影武者として生きるなら

のーが

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第31話

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 今も耳に残り、繰り返し脳内で再生できるほど記憶に焼きついた声だ。外見は違う。影武者でさえ声色までは模倣できないように、加藤の姿をした侵入者の声も本人の声から変わっていない。加藤より幾分か声色が高く、丁寧すぎる喋り方。そんなふうに喋り、この場に現れても不思議ではない人物など、思い浮かんでくるのは一人だけ。 

「……まさか。影武者だったのか」 

 部下の外見から発せられた他人の声にしばし硬直していた天音の、搾り出すような声。侵入者は勝ち誇った笑みを浮かべ、右手で自らの顔を覆った。親指と人差し指で額を、それ以外の指で頬を掴む。久川には、侵入者が顔面の皮膚を剥がすごとく強く力を入れたように見えた。実際に皮膚を握力で剥がすなんてありえないが。 
 そう思っていた久川の前で、加藤の顔がぽろぽろと固まった泥を掻くように欠け、顔面に幾筋もの亀裂が生じた。呆気にとられる久川と天音を置き去りに、侵入者は崩壊を続ける顔面に一層の力を込める。幾筋もの亀裂が右目の部分で交わり、音もなく加藤の顔面は崩壊した。 
 現れたのは別の顔。スラックスのポケットから取り出したハンカチで顔に付着した残骸を暢気に払い、姿を晒した侵入者は太い息をついた。 

「現代の技術力は恐ろしいものです。影武者でなくとも、こうして人を騙せるわけですから」 

 既に確信していた人物の想像通りの変わらない姿に、久川はその名を呟く。 

「キフユ、なんで……?」 
「理由はふたつあります。その前に、天音さんの疑問に答えたほうが良さそうですね」 

 一瞥した落葉を天音は睨む。 

「わざわざ加藤くんの覆面を用意してまで久川くんを助けにきたか。よくもまぁ短期間で精緻に作り上げたものだ」 
「初日に写真を撮っておいたんですよ。携帯電話はまさしく文明の利器ですね。里では禁止されていると事前に天音さんから教えてもらいましたから、間近で撮れたのは一度きりでした。最初に会った加藤さんが檻の警備役になったのは運が良かったです」 
「初日の写真を職人に見せて作らせていたのか」 
「精緻なのは写真のおかげです。携帯を持つのは初めてだから試したいと相談したら、加藤さんは快く協力してくれました。おかげで真正面に対峙してもバレないクオリティに仕上げられましたよ」 
「人を騙してまで行動したわけか」 
「武林さんと一緒に住んでいるボクを久川さんの担当に抜擢した時点で、天音さんには絶対に里から彼女を連れ出させない自信があるのだと感じました。だから腹を括って目的の遂行だけを最優先にしなければ万が一もない思いましてね。良心は大いに痛みましたけれど」 

 落葉の絶対的な自信に、天音は己の力だけではどうしようもない状況に追い込まれたのだと悟った。天音は汚れひとつない天井を仰ぎ、声の調子を落とした。 

「久川くんに武林さんの話をした。君から話さなかったのは、彼女に心残りを増やさないためだと思っていたがね」 
「気を遣ってボクが黙っていると想像しながらバラしてしまうとは、あまり見習いたくない姿勢ですね」 
「我々の邪魔をしないなら母親に危害を加えるつもりもない。久川くんが一縷の希望すら持てずに旅立たせるのは抵抗があった。言い逃れのできない完全な私情だがな。俺は何年も久川くんを見守ってきた。少しでも自分の消えた後の世界に希望を感じられれば、影武者の役割だって前向きに果たせられる。影武者は本人の合意を得て派遣させる、それが理想なのは言うまでもない」 
「いかに影武者の存在が戦争の無くならない世界に必要で、里の外で生まれた者には得られない能力がいかに平和に貢献するかを幼いうちから刷り込み、違和感を覚えるより早く違和感のある環境が基準だと慣れさせる。洗脳ですよ。相手に寄り添って考えていると上辺で語りながら、やってるのは個人の意思を意のままに捻じ曲げる洗脳行為なんですよ。わかっているんですか?」 
「無論だとも。洗脳ではなく教育と訂正させてもらうが、我々は世界に影武者が必要と知っていて、命を犠牲に命を救う役割を誰かが担わなければ被害は抑えられないと熟知している。綺麗事で一国を救えたら俺も別の仕事をしたいものだ」 

