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第3話
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民家が多く建ち並ぶわりに町は妙に静かだった。まるで住民が死に絶えた廃墟のようで、道路はあれど滅多に車は通らない。道そのものが町という概念を形成するための飾りに思えるほどに、景観の全てが作り物ではないかとの印象を見る者に与える。
影武者の提供による報酬が凄まじいから無駄遣いができるのだろう。天音から影武者の命の値を聞かされ、落葉は各国の羽振りの良さに驚いた。完璧な身代わりとは、命をひとつ増やすに等しい。考えようによっては、金を払えば買えるだけで安いものかもしれない。元々、命なんてものは商品ではない。売買できる時点でお買い得といえる。
役所を出て右手に進む。石畳で舗装された歩道は大人が並んで三人歩ける幅があった。遠くにぽつぽつと住民の姿が見える。町は変わらず静かで、視界の奥にいる人々の足音までもが耳に届く。
交差点に差し掛かり、落葉は横断歩道を渡らず役所が佇立する角を曲がった。そちらが落葉に貸与された住居に向かう道だったが、不意に足を止めた。
ありえない出来事が目の前にあった。
曲がった先に、顔見知りの男が立っていた。
冷静になろうと鼻からじっくり息を吸い、緩慢に吐き出す。驚きに曇った思考を覆う靄が徐々に晴れ、不可解な現象に対するひとつの仮説を成立させる。
曲がり角の先にいたのは、まだ役所にいるはずの天音敦規だった。つい数秒前に落葉が役所を出る瞬間、天音はまだ会議室から出ていなかった。裏口があって全速力で駆けたとしても間に合うはずがない。
しかし現実に、彼はここにいる。ありえないことだ。
だからこそ、この矛盾を解き明かすのは難しくない。里に関する知識を事前に蓄えてきた落葉には、自分の仮説が恐らく正しいと思えるだけの自負がある。
「いつの間に出てきたんですか?」
天音は答えない。口元に普段の胡散臭さを感じさせる笑みはなく、愛想笑いのようなぎこちなさが滲む。何気ない質問、何気ない仕草で相手の正体を確信した落葉が、白い歯を晒してわざとらしい笑みを返す。
「そういえばさっきの話ですけれど、久川さんには夜な夜な家を抜け出して、公園で太極拳をする趣味があるんでしたよね? ですが少し疑っていまして、というのも年頃の女性がそんな趣味を持っているなんて聞いたことがないですし、天音さんが彼女を庇っているんじゃないかって思ってしまったんです。さっきは飲み込みましたけど、やっぱり気になってしまいまして。実のところを正直に教えてください。彼女、本当は夜の公園で露出」
「ちょ、マジなに言ってんのアンタッ! んなわけないじゃんっ!」
聞こえたのは秘密をばらされて動揺する久川の声。紛れもなくこの場にはいないはずの彼女の上ずった声色だったけれども、落葉は自分の聴覚を疑わなかった。
声は目の前から聞こえた。四十歳を超えているにしては若々しい男の喉から出たのだ。解釈によっては気味が悪い。いくら若々しくともそれなりに老け込んだ男性が未成年の少女の声で応じたのだ。
落葉は額に手を当てた。呆れて首を小さく横に振る。
「せっかく天音さんの姿で出てきたんですから、もう少しは隠す努力をしたら良かったでしょう。ボクを騙したかったんじゃないんですか?」
「そう、だけど……キフユが変なことを言うなんて予想しなかったし。てゆーか、あーしに露出の趣味なんてないしっ!」
「深夜に太極拳をする趣味はあるんですね」
「それ気になったんだけどさ、タイキョクケンてなんなん? 楽しいなら今度教えてよ。深夜の公園で遊ぶとかテンションあがんじゃん?」
「深夜の非日常感に惹かれる年頃だとは思いますが、やめておいたほうがいいですよ。もしかしたら本物がいるかもしれませんから」
「本物って?」
「貴方は違っても、抑えきれない情熱を人知れず解放する人はいるということです」
少女の声色で喋る天音が小首を傾げる。たまらなくなり、落葉は苦々しく頬を歪めた。
