かお 短編小説集

かお

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臨命終時

臨命終時 

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「あ...あぁ......ぐぅ......」
私は必死に声を振り絞ったが声が出ない。

彼女は必死に何かを伝えようとしていたが、私には何を言おうとしているのか分からない。

意識が遠のく中、最後に見た光景は悲しそうに......そして潤んだ瞳で私を見つめる妻の梅の姿だった。






私の名前は松下正三。

今年で80歳を迎える老人だ。
と言っても今はただ死を待つだけの寝たきりである。

食事やトイレは妻の介助なしではできない。
妻は私が70歳を迎える頃に倒れてから今日までずっと嫌な顔せず私の介護をしてくれた。

本当に彼女には感謝している。
何せ彼女と出会わなければ私は当に暗い部屋で孤独死。この世にいないだろう。

元々私は恋愛とは無縁であり長年独り暮らしだった。家と職場を行き来する日々。親を早くに亡くし兄弟もいない。
孤独死が当時49歳の私の脳裏には過ぎっていた。


※※※


私と妻の出会いはある日の休日、特にやる事もなかったので地域のゴミ拾いボランティアに参加した時だった。

「いつも遅くまでお仕事されているのにボランティアにも参加してくださりありがとうございます。」

そう声をかけてきたのが後の妻である梅だった。

「ははは。休日なのにやる事がないだけですよ。何せもうすぐ50歳にもなるのに一緒に遊ぶ友達も恋人もいませんから。」
「あらあら。それを言うならワタシもですよ。ワタシもこの町にはかれこれ20年住んでいますが縁のあるお話がないもんでねぇ。」

その後も私達は他愛もない話をしながらゴミ拾いを続けた。
彼女と話をして分かったことだが彼女もまた早くに両親を亡くしたらしい。それに加え意外にも内気な性格らしく友人も少ないらしい。

「自分でも不思議だわぁ。ワタシからあまり誰かに話しかけることは無いんですけど松下さんにはなぜか話しかけられたの。」
そう話す彼女は何だか嬉しそうだった。

清掃ボランティアの最後に私は
「また一緒にお話しましょう。」
そう言うと彼女は優しく微笑んだ。

彼女、梅との交流はこの後も続いた。

と言っても暫くはゴミを拾いながらお互い中身の無い話を延々とするだけだったが......

ただそれでも彼女との会話は今まで一人で生きてきた私にとってはとても新鮮なものだった。

彼女との交流が続いて3ヶ月、今更だが間違いなく私は彼女の事が気になっていた。

まさか今まで恋愛をしてこなかった私が異性を好きになるとは思わなかったが......

次の日曜日に梅さんを食事にでも誘おうと思う。
「梅さん、OKしてくれるだろうか......」

とうとう日曜日がやってきた。

今日は梅さんとの食事会をとりつける。
いつものように私は地域のゴミ拾いボランティアの中で梅さんに話しかける。

「今日はいつにも増してゴミが多いですねぇ」
「少子高齢化が騒がれてる中、うちの地域は若い方が多いですからねぇ。」

他愛もない会話を続ける中で私は梅さんに例の話を切り出すタイミングを見ていた。

「どうかしたんですか?」
「え?」
「いや、今日の松下さんソワソワしているご様子なので」
このタイミングしかない。私は梅さんに話を切り出した。

「実は梅さんとお話したいと思ってまして」
「今お話してるかと思いますが......」
......至極当たり前の事を言われてしまった。

「そうではなく、梅さんとはいつもゴミ拾いの1時間の合間でチラホラ話すだけなのでどこかお店でゆっくり話したいなと。」
「あらま。私とですか?」
「はい。」
「そうですか。じゃあ来週の日曜日ゴミ拾いが終わったら近くに美味しいコーヒーが飲める喫茶店があるのでそこでどうですか。」
「いいですね。ではそこで」