 落葉は会話を切り上げる意図を込め、数秒間だけ唇を結んだ。天音も黙して様子を窺う。座布団も敷かず床に座る天音の真正面で、距離を確保して落葉も腰をおろす。 

「もう予測されているでしょうけれど、武林さんは明日の会合の場で久川さんを救うつもりです」 
「それを君がバラしていいのか?」 
「バレている情報をバラすとは言わないでしょう。武林さんもきっとわかってくれるはずです」 
「――勝算はあるの?」 

 けん制し合う天音と落葉の脇から久川の言葉の槍が突き刺さる。結論を急ぎ核心をつく質問に、天音は苦笑した。 

「俺のいる場で訊く内容か?」 
「いなくたって盗聴するんでしょ?」 
「否定はせんが、柊くんだって俺の前では正直に話せないだろ」 

 久川だけが立ち、天音と落葉は座ったままの異様な光景。 
 落葉はわずかに口の端を緩めた。 

「救うと宣言した以上は勝算があります。簡単ではないとも承知していますけれど」 
「よくも肯定できるものだな。久川くんには悪いが、こちらがその気になれば会合を反故にだってできるぞ?」 
「武林さんは里を出て以来、娘を救う作戦を練り続けてきたんです。約束を反故にされるくらいでは破綻しませんよ。こうして天音さんに武林さんの考えを伝えているのも、武林さんから指示されたことです」 
「わざわざ精緻な面まで用意して進入してきたくせに、目的はそれだけか。里に潜り込み、檻のなかにまで侵入してみせて成したかったのが俺への降伏勧告とはな」 
「ボクが里に侵入した目的はふたつあると言いましたが、ひとつは言うまでもなく久川さんの救出です。もうひとつは、天音さんの推測に近いですね」 

 聞き間違いを疑いながら、天音は聞き返してこない。聞き返すだけの余裕がないのだ。 
 答え合わせに納得できない天音に、落葉は付け足す。 

「ボクは天音さんに協力のお願いをするために来たのです」 
「協力?」 
「そうです。久川さんを里から連れ出すのは至難ですが、里の一番の権力者の天音さんの手を借りられれば一息に容易になりますから」 
「本気で手を貸してもらえると考えているのか? ……違うだろうな。俺の動揺を誘って別の手段を講じようという算段か」 
「天音さんが予測を外すとは珍しいですね」 

 落葉の対面で天音が苦々しく口を噤む。対照的に落葉は朗らかに微笑んでみせた。嫌気のない笑みに、天音を嘲る色は介在しない。だからこそ天音は当惑する。 

「俺の手を借りて、久川くんを脱走させる。そんな単純な作戦のために時間をかけて準備したうえ、捕まるリスクも背負って侵入したのか」 
「単純ですが、天音さんに会えれば成功率は充分でしたから。巻き込んでしまった加藤さんには外でおとなしくしてもらっています。夜中に自分と同じ顔の男が急に目の前に現れた驚きようは凄まじかったですよ。あれが声にならない叫びなんでしょうね。利用して申し訳ないと感じる一方で、少し面白かったです」 
「会えれば、か。まるで俺がチャンスさえ与えられれば管理者側を裏切ると思っているような物言いだな」 
「天音さんは久川さんの母親である武林さんを気にかけていました。ボクもたまに同席していたから覚えていますが、久川さんがまだ務めを果たさず存命だと教えてあげていましたよね」 

 傍観している久川に注目され、天音は間を置き頷きを返す。 

「拉致してるわけじゃないんだから娘の近況くらい教えることもある。務めを果たしてこの世を去ってしまったら、それも伝えるつもりだった。期待に沿えず悪いが、単なる義務感によるものだ」 
「久川さんの教育担当を二年間も続けていたのに、行動原理にあるのは義務感だけだったと?」 
「仕事とは与えられた役目を果たすことで、組織は各人が役目を果たして大きな力を得る。社会とは組織の集合体で、組織の力が結集するから社会も良い方向に進んでいける。仕事には義務感だけでいい。熱意を持つのは個人の勝手だが、役目から逃れる熱意を抱くようじゃ社会人失格だ。俺は選んだ以上は逃げないと己に誓ったからな。影武者を管理するために自分は生かされているのだと思うくらいだ」 
「代わりがいるとしても、立場を変えるつもりはありませんか」 
「義務感から逃げる行為は、義務から逃れず向き合う大勢がいてくれるからこそ成り立つ。世の人々が全員好き勝手にしたら瞬く間に地獄が出来上がるだろう。我がままを突き通せる年齢でもない」 
「仮に抜け出せても、天音さんの協力がなかったらボクたちは追われ続けますよね?」 
「仮に協力してやれたら、死んだことにできるかもしれないがな」 
「ですが、それを試すつもりはないのですね」 
「ここまでバレずに侵入してきたのは素直に賞賛するが、俺にも立場がある」 