「そろそろ戻ってくれませんか? 帰れ、ではありませんよ」
「あ、おじさんのままだったわ。ちょいまって」
軽々しく言うなり、天音の偽物が息をひとつ吸い、吐き出す。
名状しがたい現象が始まった。天音の癖のある髪が勝手に矯正され、もみ上げと襟足の毛が植物の成長を早送りしているように伸びていく。眉毛は細く薄くなり、睫毛も伸び、四十代らしい頬の皺が完全に溶け消えて肌が艶を取り戻す頃には、瞼の垂れ下がっていた瞳がくっきり開いていた。
身体の線も細くなった。身長は縮み、袖からのぞく肌も顔と同様に若さを取り戻す。腰にはくびれが生まれ、胸元と臀部がほんのりと膨らんだ。
数秒前までは天音の姿だったモノが、久川楓の風貌に変わっていた。肩まで伸びた髪を触り、久川は笑ってごまかそうと無邪気な表情を見せる。
「まぁそっか、そうだよね~。あーしんとこに来たんだから、影武者のことだって知ってるよねぇ。甘かったぁ、ちゃんとスーツまで用意したのになぁ」
「騙すつもりなら喋らなくてもいい状況にしないと。真っ向から堂々と道を塞がれたら無視はできないですよ。声は真似できないのでしょう?」
「わかってるわかってる。わかってるんだけど、わかってなかったかも?」
「そんなチャラチャラと髪を染めてるからわからないんです。そんな暇があるなら勉強をすべきです」
「なにそのお母さんみたいなの。キフユの母性目覚めちゃった?」
「少し」
「『少し』じゃないよ!」
ノリのいいツッコミを返す久川に、落葉は彼女との距離の縮まりを実感した。慣れないこともたまにはいい。
「話を戻しますが、というより始まってすらいませんでしたが、ボクに何の用ですか? 天音さんの姿で騙したかっただけではないのでしょう?」
「どーせあーしん家に来るんでしょ? 案内が必要じゃん?」
里の敷地内はそう複雑ではない。案内人がいなくとも、一人でも問題なく目的地に辿り着ける。とりあえず久川の家に行って、自宅にいなければ探しに出ようと考えていた。初めから彼女が一緒に家に行くのなら手間が省ける。落葉は頷きを返した。
「ありがたい提案です。それでは、よろしくお願いします」
得意気に歩き出した彼女の隣に落葉は足を並べた。
影武者の提供による報酬が凄まじいから無駄遣いができるのだろう。天音から影武者の命の値を聞かされ、落葉は各国の羽振りの良さに驚いた。完璧な身代わりとは、命をひとつ増やすに等しい。考えようによっては、金を払えば買えるだけで安いものかもしれない。元々、命なんてものは商品ではない。売買できる時点でお買い得といえる。
役所を出て右手に進む。石畳で舗装された歩道は大人が並んで三人歩ける幅があった。遠くにぽつぽつと住民の姿が見える。町は変わらず静かで、視界の奥にいる人々の足音までもが耳に届く。
交差点に差し掛かり、落葉は横断歩道を渡らず役所が佇立する角を曲がった。そちらが落葉に貸与された住居に向かう道だったが、不意に足を止めた。
ありえない出来事が目の前にあった。
曲がった先に、顔見知りの男が立っていた。
冷静になろうと鼻からじっくり息を吸い、緩慢に吐き出す。驚きに曇った思考を覆う靄が徐々に晴れ、不可解な現象に対するひとつの仮説を成立させる。
曲がり角の先にいたのは、まだ役所にいるはずの天音敦規だった。つい数秒前に落葉が役所を出る瞬間、天音はまだ会議室から出ていなかった。裏口があって全速力で駆けたとしても間に合うはずがない。
しかし現実に、彼はここにいる。ありえないことだ。
だからこそ、この矛盾を解き明かすのは難しくない。里に関する知識を事前に蓄えてきた落葉には、自分の仮説が恐らく正しいと思えるだけの自負がある。
「いつの間に出てきたんですか?」
天音は答えない。口元に普段の胡散臭さを感じさせる笑みはなく、愛想笑いのようなぎこちなさが滲む。何気ない質問、何気ない仕草で相手の正体を確信した落葉が、白い歯を晒してわざとらしい笑みを返す。
