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第2章 『新たなる脅威』
6.夜陰に乗じて
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皆が寝静まった夜更けのこと。
木々が風にそよぐ音が心地良い中、
「はっ、はっ、はっ……」
小さくも荒々しい吐息の音が、混ざっていた。
極力殺しているつもりでも漏れるその音は、無防備に大の字で眠る妖魔の少女へと忍び寄る、紗雪のものだ。
穏やかな寝息を立てて眠るその子に跨ると、鞘から抜いた刀身を、その小さな喉元へと添える。
「妖魔……妖魔なんですよ、この子は……」
憎しみを込めた瞳で見下ろしながら、両手に力を籠める。
「これは妖魔……これは妖魔……」
迷いを消し去るべく、頭の中を、昔日の憎悪で満たす為に、呪詛のように繰り返し呟く。
「妖魔、妖魔、妖魔、妖魔妖魔妖魔妖魔ッ…!」
頭が煮えたぎるような感覚そのままに、紗雪は一気に力を籠める。
「――――かはっ! はっ、はっ、はぁ、はぁ……」
刀身が貫いたのは、少女の首元ギリギリの地面。
力み、止めていた息を一気に吐き出すと、突き立てた刀身を抜き取り、力なく地面に転がした。
「私……私、は……」
今なら誰も見ていない。
ユウに見られていたとて、関係を断てばいいだけの話だ。
滅びた集落跡でも目指して、桜花を出てしまえばいい。
ただ、それだけのことなのに。
「あんなことを、言われて……殺せるわけ……」
夕刻、純粋な笑顔を向けられ言われた一言が棘のように刺さって、身体も感情も、憎しみで満たすことが出来なかった。
雪女という種族に生まれ、その境遇から満足な愛情を受けてこられなかった紗雪は、表裏なく向けられる好意に慣れていない。
ユウの時もそうだった。
拒絶したいのに、そうし切ることが出来ない。
無垢なその瞳は、声の調子は、寝相の悪さは、あれから数百年、毎日のように桜花で見てきた妖の子らと、何ら変わりない。
その小さな命を狩り取る行為の、なんと残酷なことか。
最後に一度、深く息を吐くと、今一度持ち上げた刀身を鞘へと納め、起こしてしまわないようにゆっくりと、少女の身体から離れ、すぐ傍らで腰を下ろした。
「ありがとう、雪姉」
控えめなその声に、紗雪は驚き、振り返る。
こちらに背を向けたままで横たわってはいるが、よく観察してみれば、眠ってはいない。
少女の方にばかり意識を向けていた所為で、気付いていなかった。
「……これは、酷い行為を見られてしまいました。起きていたのですね」
「君が動き出した辺りからね。これも、師匠の厳しい躾けの賜物かな」
「ご冗談を。最初から、眠ったフリをしていたのでしょう?」
「……まあ、ね」
紗雪は肩を落とし、観念したように息を吐いた。
「雪姉のやろうとしたことは正しいよ。きっと、本当ならそれが正しいんだ。雪姉がもし、あのまま刃を振り下ろしていたとしても、止めないのが正解なんだよ」
「その言い方だと、ユウは私を止める為に起きていたようですね」
「うん。けど、それはきっと間違いだ。雪姉たち妖にとって、妖魔は脅威だ。敵だ。それは間違いなくて、当然のことで、その価値観が分からないニンゲンの僕の意見の方が、おかしいんだよ」
「そのようなこと……」
ない、とは言い切れなかった。
ユウにとって妖魔は、咲夜の敵だから斬り捨てている相手に過ぎない。
妖気が感じ取れない以上、敵意や悪意のないただ本能で妖を襲う妖魔は、正直なところ敵かどうかも定かでないことだろう。
妖という種族単位での認識、或いは紗雪のように私怨に駆られての認識とは違う。
「……ユウは、その、どうしてこの子を生かそうと思ったのですか?」
紗雪の言葉に、ユウは少し考えた後で、
「殺そうと思えなかった、の方が正しいかな」
いたって真剣な声音で答えた。
「咲夜様から聞いた酒呑童子の言葉に、『妖魔が言葉を話すのは元々だ』っていう節があったんだ。それが、ずっと引っかかってるんだよ」
「酒呑童子が、そのようなことを?」