 天音はスーツの内ポケットに右手をいれた。天音が煙草を吸っている姿なんて、久川は一度も見た記憶がない。最近始めたのか。興味の眼差しで彼の手の動きを観察する。 
 落葉も訝しむ目を向けていた。天音は緩慢に内ポケットから手を引き抜くと、手に握られていたのは煙草ではなく、表面が銀色の細長い小型機器だった。携帯ラジオかと想像する久川の視界の端で、落葉の表情が強張った。 

「応援を呼ぶつもりですか」 
「俺は自分の役目を投げ出すつもりはないと言っただろ。心配しなくてもいい。別に危害を加えたりはしない。乱暴されたわけでもなさそうだし、粗暴な性格でもないから加藤くんも許してくれるだろう。久川くんが役目を無事に果たすまで、柊くんにはここで過ごしてもらうがな。ああ、もちろん三食付けよう」 
「あなたを言葉で説得しようだなんて、無謀な作戦でしたか」 
「会えれば成功率は充分と自信満々だったわりに、急に弱気だな」 
「その考えに、まだ変わりはありませんよ」 

 ふたりの会話から、久川は天音の手にある小型機器が件の携帯電話と理解した。しかし、初めて見る機械を気にしていられる状況ではない。天音が携帯電話を手にしたまま身を固くしているように、久川も真意のわからない発言をする落葉の言動に集中する。 

「わからんな。これだけ喋ったのにまだ俺が味方につくと期待してるのか? 少しは冷静に考えてみたらどうだ」 
「冷静になるべきは天音さんですよ。そもそもボクがどうして檻にまで侵入できたのか、納得できているのですか?」 
「加藤くんの面の出来は凄まじかった。背丈もそう変わらんから堂々と入ってこれたんだろう。ゲートの守衛が気づかないのも無理はない」 
「加藤さんは普段から里の外に出ていたんですか?」 
「久川くんの夕食を買いに出かけたりな」 
「そうだったんですか……。それなら、加藤さんになりすませば良かったんですね」 

 携帯電話を握る天音の腕が垂れ、彼は深く息を吸った。 

「驚いたな。まさか面を複数用意していたのか」 
「いいえ、用意したのは一つだけです。柊落葉が化けるには、それしかなかったので」 
「君はなにを言ってるんだ?」 

 会話が通じていないのだろうと久川は天音の心情を推察した。久川自身も同じだったから。二週間ぶりに会った今夜の落葉はどうにも印象が違う。一歩退いた位置で物事を冷静に判断する気質だったはずなのに、物腰は柔らかでも今日は異様に攻めている。 

「まぁ、当然の反応ですね」 

 落葉は落胆した様子で小さく呟くなり腰をあげた。彼の特異な言動に翻弄される天音と久川は顎を持ち上げ、視線だけで落葉を追う。今夜の落葉の話には耳を疑ってばかりだ。 
 今度は、目を疑う羽目になった。 
 両手を広げ、肺いっぱいに空気を取り込むように深呼吸する落葉の髪が急速に伸びて長くなった。睫毛も伸びて目と鼻は僅かに丸くなり、身長が縮み肩幅も狭くなる一方、胸部がカッターシャツの下で窮屈そうに膨らむ。腰にはくびれが生まれ、臀部も風船が膨らむように成長した。 
 中性的であれども紛れもなく男性の形をしていた落葉が、一瞬のうちに女性の肉体へと変貌した。影武者であれども異性に化けるのは難しい。生物的な違いが多く、模倣には立ち居振る舞いといった意識までも異性の性質に変える必要がある。そのくせ外見を寄せられても、声はどうにもならない。全影といえど、身体の中身までは作り変えられないから。 

 天音も久川も目を見開いたままで動けない。 
 ふたりが驚いているのは、落葉が異性に化けたからではなかった。 
 天音より先に、久川の唇が震えながら言葉を漏らす。 

「碧ちゃん……?」 

 十年ぶりの呼び名に、久田碧は口角を上げて応えた。 
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