「そういえばさっきの話ですけれど、久川さんには夜な夜な家を抜け出して、公園で太極拳をする趣味があるんでしたよね? ですが少し疑っていまして、というのも年頃の女性がそんな趣味を持っているなんて聞いたことがないですし、天音さんが彼女を庇っているんじゃないかって思ってしまったんです。さっきは飲み込みましたけど、やっぱり気になってしまいまして。実のところを正直に教えてください。彼女、本当は夜の公園で露出」
「ちょ、マジなに言ってんのアンタッ! んなわけないじゃんっ!」
聞こえたのは秘密をばらされて動揺する久川の声。紛れもなくこの場にはいないはずの彼女の上ずった声色だったけれども、落葉は自分の聴覚を疑わなかった。
声は目の前から聞こえた。四十歳を超えているにしては若々しい男の喉から出たのだ。解釈によっては気味が悪い。いくら若々しくともそれなりに老け込んだ男性が未成年の少女の声で応じたのだ。
落葉は額に手を当てた。呆れて首を小さく横に振る。
「せっかく天音さんの姿で出てきたんですから、もう少しは隠す努力をしたら良かったでしょう。ボクを騙したかったんじゃないんですか?」
「そう、だけど……キフユが変なことを言うなんて予想しなかったし。てゆーか、あーしに露出の趣味なんてないしっ!」
「深夜に太極拳をする趣味はあるんですね」
「それ気になったんだけどさ、タイキョクケンてなんなん? 楽しいなら今度教えてよ。深夜の公園で遊ぶとかテンションあがんじゃん?」
「深夜の非日常感に惹かれる年頃だとは思いますが、やめておいたほうがいいですよ。もしかしたら本物がいるかもしれませんから」
「本物って?」
「貴方は違っても、抑えきれない情熱を人知れず解放する人はいるということです」
少女の声色で喋る天音が小首を傾げる。たまらなくなり、落葉は苦々しく頬を歪めた。
「そろそろ戻ってくれませんか? 帰れ、ではありませんよ」
「あ、おじさんのままだったわ。ちょいまって」
軽々しく言うなり、天音の偽物が息をひとつ吸い、吐き出す。
名状しがたい現象が始まった。天音の癖のある髪が勝手に矯正され、もみ上げと襟足の毛が植物の成長を早送りしているように伸びていく。眉毛は細く薄くなり、睫毛も伸び、四十代らしい頬の皺が完全に溶け消えて肌が艶を取り戻す頃には、瞼の垂れ下がっていた瞳がくっきり開いていた。
身体の線も細くなった。身長は縮み、袖からのぞく肌も顔と同様に若さを取り戻す。腰にはくびれが生まれ、胸元と臀部がほんのりと膨らんだ。
数秒前までは天音の姿だったモノが、久川楓の風貌に変わっていた。肩まで伸びた髪を触り、久川は笑ってごまかそうと無邪気な表情を見せる。
「まぁそっか、そうだよね~。あーしんとこに来たんだから、影武者のことだって知ってるよねぇ。甘かったぁ、ちゃんとスーツまで用意したのになぁ」
「騙すつもりなら喋らなくてもいい状況にしないと。真っ向から堂々と道を塞がれたら無視はできないですよ。声は真似できないのでしょう?」
「わかってるわかってる。わかってるんだけど、わかってなかったかも?」
「そんなチャラチャラと髪を染めてるからわからないんです。そんな暇があるなら勉強をすべきです」
「なにそのお母さんみたいなの。キフユの母性目覚めちゃった?」
「少し」
「『少し』じゃないよ!」
ノリのいいツッコミを返す久川に、落葉は彼女との距離の縮まりを実感した。慣れないこともたまにはいい。
「話を戻しますが、というより始まってすらいませんでしたが、ボクに何の用ですか? 天音さんの姿で騙したかっただけではないのでしょう?」
「どーせあーしん家に来るんでしょ? 案内が必要じゃん?」
里の敷地内はそう複雑ではない。案内人がいなくとも、一人でも問題なく目的地に辿り着ける。とりあえず久川の家に行って、自宅にいなければ探しに出ようと考えていた。初めから彼女が一緒に家に行くのなら手間が省ける。落葉は頷きを返した。
「ありがたい提案です。それでは、よろしくお願いします」
得意気に歩き出した彼女の隣に落葉は足を並べた。
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