エスメラルドの宝典

のーが

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第26話

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 敵の姿は見えないが、慧は腰の両端にある直刀を引き抜く。
 右を順手、左は逆手。心を鎮め、精神を研ぎ澄ます。
 彼が守りたいと願うものを守るには、それ自身――彼が九条千奈美より強くなくてはならない。
 本気で殺しにかかってくる宝典魔術師彼女を制圧して気持ちを落ち着かせる。そうしなければ、千奈美は彼の話に耳を貸してくれはしない。
 そのために必要な力を、慧は会得していた。

 AMYサービスの襲撃をきっかけにしたのは、彼が弱かったからではない。
 悠司に話したように、彼の得た能力は宝典魔術とは違う。
 宝典魔術師になる条件は、未成年であり他人への強い願望を抱くことだと悠司は伝えた。
 慧としても納得の理由だった。
 事実、未成年であり千奈美を救いたいと強く願った慧のもとにも、過去に宝典魔術師になるチャンスが訪れていた。

 ある日見た夢で、慧の身体は暗闇に浮遊していた。それは明晰夢のように、夢とは思えないくらいに意識がはっきりと覚醒していた。夢の世界で当惑する彼の前に、突如として緑色の粒子が集まった。
 出現したのは一冊の本。
 手に取れば、世界を滅ぼした絶大な力が手に入る。無意識にそう理解した。触れるだけで他者を圧倒する超越者となれる。その能力があれば、大抵のことは難なく解決できるのだと。
 だから、慧は本を手に取らなかった。

 しかたのないことだと悪事に加担している自分。間違っていると思いながらも藤沢に協力している自分。
 せめてもの矜持として、宝典の力に頼りたくなかった。
 他人から与えられるだけでは本質は変わらない。両親を犠牲にして生き残った慧は、父と母に恥じない生き方をしたかった。すぐには無理でも、いつか誇れるように生きたいと願った。楽な道は選びたくなかった。
 まずは、腐った性根を叩き直さなければならない。

 もしも無能力者が宝典魔術師を倒せるほどになれたら、どんなことでも遂げられる。誰かに影響されるばかりではなく、誰かに影響を与えられる。そう信じた。
 彼は魔人の誘惑を断った翌日から鍛錬を始めた。それから八年間、一日も欠かさず鍛えあげた。
 そして、手に入れた。
 異常者を超えるには、自身も異常者になるしかない。
 世界を混沌に陥れた魔人も、その魔人を倒した英雄も、元々は特別な能力のない凡人だった。

 つまり、そういうことだ。
 他人に頼らずとも、境地に至ることは不可能ではない。
 慧は、神に最も近づいたと評される怪物と同等になる道を選んだ。
 身体の正面で交差した手首。順手と逆手に持った二本の刃の剣尖が、天と地を睨む。
 全身を循環する気流が、左腕と右腕を伝う。指先まで満たす。

「――解錠アンロック

 それは暗示。特定の言葉と構えを合図に、己の内側が塗り替わる。
 視界が黒く染め上がる。瞬間、鮮烈に覚醒する意識。暗黒の世界が晴れ渡る。
 慧の右側の瞳が、翡翠の色に変わっていた。
 彼が人間として保有するあらゆる感覚が、壊れたように振り切った。

 電気の通わない室内が、晴天の下であるかのように鮮明に映る。無論、暗視ゴーグルなど介していない。視力自体も異常だ。目に届く範囲なら、床に落ちている髪の毛ですら視認する。
 沈黙を聴いていた耳が、微かな呼吸音を捉える。息を潜め、鼻で呼吸を繰り返す音。天井を二つ隔てた先が発信源だ。音量で距離を測り、方角を加味して推察する。それで敵の居場所は突き止めた。

 人間に備わっている五感――視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の異常なまでの鋭敏化。それが鍛錬の末に手に入れた彼だけの異能。守りたいものを守り抜くために生み出した能力。
 間違え続けてきた彼だが、その努力だけは恥じることなく胸を張れる。