こうして私は梅さんとの約束を取り付ける事ができた。

次の日曜日、私は喫茶店「なごみ」へとやってきた。

初めて行く店だったがほんとに近い場所にある店だったので迷うことはない。

「この前もお話しましたけどここのコーヒーが美味しいんですよ。」
そう話す彼女、梅さんはいつにも増してニコニコとしている。

さて梅さんと話すきっかけを作ったもののいざとなると話す話題が思い浮かばない。

私は元々あまり人と話すのが得意ではないのだ。

しかし、ガチガチに固まっている私とは裏腹に梅さんは最近自分の周りに起きた話を延々と私に聞かせてくれる。

「それでね。昨日庭を掃除していたらお隣さんのミーヤ(猫の名前らしい)がね......」
彼女はとにかく話し続ける。

聞いてほしい話が沢山あるようでその内容も短時間でコロコロ変わる。

さっきまで家に蜂の巣ができた話をしたかと思えば今は近所の猫の話をしている。

私はずっと彼女の話しに相槌を打っていた。


※※※


40分位経っただろうか。
「って、あらやだ。私ばかりお話ししてしまったわね。ごめんなさいね。」と彼女は急に話を辞めて私に謝っていた。

「いえいえ、お恥ずかしながら私はあまり自分の話をするのが苦手でして。梅さんが楽しそうに話をしてくれて嬉しいですよ。」
「そうなんですか。でもさっきはワタシばかり話過ぎましたから次は松下さんの話も聞かせてくださいな」
「私の話ですか。でも、退屈な話になってしまいますよ?」
「退屈なんてことありませんよ。松下さんのお話、ワタシは大変興味ありますよ。」
「ははは、ではお言葉に甘えて。楽しいお話しというよりは愚痴かもしれませんが。」

私は梅さんに仕事の話をしていた。

「それで部長はいつも私にばかり仕事を振ってくるんですよ。おかげでいつもいつも残業です。社会人になってから0時前に家に帰れた事一度も無いんですよ。」

私は内気で臆病な人間なのでいつも部長に良いように使われる。だが、私とて人間である。ストレスも当然溜まるし、嫌なものは嫌である。

すると私の話を聞いて梅さんは突然小さく笑いだした。
一体どうしたのだろうか?私の愚痴に笑う要素は無いと思うのだが......

「すみません。突然笑ってしまって。松下さんって物静かな方なのでまさか仕事の愚痴を熱く語って下さるとは思わなかったもので。」

話していた私には分からないが、彼女には私の話がツボに入ったようだ。

「やっぱり、松下さんとのお喋りは楽しいわぁ」
「はは、お気に召して頂けたようで良かったです。」
「また、ここでお話ししましょう。」
梅さんは最後に私にそう話して今日は解散となった。

梅さんと喫茶店で話した翌日、私はいつも通り会社へ向かう。大学を卒業し、新卒入社してから約25年間勤めている会社である。

いつもなら重い足取りで向かうところだが今日はなんだか違った。足取りはいつも通り重いが気持ちの面で少し前向きな気持ちで出勤できた。

会社に出勤して朝礼が終わり、自分の席に戻ると早速部長が私のところに来る。

「松下君。来週の会議資料作成を君に任せるので早急に作ってもらえる?できれば今日の夕方までに作ってもらえると助かる」
「はい。わかりました。」

これである。うちの部長も決して働かない人では無いのだが、自分から見て面倒くさい仕事は私に押し付けるのである。
しかも、量もおかしい。大抵数時間では終わらない量なのである。

