影武者として生きるなら

のーが

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第30話

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 どうして落葉は黙っていたのか。悩んでも本人と会えないから問いただすこともできず、久川は真実を知った翌日、日課として様子を見に来た天音に「母親に会いたい」と改めて懇願した。天音の行動は早かった。三日後、天音は久川の母親に約束を取り付けてきた。 
 母親との会合場所は里の外に決まった。 
 檻から一時的に抜け出すのではない。期日を迎えた日の朝、死地に飛び立つ前に会うことになった。里に入れられないのかと天音を責めたが、出立前に会いたいとは母親から出た希望だと天音は言った。 

 『むしろ、外で会うとなれば様々なリスクを考えねばならんのは俺たちのほうだ』と、天音は久川の母親の企みを疑っていた。ただ、最後の願いなら必ず叶えてやると約束した。 
 最後の願い――伝えてしまったから、久川はもう何かが欲しいとも、誰かに会いたいとも思えなくなった。閉鎖的な空間で命を繋げるだけの日々。寝て食べるだけの繰り返し。時間が止まっているのかと錯覚する。起きたら窓から無縁の陽光が射し込み、食べて寝てまた起きたら、反対の窓から夕日が沈んでゆく光景を眺める。次に起きれば朝ではなく、過度な睡眠により深く眠れなくなった彼女は、心の内側を体現する真っ暗闇でまた目を覚ます。 

 もはや檻を出る日を待つ他になく、寝て起きて時間の経過に身を任せていた。だから、断頭台に階段を一段、また一段と上らされている実感が希薄だった。けれども時は着実に流れ、潤沢にあると当初は思った時間も嘘のように早く巡り、一切の生産性のない生活を送っていただけで檻に入れられてからちょうど二週間後の夜を迎えた。 
 明日には檻を出て、久しぶりに外の空気を吸える。十年以上ぶりに母親と会える。 
 会えるのは母親だけ、か。どういうわけか一緒に暮らしているのなら、落葉だってきてくれるかもしれない。彼にも来てほしいと頼むべきだったと、久川は後悔した。一方で、やっぱり彼とはもう会わないほうがいいような気もした。 

 天音は今夜も顔を見せた。最後の夜だから特別というわけでもなく、彼は毎晩欠かさず久川に会いに訪れた。五分も話さなかった日もあれば、一言も交わさず過ごした日もある。久川が明日は来なくていいと言っても、彼は平然と翌日に顔を見せた。久川も来るものは拒まなかった。閉鎖的な囚人生活では、誰かが会いに来なければ心の動かし方を忘れそうになる。〝鬱陶しい〟ですら愛すべき感情だった。あまり認めたくなかったが。 

「明日だな」 
「やっとここから解放されるわけね」 
「檻で過ごすと決めたのは君だ。望むなら今からでも解放しよう。一夜くらい、好きな場所で寝てみるのも良い」 
「いい。今さら家に戻ったってすることないし、星空の下で眠りたいなんてロマンチックな気分になれるわけもない。いいよ、ここで。眠れないだろうけど」 

 久川が檻に入れられた日から家具は増えておらず、リビングには座卓と座布団が置かれているだけ。天音はいつもそうしているように座布団を敷かず、少し埃が積もりだした床に直に腰を下ろした。久川は座布団に正座して拳を太股に置く。ふたりの視線は交わらない。 

「テレビをつけてくれないか。ニュースなら、たぶんなんでもいい」 

 難癖をつけて断る気力もない。言われるがまま、久川はリモコンを取り、一度も点けていなかったテレビの電源を入れた。ちょうどニュース番組のチャンネルに合っていた。高速道路でのトラック横転事故、続けて住宅一棟が全焼する火災事故。どちらも一人が死亡して、巻き込まれた数人が怪我を負ったらしい。当事者は気の毒だが、平凡なニュースだ。こんなもの見て楽しいのかと天音を見れば、彼は黙って視聴していた。 
 次に、小国で起きているクーデターの近況が報告された。数年前から定期的に耳にしていた治安の安定しない国だったが、先月に遂に政権を奪取した組織が大統領に投降を求めているらしい。当の大統領は他国に亡命した情報もなく、行方知れずとなっている。世界でも有数の女性大統領に反発して反乱を起こした勢力だそうだ。 

「これが見せたかったの?」 
「大統領が亡くなり、反政府組織が油断した隙に鎮圧する算段があるそうだ。常識ではありえない方法を織り込んだ作戦なんて、個人的には破綻してると思うがな」 
「大統領を囮にしたい。でも大統領は国の再建に必要不可欠……夢を叶える仕事だね。破綻してるって言うけど、成功した実績はあるし」 
「久田くんの件があるから強気なのだろうな。争いは未だ絶えないが、世界各地の戦火は少しずつ減少傾向にある。作戦が成功すれば、大袈裟でもなく確実に天下泰平に一歩近づく。立派な役目だ」 
「そうじゃなきゃ、とっくに自殺してるよ」 

