本能の軛

teran

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第3話

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 壇上でクライアントの社長が話をしていた。明らかに昨年よりも規模が縮小したコンフェレンス会場には、それでもなんとかほぼ満員の聴講者が居た。関係者席と貼り紙をしていた大量の席も会場が埋まるにつれて貼り紙が剥がされ、一般の参加者が着席し、クライアントのイベント担当者の機嫌もなんとか持ち直した。とはいえ会場外のホワイエでは出展企業からの愚痴があちこちから聞こえてくる。クライアントは展示社からそれなりのスポンサー料を取っているはずなのだが、それにもかかわらずテーブルに板がついた程度の展示ブースが歯抜けのように寒々しく並んでいて、展示社の人間以外はほとんど人が居ない。中には人目もはばからず「わざわざ時間と金をかけて来た結果がこれかよ」と愚痴る人もいたが、幸いイベント会社の人間である私に苦情を言ってくる人はいない。それでも空気は最悪だった。
 私は今、マーケティング会社のイベント会場を、外注のイベント運営責任者という立場で巡回している。インカムを飛び交う報告と相談に対して、次から次へと指示を出し、講演が何分押しているのかを把握しつつ、クライアントの担当者にさまざまな報告と提案をする。社長が話し過ぎたせいで大幅に時間が押しており、このままでは休憩時間を短縮するしかなかった。ただそれは、この不遇な展示社たちにとっては泣きっ面に蜂だろうから、スポンサー料をとっている主催者ならば避けるはずだと一応他の方法を提案したのだが、クライアントの担当者はあっさりと休憩時間をカットした。ごくわずかな展示時間を削られた展示社たちは意気消沈してしぶしぶ後片付けをし、コンフェレンス後の立食パーティへと展示会場の転換作業をする施工業者やホテルのスタッフから追い払われていた。
 状況を確認しようと思い、ホールの中に入るとクライアントの担当者が後ろの壁沿いに立っていた。会釈して少し離れた位置に立つと私の方へと近寄ってくる。
「吉崎さん、外はもう大丈夫なの?」
 照明の落ちた会場で倉下さんの手元のスマホだけが光を放っている。
「はい、今ホワイエを撤収して、展示会場を転換作業中です。パーティには問題なく間に合います」
「そう、展示社の人たち、怒ってた?」
手の中のスマホがブブブと音を立てると、倉下さんは私の返事を待たずに会場の外へ出て行ってしまった。
 今、壇上には、最近テレビでコメンテーターとしても出ているらしい、有名な作家が立っている。彼の書いた本は読んだことがないが、さっきから何度も女性をリーダーにするべきだ、女性を社長にすれば社会が変わる、という話をしている。フェミニストなのだろうか。彼が女性を持ち上げるようなことを言うたびに、パラパラと場内に響く音を聞きながら、私は気に入らないなと思った。成功した女性は女性だったから成功したわけじゃない、その人が努力したから、優れていたから成功したのだ。この男性作家が、女性こそ会社役員や社長、国会議員にするべきだと唱えるたびに私は苛立ちを覚えた。女性ならではの感性、とはなんだ。性的な差別をなくしましょうと言っているこの男こそ自分が持つ理想の女性像を押し付けているようだった。
女性のよき理解者である自分たちが、女性に社会的地位を与えてあげようと言っているような押しつけがましさを感じ、これ以上聞いていたら苛立ちでおかしくなってしまいそうだったので私はホールを出た。背後からはまたパラパラと拍手が聞こえる。床を踏みしめる足に力が入る。怒りは体を巡り、ヒールの先で火花を散らそうとするが、ホワイエの上質なカーペットがそれをうやむやにしてしまう。
イベント事務局へ戻ると、誰かと立ち話している遠藤さんが私に気づいた。
「あ、吉崎戻ってきました」
 手招きする遠藤さんと会話していた女性がこちらを振り向いた。優しい目じりに見おぼえがあった。
「お久しぶりです。神野です」
頭を下げながら挨拶する神野さんに私も慌ててお辞儀する。なぜ神野さんがここに?