「うん。ほら、さっき川で捕まえた魚も、普段目にしている動物たちも、言葉は話さないでしょ? 僕の世界に居た声真似が得意な鳥も、言葉は発するものの、その本質は知らずに真似ているだけだった。でも『言葉を話すのは元々だ』なんて、音の響きを真似しているだけの奴が言えるようなことじゃない。妖だけを狙う妖魔……あいつらが本当は何者なのか、ってずっと考えているんだ」
「それで、この子を……?」
「っていうのは、今になってやっと整理できた考えなんだけどね。正直なことを言うと、自分たちと、いや自分と同じ形をしている生き物を殺してしまうのが、ただ純粋に怖かっただけだ。ただ単に、怖かったんだよ」
ヒト型の生き物を殺す――言わば『殺人』とも言える行為をしてしまうことが、幽世での生活の方が長くなってしまったユウでも、本能的に怖いと感じたのだ。
「……正しいと思いますよ、それ」
少し迷いもしたが、紗雪は口を開いた。
「私だって、もし敵の中から雪女が現れて、それがどれだけ酷い行為に手を染めていたとしても、命を奪う瞬間にはきっと、良心が傷んでしまうでしょうから」
本当に正しいかどうかは分からない。
その最終の判断は、それぞれの主観だけで決まる。
それでも今、紗雪自身が、まるで自分たちのような寝姿を晒す妖魔を見て、躊躇うに至った。それは事実だ。
この判断が正しかったのか否か――それすら、最後に決めるのは自分自身。
どんな結末を迎えようとも、ユウはそれを受け入れ、紗雪は拒絶するかも分からないし、その逆のことを思うかも分からない。
「ごめんなさい、お騒がせしました。私も、今度こそ床に就きます」
「うん、そうした方が良い。雪姉は気を張りすぎなんだよ。雪姉を護れるくらいには強いつもりだ。だから、何かあった時には僕に全て任せて、ちょっとくらい羽を伸ばして休んでよ」
「…………はい」
控えめに返して刀を置くと、紗雪は少女を挟んだ反対側に寝転がった。
確かな迷いを孕んだ声音ではあったが、しばらくはそれにただ呑まれるようなことはないだろう。
そう飲み込むと、ユウは瞳を閉じて、風が草木を揺らす音に聞き入った。
木々が風にそよぐ音が心地良い中、
「はっ、はっ、はっ……」
小さくも荒々しい吐息の音が、混ざっていた。
極力殺しているつもりでも漏れるその音は、無防備に大の字で眠る妖魔の少女へと忍び寄る、紗雪のものだ。
穏やかな寝息を立てて眠るその子に跨ると、鞘から抜いた刀身を、その小さな喉元へと添える。
「妖魔……妖魔なんですよ、この子は……」
憎しみを込めた瞳で見下ろしながら、両手に力を籠める。
「これは妖魔……これは妖魔……」
迷いを消し去るべく、頭の中を、昔日の憎悪で満たす為に、呪詛のように繰り返し呟く。
「妖魔、妖魔、妖魔、妖魔妖魔妖魔妖魔ッ…!」
頭が煮えたぎるような感覚そのままに、紗雪は一気に力を籠める。
「――――かはっ! はっ、はっ、はぁ、はぁ……」
刀身が貫いたのは、少女の首元ギリギリの地面。
力み、止めていた息を一気に吐き出すと、突き立てた刀身を抜き取り、力なく地面に転がした。
「私……私、は……」
今なら誰も見ていない。
ユウに見られていたとて、関係を断てばいいだけの話だ。
滅びた集落跡でも目指して、桜花を出てしまえばいい。
ただ、それだけのことなのに。
「あんなことを、言われて……殺せるわけ……」
夕刻、純粋な笑顔を向けられ言われた一言が棘のように刺さって、身体も感情も、憎しみで満たすことが出来なかった。
雪女という種族に生まれ、その境遇から満足な愛情を受けてこられなかった紗雪は、表裏なく向けられる好意に慣れていない。
ユウの時もそうだった。
拒絶したいのに、そうし切ることが出来ない。
無垢なその瞳は、声の調子は、寝相の悪さは、あれから数百年、毎日のように桜花で見てきた妖の子らと、何ら変わりない。
その小さな命を狩り取る行為の、なんと残酷なことか。
最後に一度、深く息を吐くと、今一度持ち上げた刀身を鞘へと納め、起こしてしまわないようにゆっくりと、少女の身体から離れ、すぐ傍らで腰を下ろした。