「始めるか」

 夕日の茜色が薄く差し込む薄闇。
 慧の右目が怪しく光った。
 
   ◆
   
 標的が三階にいることを慧は確認した。
 確信ではなく確認。見えないモノは推測するしかないが、それとは違う。彼には待ち受ける敵が一人であることも、その場所もわかってしまう。
 いくら気配を殺そうと生物は呼吸をする。生物でなくとも、例えば兵器なら熱を持つ。
 常識であれば、そういった物体の鼓動は触れるか、触れられるくらい接近しなければ感じられない。ところが覚醒した慧は違う。同じ建物内であれば、見えずとも鮮明に感じられる。
 まるで、建物全体のコンクリートが彼の肌であるかのよう。肌に虫が止まれば違和感を抱く。それと同じ。指先が何かに触れればわかるように、微弱な鼓動も建物を介して慧に伝達される。

 目的の階に辿り着く。わざと靴音を鳴らして標的の元へ歩いた。
 敵の鼓動が早くなる。呼吸音も荒くなる。
 待ち受ける敵は近い。
 伏兵からすれば、困惑するなというほうが無理な話だ。
 三階建てかつ、各階には複数の部屋がある。なのに、潜伏先を探す侵入者には迷いがない。それも的中しているのだ。隠れている意味がないわけだが、バレた理由にも見当がつかない。潜伏先を知られたと確信できないから、下手に動くこともできない。

 慧は敵の潜む部屋の手前で足を止めた。
 部屋といってもドアはない。踏み出せば姿を晒すことになる。
 そこは三階のなかでは最も広い部屋だった。元々が何に使われていたかは不明だが、身を隠せる作業台がいくつも置いてある。待ち伏せるなら悪くない場所だ。
 慧は待つが、敵はしかけてこない。
 廊下に手榴弾の一つでも投擲してくるのかと警戒した。けれども文字通り何事もない。となれば、部屋の入口に向けてライフルを構えているに違いなかった。敵が慧の登場を心待ちにしている様子が容易に想像できる。

 ――まったく、憐れな男だ。

 相手は年上のはずだが、慧は壁の向こうにいる敵に過去の自分を重ねた。

「気を利かせてやれなくてすまんが、そこにいるのはわかっている」
「な、なに……ッ」

 せめて黙っていればいいものを。伏兵は自らを頓狂とんきょうな声で明かした。
 紛れもなく、慧が長年を共に過ごした男の声だった。聞き間違えるはずもない。

「阿久津だろ? こんなところに俺を呼び出して、昔話でもしたいのか?」
「……慧。お前が裏切らなければ、こんなことにはならなかった」

 夕日が沈む。差し込む赤色が段々と薄くなり、暗闇が侵食する。
 辺りは静寂。壁を隔てていても、阿久津の声がよく聞こえた。声色には負の感情が滲む。

「そうだな。俺は行動を起こした。俺より先にフリーフロムに入ったお前が、何もしなかったからな」
「俺たちは裏切るわけにはいかねぇんだよ。ボスに自分の正しさより、俺たちの命を選ばせちまったからにはな。決心した後で入ったてめぇにはわかんねぇだろうが」
「だからこうして対立している。目的のために手段を選ばなくなるとはな。手を切って正解だった」
「昼の爆破事件のことか? アレを俺がしたくてやったとでも思ってんのか?」
「些末なことだ。犠牲者からしたら動機なんてどうだっていい。結果が全てだ。許される殺人はない」
「てめぇだって大勢殺しただろうがッ!」
「もちろん、許されるつもりはない」

 会話が途切れる。感覚が異常なほどに向上している慧には、阿久津の心拍数の変化が感じ取れた。
 どんな質問をして、どんな返答をしたら動揺するか。検証して導き出した。
 彼にはまだ、迷いがある。
 迷えるだけの理性があるなら、まだ戻れる。

「阿久津、ここで俺と戦うか、投降して罪を償うか、どちらか選べ。いますぐに」
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