私はこれが原因で定時帰宅ができないでいる。
ただ、残念な事に私には部長に逆らう勇気がない。

「はい。わかりました。」この一言を言うのが私のお決まりであり、周囲の社員達にとって見慣れた光景となっている。
不満やストレスが溜まるばかりで本当に嫌になる。

仕事がようやく終わり、時計を見ると23時42分。終電が0時15分なので急いで駅へと向かう。今の会社に入社してから平日は毎日こんな生活だ。

会社を出て駅へと向かう途中に私はふと考える。
「何というか、寂しいなぁ」
ここ最近、一人で会社から帰る時何とも言えない寂しさ、孤独感に襲われる。

「今まではそんな事なかったのになぁ」
梅さんに出会ってからだろうか。

深夜2時、自宅に帰宅する。
ひとり暮らしなので当然「おかえり」の声をかけてくれる人もいない。
寂しくはない、はずであった。

だが帰り道に感じた孤独感は今もまだ拭えない。
「梅さんと話したいなぁ」
気づけば無意識にそんな事を口に出す始末。

「もし、梅さんと毎日少しでも話せたら...」
そんな想いから私は次の休日、梅さんと会ったら思い切って話してみることにした。


※※※


「......」
梅さんと思い切って話をしたい!と誓って早1ヶ月近く経つ。

私はといえば未だに平日は孤独に生きている。
「はぁ......」
溜息が出る。

私は未だに梅さんとは休日に他愛もない話をしているだけ。
言おうと誓っても本人を前にすると縮こまってしまう。

私という人間は本当に臆病である。

昔から私は他人に言いたいことが中々言えない人間であった。
何をするのも受け身であり、自分から何かを発信する事は滅多にない。

本当に自分という人間には呆れるし嫌になる。
逃げるに逃げて結局諦めてしまう。
これが私の今までの人生だ。

「...今回もまた私は逃げるのか」
私ももう50手前、このまま友人も恋人もいない人生を歩めば待つのは孤独死だろう。

いいのかそんな人生で...
暫く私は考え込む。
思えば悩みはするが直ぐに諦める癖がついていたのでこんなにも悩むのは新鮮な感覚だ。

「私にとって梅さんは何なんだ...」
諦め癖のある私がこんなにも悩む相手梅さん。
「私にとって運命の相手は彼女なのかもしれない。」
ここで機会を逃したら私は一生一人だ。

残りの人生もそう永くはないだろう。もう私には失う物もない。ならここで勇気を出さないでどうする!覚悟を決めろ!正三!
私は心の中で自分を奮い立たせる。


※※※


そしてまた訪れた日曜日。

今日も梅さんと地域ボランティアの後に行きつけの喫茶店「なごみ」へとやってきた。

「ここで今日こそ想いを打ち明けるんだ!」
心の中で強く意気込み、私は店の中へと入っていく。


※※※


「それでね。昨日はお向かいの笹倉さん家に上がらせて頂いてララちゃん(チワワ♀2歳)を撫でさせてもらったの。ララちゃん、家の人以外が触ろうとすると吠えちゃうらしいから普段は笹倉さんも噛まれないように注意してるみたいなんだけど私は大丈夫だったの!」

喫茶店に入るといつものように梅さんはよく喋る。特に動物が好きなようで動物の話になると他の話題よりも饒舌な気がする。あくまで私の直感ではあるけどね。

さて、いつもは私も彼女の話を聞いて和んで終わりだったけども、今日はそういう訳にも行かない。いい加減このもどかしさに決着をつけなくては。

私は梅さんの話を聞きながら静かに深呼吸をして息を整える。

梅さんの話に区切りがつき、少しの沈黙が訪れた頃、私は話し始める。

「実はですね。私は最近ふと寂しくなるのです。」
「ほう。」と梅さんはコーヒーを飲みながら私の話に相槌を打つ。

「梅さんも今独り暮らしですよね?1人の部屋にいるとふと寂しくなりません?」

すると、彼女は話し始める。
「前にも話したかと思いますがワタシはそもそも人付き合いが苦手なんです。ワタシは自宅で仕事をするのでその結果、ご近所の方とも話す機会が多いですが。」

「でも梅さんの話を聞く限り、梅さんからも話しかけてペットの犬を触らせてもらったりしているみたいですが......」

「そういった関係性の方はごく少数ですよ。この街って若い方が多い上に話せる仲になったと思ってもすぐにまた引っ越してしまう方が多いですから。」

「そうだったんですね。毎週梅さん、ご近所さんの色々なお話を聞かせてくれるので交友関係広いのかと思ってましたよ。」

「ワタシがいつも話す方は昔からこの街に住んでいる人達の事ばかりですよ。人見知りのワタシでも数十年も話していれば流石に慣れますから。」

正直、私としてはこの流れは予想外であった。

梅さんも実はひとり暮らしに寂しく感じていると踏んでその流れでお付き合いの話をしようと思っていたのだが。

「......では梅さんはひとり暮らしでも寂しいと感じた事は無いんでしょうか。」
私が疑問を口にすると梅さんはニコリと笑い、「そんなことはないですよ。人と話すのに緊張することはありますが、お話しする事自体は好きですから。話したいときに話を聞いてくれる方がいないのは退屈です。」と答えた。 