 もうどうでもいいから、早く終わってほしい。到底自分の命に向けるべき願望ではないとしても、久川は心底そう思ってしまう。限界はとうに超えている。 

「こんなことを俺が訊くのも妙だけどな、明日自分の母親と会えるんだ。彼女が里を出てから十年以上の時が経った。潤沢な準備期間があったわけだ。ずっと画策していたとすれば、明日はその成果が披露されるだろう。期待してないのか?」 
「わけわかんない。そんなの、ほんとにおじさんが言うことじゃないし」 
「そう言っただろ。俺と武林さん――久川くんの母親は間逆の立場だ。何度も様子を見に行って、唯一疑わしかったのが柊落葉の存在だ。彼に君を助け出させる算段と警戒していたんだが、それは杞憂だった。疑いが晴れたわけじゃない。あの人は君を生んだ正真正銘の母親で、夫は我々管理者が手引きして犠牲になった。我々への恨み、我が子への愛情、そのどちらも上辺では興味が失せたと言っていたが、その彼女が最後になって娘に会う気になったとは矛盾している」 
「救ってくれようとしてるなら拒む気はないよ。でもさ、お母さん一人だけでどうにかさせてくれるほど、おじさん甘くないでしょ?」 

 母親が何事かを企てていようと管理者は大きな組織で、個人単位の抵抗なんて嫌がらせ程度にしかならない。母親の存命を知ってから、久川は何度か彼女の思い出にいる十年前の母親の姿を思い浮かべ、期待した。同じ回数だけ幼き日の親友の久田を想い、やはり役目を遂げるべきと抱く期待感を自ら砕いた。 
 どちらかを選べば、どちらかを裏切る。母親の手を取れば久田を。久田の後を追えば母親を。 
 母親が生きていなければ悩むこともなかった、なんて思わない。でも我が子を遺して里を出た母親には、元来親に向けるべき愛情が沸いてこない。例えるなら親戚程度。親戚のおばさんが助けようとしてくれて嬉しい、でも危険な行為は避けてほしい。久川の内にある母親への感情はその程度だった。 

「キフユは協力するのかな?」 

 母親に対して思うことが少ないから久川は冷静でいられる。自分の母親が何を企んでいるのか予想すると、落葉の存在が欠かせないように思えた。近くで見ていたから確信を持てるが、柊落葉という男は間違いなく優秀だ。 

「柊くんは里を出てから一週間は武林さんの家にいたが、その後姿を消した」 

 久川が目を見張る。初耳だった。 

「その反応を見るに、共謀してるわけではなさそうだな」 
「私がキフユと結託してるって?」 
「些細な違和感も疑ってかかるのが俺の仕事なんでな。結託していればボロを出すだろうと観察させてもらっていた。結局こうして最終日を迎えたから、これもまた杞憂だったわけだ。といっても、まだ油断できないがね」 
「キフユが……そうなんだ」 

 救おうとしてくれているのか。それ以外に考えられない。自惚れとも久川は思わなかった。 
 落葉はきっと自分を助け出そうとしてくれている。母親と共に下準備をしているのだ。久田碧に恥じぬくらい立派に役目を遂げると、そう強く願った心に僅かな亀裂が入る音を久川は自分の耳の裏で聞いた。 
 不意に天音が閉まっている廊下の扉に目をやった。遅れて久川も彼の視線を辿る。 
 変わった様子は見られない――いや、壁の向こうで鉄格子の扉が動く音がした。天音が床に手を着いて立ち上がる。 

「誰だ」 

 足音が静止する。侵入者は声を返さず、無言の間を置いてまた歩き出す。 
 一歩、また一歩。天音と久川の視界を隔てるリビングの扉の先に侵入者の気配が迫る。 
 天音が動いた。電源が落ちた機械のように侵入者の足が止まる。呼びかけに応じない侵入者の正体に心当たりがあるのか、扉に近づく天音の足取りは悠然としていた。 
 久川は扉の先が見える位置に移動した。天音の手が扉の取っ手を掴む。反応を窺うが、侵入者は扉を離れず、扉を先に開けようともしない。 

「なにが目的だ」 

 言うと同時、天音は取っ手を引き廊下を隔てる遮蔽物を取り除いた。 
 侵入者はまだそこにいた。天音は鋭い瞳で睨む。威圧する視線から逃げず、侵入者はリビングの敷居を跨いだ。 
 久川も知っている男だった。状況を掴めず、久川は傍聴席にいる気分で事態を観察する。 

「黙っていてはわからん。加藤くん、異常があったなら教えてくれないか」 

 時刻は深夜に突入しようとする頃合。この時間は外で警備をしているはずの加藤が口を真一文字に結び、対峙する天音をジッと眺めている。 
 話す気がないのか。では、どうして鉄格子を開けてまで入ってきたのか。加藤は天音だけを見据えて久川を一瞥もしない。自分には関係ない話だと、そう察した久川は廊下に立つ男から目を離す。 
 直後、加藤の視線を感じて久川は思わず彼に振り向いた。 
 気のせいではなかった。いつの間にか、加藤の視線は天音の背後にいる久川に注がれていた。 

「彼女に関係する話か? いい加減話せ。これ以上催促させるな」 
「喋れなくなったのかもしれない、とは考えないのですね。いえ、それは突飛すぎますか」 

 世界から加藤の声以外のあらゆる音が消え去ったかのよう。それほどに加藤の声は物寂しい室内に響き渡り、久川の思考の奥を揺らした。それだけ明瞭だったから、たった一度耳にしただけで久川は確信した。 
 加藤の声ではなかった。 
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