「転職先が、ここなんです」
 私の心を読んだかのように、受付に貼られたパネルのクライアントロゴを指さしながら、神野さんが答えてくれた。
「挨拶周りに来てみたら、遠藤さんに似た方がいらっしゃったので、もしかしてと思ってお声かけたらやっぱりそうで、偶然ってあるものですね」
 遠藤さんも「うんうん、ホントですよねー」と言いながら頷いている。いつの日か、もしまたご縁があればご挨拶に伺おう、程度だったのにこんなに早くその時が訪れるとは思わず、社交辞令丸出しの文面でメールを返信したのが急に後ろめたくなった。名刺交換すると
「そういえば、私お二人とお仕事ご一緒した時は森井でしたよね。実は離婚して神野になりましたので、これからは神野でよろしくお願いいたします」
 また頭を下げる神野さんに「こちらこそよろしくお願いいたします」と返しながら遠藤さんと目を合わせて頷いた。
 事務局のドアが勢いよく開くと倉下さんが電話をしながら入ってきた。私たちを一瞥して荷物置き場へ行くと、自分のバッグを肩にかけて近寄ってきた。
「ごめんなさい、ちょっと子供が熱出しちゃったみたいなんで、あとお願いできます? あ、この人、神野という者で中途で入社してきたんです。あとは何かあったら神野に言ってください、それじゃ神野さんよろしくお願いします」
 私たちが返事をする前に倉下さんは部屋から出て行った。神野さんは困ったような顔をしていたが、すぐに笑顔になって
「運営マニュアルいただけますか? あと進行台本も」
と言うと、パイプ椅子に腰かけて渡したマニュアルをめくり始めた。さっきもらった名刺を見る限り、倉下さんよりも神野さんの方が上のポジションのような気がするが、いずれにしても神野さんが偶然あいさつ回りに来てくれていたことは私たちイベント会社の人間にとっては幸運なことだった。
「あの、倉下さんと神野さん、同じ部署なんですか?」
向かいに座って受付リストの整理をしていた遠藤さんが訪ねる。
「そうです。チームは違いますけどね。もしかしていつもこんな感じですか?」
 私がどう答えようか迷う間に、遠藤さんが「あー、そうなんですよー! いっつもこんなんです」と感情たっぷりに言った。遠藤さんは基本的に怖いもの知らずだ。怖いものがなさ過ぎるので早死にするとよく自分で言っている。
「お子さんが体弱いらしいですよ。打ち合わせドタキャンとかも結構ありますしね、大変ですよねえ、小さいお子さんいると」
遠藤さんが続けるが、神野さんは少し口元で笑みを作って視線をマニュアルに戻す。
「そうなんですか、まあそれなら仕方ないですね」
 意外とあっけなく納得してしまった神野さんに対して、肩透かしを食らったような様子の遠藤さんは「そうですねー」とだけ言って受付リストの整理を再開した。時計を見るとそろそろ講演が終わる時間だった。
「そろそろ今の講演終わるんで、私ホールの方へ行きます」
二人を残して事務局を出るとホワイエにもおいしそうな料理の匂いがしてくる。展示会場だった小ホールでは、招待制パーティの準備が終わっているようだ。ホールの二重扉を開けて中に入ると先ほどの講演者がまだ話していた。ただ、さっきとは違うのは聴衆が皆熱気を帯びているように感じたことだ。話の内容はいつの間にか自分らしく生きる、というものになっていて、さまざまな人種の二十代から三十代くらいだろうか、男女の写真が大きくスクリーンに映されている。話はもうまとめの段階だったようで、講演者が「ご清聴ありがとうございました」と締めると場内を轟かす拍手が響いた。この数十分の間に何が起きたのかわからないが、私が聴いていなかった間、よほどいい話をしていたらしい。ステージにはクライアントの社長が再登場して、講演者と握手をすると、まとめの挨拶をしてまもなくコンフェレンスが終了した。扉を開放して、続々と退場してくる重要顧客のバッジをつけた参加者にパーティの案内をしていると、皆口々に「いや、すごい話だったねえ」「感動した」というようなことを話していた。