「ありがとう、雪姉」
控えめなその声に、紗雪は驚き、振り返る。
こちらに背を向けたままで横たわってはいるが、よく観察してみれば、眠ってはいない。
少女の方にばかり意識を向けていた所為で、気付いていなかった。
「……これは、酷い行為を見られてしまいました。起きていたのですね」
「君が動き出した辺りからね。これも、師匠の厳しい躾けの賜物かな」
「ご冗談を。最初から、眠ったフリをしていたのでしょう?」
「……まあ、ね」
紗雪は肩を落とし、観念したように息を吐いた。
「雪姉のやろうとしたことは正しいよ。きっと、本当ならそれが正しいんだ。雪姉がもし、あのまま刃を振り下ろしていたとしても、止めないのが正解なんだよ」
「その言い方だと、ユウは私を止める為に起きていたようですね」
「うん。けど、それはきっと間違いだ。雪姉たち妖にとって、妖魔は脅威だ。敵だ。それは間違いなくて、当然のことで、その価値観が分からないニンゲンの僕の意見の方が、おかしいんだよ」
「そのようなこと……」
ない、とは言い切れなかった。
ユウにとって妖魔は、咲夜の敵だから斬り捨てている相手に過ぎない。
妖気が感じ取れない以上、敵意や悪意のないただ本能で妖を襲う妖魔は、正直なところ敵かどうかも定かでないことだろう。
妖という種族単位での認識、或いは紗雪のように私怨に駆られての認識とは違う。
「……ユウは、その、どうしてこの子を生かそうと思ったのですか?」
紗雪の言葉に、ユウは少し考えた後で、
「殺そうと思えなかった、の方が正しいかな」
いたって真剣な声音で答えた。
「咲夜様から聞いた酒呑童子の言葉に、『妖魔が言葉を話すのは元々だ』っていう節があったんだ。それが、ずっと引っかかってるんだよ」
「酒呑童子が、そのようなことを?」
「うん。ほら、さっき川で捕まえた魚も、普段目にしている動物たちも、言葉は話さないでしょ? 僕の世界に居た声真似が得意な鳥も、言葉は発するものの、その本質は知らずに真似ているだけだった。でも『言葉を話すのは元々だ』なんて、音の響きを真似しているだけの奴が言えるようなことじゃない。妖だけを狙う妖魔……あいつらが本当は何者なのか、ってずっと考えているんだ」
「それで、この子を……?」
「っていうのは、今になってやっと整理できた考えなんだけどね。正直なことを言うと、自分たちと、いや自分と同じ形をしている生き物を殺してしまうのが、ただ純粋に怖かっただけだ。ただ単に、怖かったんだよ」
ヒト型の生き物を殺す――言わば『殺人』とも言える行為をしてしまうことが、幽世での生活の方が長くなってしまったユウでも、本能的に怖いと感じたのだ。
「……正しいと思いますよ、それ」
少し迷いもしたが、紗雪は口を開いた。
「私だって、もし敵の中から雪女が現れて、それがどれだけ酷い行為に手を染めていたとしても、命を奪う瞬間にはきっと、良心が傷んでしまうでしょうから」
本当に正しいかどうかは分からない。
その最終の判断は、それぞれの主観だけで決まる。
それでも今、紗雪自身が、まるで自分たちのような寝姿を晒す妖魔を見て、躊躇うに至った。それは事実だ。
この判断が正しかったのか否か――それすら、最後に決めるのは自分自身。
どんな結末を迎えようとも、ユウはそれを受け入れ、紗雪は拒絶するかも分からないし、その逆のことを思うかも分からない。
「ごめんなさい、お騒がせしました。私も、今度こそ床に就きます」
「うん、そうした方が良い。雪姉は気を張りすぎなんだよ。雪姉を護れるくらいには強いつもりだ。だから、何かあった時には僕に全て任せて、ちょっとくらい羽を伸ばして休んでよ」
「…………はい」
控えめに返して刀を置くと、紗雪は少女を挟んだ反対側に寝転がった。
確かな迷いを孕んだ声音ではあったが、しばらくはそれにただ呑まれるようなことはないだろう。
そう飲み込むと、ユウは瞳を閉じて、風が草木を揺らす音に聞き入った。
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