現世と幽世は、唯一の場合を除き、本来は互いに干渉出来ませんから」
「そうだ。しかし、ならなぜ、あの少年はこちら側へ来られたのか――それは、私も気になるところではあった。まあ、恐らくはアレが関係していることなのだろうがな。お前の妖気も、日に日に着実に増しているのが分かる」
菊理の言葉に、咲夜は一度、目を伏せた。
それは咲夜自身、一番気になっていることでもあった。
唯一の場合、というのは、二つの世界を咲夜が繋げた場合に限られる。その為には、咲夜が長年蓄え続けてきた妖気を纏めて消費する。
しかしユウの件に関して、そのようなことは決して行っていない。
行う為の理由もはっきりとしている上、そもそも今はまだその時ではないからだ。
「まただ。呼吸が乱れているぞ。そんなに心配なら、今すぐにでも城へ帰還すればいいだろう?」
「自分だって動けもしない身体で、よく言います。それより――痛っ、ハク? どうしたのです?」
ハクが急に全身に力を籠め、身体を強張らせたことで、柔らかな毛並みに癒されていた頭に痛みを覚えた。
どうしたのかと思考している内、ハクは立ち上がり、森の奥、ある一点だけを険しく見つめ、少ししたら唸り声まで上げ始めた。
全身の毛が強く逆立っている。
「は、ハク……? 一体……」
『静かにしろ。物音を立てるな』
ハクの静かで強い口調に、咲夜は言いかけた言葉を飲み込む。
そうしてすぐに、違和感を覚えた。
ふたりして声を出していたからか、気が付かなかった。否、大規模な戦闘が終わりを見せ始めていたことで、気が緩んでいた。
そのせいで、一瞬だけ判断が遅れた。遅れてしまった。
気の緩みは、戦場では死と同義だ。それを、ふたりはよくよく理解していた筈なのに。
目には見えないながらも、近くからこれでもかというくらいに聞こえていた部下たちの剣戟の音が、すっかりと止んでしまっている。
静か過ぎるのだ。
咲夜と菊理、互いにすぐ隣にいたとは言え、小さな息遣いまではっきり聞こえるというのは、少し考えれば、何よりおかしい事象だと気付けたはずだった。
「ハク――」
『ぐあっ…!』
近くの木陰から、短い悲鳴が聞こえた。
それは次第に、森の中そこかしこから響き始めた。
前後左右、どこからともなく響く悲鳴。目に見えない『それ』に恐怖まで覚え始め、刀の柄を何とか握った矢先。
『グルァ…‼』
ハクの鋭い攻撃が空を切った――そう認識した刹那、
「咲夜ッ…!」
菊理の声が聞こえたかと思うと、咲夜はその身体を大きく弾き飛ばされた。
身体のいたるところをぶつけながら力なく転がり、大木に打ち付けられる形で止まった視界で捉えたのは、
「す、まん、さく……いたかっ、だろ……」
「くく――ぁ、ぁぁあ…!」
声にならない声で、その身体を凝視する。
何度瞬きをしても、その光景は変わらない。
右肩から腹部まで削り取られ、穴の開いた身体からは、その向こう側にあるはずの景色がしっかりと見えてしまっている。
薄暗い森の中にあっても、曇りない満月が落とす光で、よく見えてしまう。
菊理の周りだけ、ちょうど月明かりが綺麗に降りていることも悪く手伝った。
「う、雲外……だれか……」
「どうした……あぁ、これか……きにす、な……あちこちぶつけさせた、おまえの、が……」
「し、喋らないで…! 雲外、雲外…! 今すぐ菊理を運びなさい…! 雲外…!」
叫ぶように願う声は、茂る木々に阻まれて、響くことなく空気に溶ける。
虚しさだけが残ったその場には、菊理の身体が倒れる音だけが木霊した。
少し遅れて、遠くの方でハクまでもが倒れていることにも気が付く。
その脇を、音もなく通り過ぎ近付いて来る『それ』を、咲夜はついぞ目にしてしまった。
「酒吞、童子……」
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