パーティが始まるとあちこちに誰かを囲む輪ができる。パネルディスカッションで登壇していた有名なフリーアナウンサーや、作家、慈善活動家も参加していた。クライアントの社長が芸能人や文化人に知り合いが多いためかそれを目当てにこのパーティまで残る顧客も少なくない。社長の挨拶などの段取りを神野さんに伝え、しばらく場内を見回る。ここにいるほとんどがクライアントの重要顧客で、社長や役員クラスの人間も多い。約200名のVIPたちの間をすり抜けながら歩いていると、派手な帽子を被った女に声をかけられた。
「ねえ、ワイン持ってきて」
私は給仕係ではないので、近くのスタッフを呼び止めようとすると、
「あんたが持って来なさいよ」
と腕をはたかれた。あまり酒に強くないのか頬は赤らんでおり、すでに目も座っている。似合いもしないのに全身にブランド物を身に着けて偉そうにしている女に無性に腹が立ったが、仕方なくバーの方へ足を向けると女の隣にいた男が手で制した。
「この方はホールスタッフじゃないと思いますよ。僕が持ってきますから」
男はバーの方へ歩いて行った。女は「あらそう? ありがとうね」と言ってまた話の輪に戻る。私もバーへ向かい、男にお詫びとお礼を伝えた。男はさっき壇上で話をしていたその人だ。
「いやいや、いいんですよ、むしろお仕事中なのに呼び止めてしまってすみませんでした」
軽く会釈をしてさっきの女のところへ戻っていった。私はさっきまで自分がこの男に抱いていた嫌悪感を恥じていた。ただちょっと親切にされただけで、さっき壇上で主張していたことすら(まあああいう意見もあるか)と思えてくるほどに、この男は魅力的に思えた。会は滞りなく進み、問題もなさそうだったので、何かあればインカムで連絡してもらうよう神野さんに伝え、事務局へ戻ることにした。
歩いていると、先ほどの男とのやりとりを思い出して、再び自分の単純さに自己嫌悪を感じた。通路の窓際に並べられたソファになんとなく腰かけ、遠くに聞こえる歓談の声を背に夜景を眺める。高層マンションの灯りを見て、ため息がこぼれた。このパーティ会場にいる人間たちと私は全く違う。私にとって彼らは雲の上の存在で、私はあの社交の場に混ざることはできない。正直、さっきの嫌な女が妬ましかった。あの女も自分の手で成功を勝ち取ったのだろうか、だとしたら私はあの女以下だ。大学へ行くため猛勉強して、やっとの思いで田舎を抜け出し、東京に来た。バイトをしながら奨学金を借りて公立大学を卒業したが、望むような企業には就職できなかった。それでも今は中堅のイベント会社でリーダー職について仕事もそれなりに任されている。でもこの生活をいくら必死に続けたところで、あの社交場に繋がる道ではないことがわかっている。自分の平凡さが悔しかった。私には焦りがあった。
事務局に戻ると、遠藤さんが仕出し弁当を食べていた。他のバイトスタッフは皆退勤しており、私たちもパーティが終わるまでは待機しているだけだ。
「吉崎まだ食べてないでしょ、食べなよ」
パイプ椅子に座ってぼーっとしていると、遠藤さんが壁際のテーブルから紙パックのお茶と一緒に持ってきてくれた。
「あ、すみません、ありがとうございます」
 弁当を食べ始める私を、遠藤さんは紙パックのストローを咥えたままじっと見ていた。
「どうかしました?」
「いや、なあんか疲れたね。今日も」
ズズズーと音を立て、お茶が無くなったことを確認するとゴミ袋へ紙パックを放り投げる。壁に当たって袋に入ったが、ストローから飛び出たしぶきが壁を汚した。
「あ、やべ」
立ち上がってティッシュで壁を拭いて捨てる。遠藤さんは雑に見えるが実はわりと丁寧な女性だ。だったら最初から歩いて行って捨てればいいのに、とも思うが。
「明日はやっと休みだー、しかも三連休ー」 
「あれ? 三連休でしたっけ?」
「そうだよ、もしかして気づいてなかったの? 予定なし?」
「気づいてなかったです。まあ別にどこにも行きたくないし家でゆっくりしてます」
 口に運んだしょっぱい卵焼きに違和感を覚えて、実家の味を思い出す。すると急に自分の周りのものが幻想であるかのような感覚に包まれた。今、話をしている遠藤さん、この人と私は生まれも育ちも違うのに、たまたま東京の同じ会社で働いていて、昔、田んぼのあぜ道を自転車で走っていた私は今、都心の外資系ホテルの会議室で弁当を食べている。
「私は明日から箱根に行ってくるから、お土産に湯もち買ってきてあげるよ」
 遠藤さんの声が聞こえるまでの一瞬の間、ここに座っていることがまるで夢だったような気がした。
「吉崎、聞いてる?」
「あ……、ありがとうございます。彼氏さんとですか?」
「うん、そう」
 スマホをいじりながらそっけなく答えるが、もう彼氏さんとは付き合って6年になるらしい。
「吉崎はさあ、誰かいないの、いい人」
「いないですね、出会いがないし」
 仕事に追われて今は恋愛にかける気力がない。ということにしている。何かの間違いで結婚して子供ができたりしたら。それが怖い。子供を持たなくてもよければいっそ諦めもつくが、三十四歳の私には年齢的なリミットも迫っていた。自分の人生を選ぶか、点を次の点につなぐことを選ぶか。
 パーティが終わる頃、会場へ向かった。すでに半数ほどの客が帰った後で、食事もほとんどなくなっていた。締めの挨拶が行われた後、本格的に帰り始める参加者を見送っていると、近づいてくる女性がいた。神野さんだ。
「吉崎さんお疲れさまでした。遅い時間までありがとうございます」
 頬がほんのり色づいていたが、そんなに酔ってはいないようだった。
「いえいえ、仕事ですので、それよりも神野さんこそ途中からのご参加だったのにありがとうございました」
 そこに男が話しかけてきた。
「どうも本日はありがとうございました」
「あ、吉崎さん、こちらは楠さん、今日最後に講演していただいた方です。すごく評判だったそうですよ。私も聞けばよかった」
「ははは、ありがとうございます」
 あの講演の男は楠という名前らしい。名刺を出されたので慌てて私も名刺入れを取り出した。
「楠 洋輔と申します。マーケティングのコンサルティング会社を経営しています」
「吉崎 日奈子と申します。今回のイベントでは運営を担当させていただいておりました」
 てっきり作家だと思っていたのだが、本業はコンサル経営のようで、名刺にも作家という肩書はない。
「吉崎さんは私が前職に居たときにすごくお世話になった方で、今日イベントの様子を見にきたら偶然お会いしたんです。もうほんとに運営のプロでらっしゃって、私、絶大に信頼してるので、またお仕事できてうれしいんです」
 私の腕をさすりながら、ニコニコと笑顔で紹介してくれるのを見て、やっぱり神野さんは酔っているかもしれないと思った。
「そうなんですか、うちでもセミナーなんかやるんで、もしよければぜひお願いできますか?」
「ええ、もちろんです。今度ぜひご挨拶に伺わせてください」
 実際には私のチームには新規の仕事を受ける余裕はないとわかっていたが、少しでも仕事につながる縁はつないでおくしかないから仕方ない。自分にそう言い聞かせていた。
 参加者は皆帰ってしまって、残っているのは会場を片付けるホテルのスタッフと神野さん、楠さんと私、そして事務局にいる遠藤さんだけになった。談笑しながらカンファレンス会場の受付まで三人で戻ると、遠藤さんがソファに座って待っていた。
「ホテル側とはもう全部済んでるから、帰ろっか」
 エレベーターでロビーまで降りた後、お礼と別れの挨拶をして私と遠藤さんは地下鉄の駅へ向かう。
「あのイケメンって神野さんの彼氏?」
「いや、たぶん今日会ったばっかりじゃないですかね? 話聞いてたらそんな感じでしたよ」
「そうなんだー、美男美女でお似合いだけどねー、あやしいなー」
 中学生のようなノリで二人のことを話した後、遠藤さんは赤坂見附で丸の内線に乗り換えて帰っていった。私は電車を降りて会社に戻り、終日の外出でたまっていた仕事を片付けて帰った。家に着いたのは午前一時だった。
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