梅さんが人付き合いが苦手な話をし始めた時はどうしようかと思ったが、今の梅さんの言葉を聞いて私は少し安心する。

いよいよ私も覚悟を決める時が来た。
「あのですね、梅さん。梅さんがもしよろしければ私と同棲を前提としたお付き合いをしてもらえませんか。」
「え?」

梅さんはキョトンとした顔をしている。私がまさかここで告白するとは微塵も思っていなかったのだろう。

「私ももうすぐ50です。正直、この年まで独り身で結婚は諦めていました。」
「孤独死も何度も頭を過りましたし、最近はそれも仕方ないと自分に言い聞かせていました。ただ、梅さんと出会ってその気持ちも変わりました。」

気づけば私は無我夢中で梅さんに対して話していた。

「誤解しないでくださいね。勿論、私は別に誰でも良かった訳ではありません!他でもない梅さんの人柄に惹かれたのです。もう一度言わせて下さい。私とお付き合いしてもらえませんか。」


※※※


私が告白をしてからすぐに無言の空間が訪れた。
正直、気まずい。

梅さんの顔色を伺うと何とも言えない表情をしている。
その顔は悩んでいる様にも見えるし、断り方を模索している様にも見える。


※※※


5分ほどが経ち、俯き顔だった梅さんの顔に笑顔が戻る。

「分かりました。私も正三さんとはどんな形であれこれからも仲良くしたいと思っていました。宜しくお願いします。」
それを聞いて私は心の中で密かにガッツポーズをする。

ただ、続けてこう言った。
「同棲の件についてはまだ待ってください。一応ワタシも今の家、賃貸で契約が残っているので。お付き合いを始めても暫くはお互い今と変わらない生活になると思います。」

「もちろんです。私はいつまでもお待ちしています。」


※※※


あの告白からあっという間に半年ほど経った。

「じゃあ、今日も帰るのは夜中だろうから無理せず先に寝てていいですよ。」
「毎日大変ですねぇ。お仕事を頑張るのはいいですけど身体も労って下さいね。」

そんな会話をして私は今日も会社に向かう。

つい先日から私は正式に梅さんと同棲を始めた。梅さんはずっと住んでいた賃貸の家を退去し、私も梅さんと暮らすには前の家は手狭だと思ったので前と同じ市内の広めのマンションに引っ越すことにした。

まあ、同棲を始めたと言っても私達はそれまでの半年間もお互いに休日は時間を作って今後の事を色々話していた。

そして同棲ではなく、正式に籍を入れる日程もそこで決めていた。

その日とは2週間後に迫った私の50歳の誕生日である。


※※※


「正三さん、お誕生日おめでとう!」
「梅さんもこれから宜しくお願いいたします。」
あっという間の2週間だった。
こうして梅さんと一緒になる事を今まで夢見てきたがそれが遂に叶ったのだ。
「誕生日を迎えてこれ程に嬉しかった事はありません。」





私の名前は松下正三。
今年65歳になり、定年を迎え、本日をもって長年勤めた会社を退職したばかりの老いぼれである。
15年前に今の妻である梅と結婚し、今日まで頑張って辛い仕事を乗り越えてきた。
私も妻も高齢の結婚だったので当然子どもはいなかったが、その分お互いに一緒に過ごす時間を作ることができた。
その為結婚して約30年、夫婦喧嘩はした事がなく、近所からは「仲睦まじい老夫婦」と言われているのは私の密かな自慢だ。
65になるまで私には仕事があったので平日はお互い顔を合わせる時間は殆ど無かったが、休日は近所の喫茶店で夕方までお互いの他愛もない話で盛り上がったりしたものだ。
「本当はもっと時間を作って夫婦の時間も作りたかった。」
しかし、仕事を退職した事でこれからは毎日夫婦の時間を作ることができる。
今日と言う日をこれまで何度も夢見てきた。
それが遂に現実となる。
「これから何をしようか。旅行にも行きたいねぇ。」
「正三さんたら仕事を辞めた途端、活き活きして若返ったみたいですねぇ。」
「そりゃあそうですよ。もう65だからいつ棺桶に入ってもおかしくない。元気なうちにようやく得た自由を謳歌しないと。」
思えば大人になってから仕事ばかりの人生だった。
だが、これから私は自分の好きな様に生き、悔いの無い人生を送るのだ。
「時間もできたし、早速来週にでも旅行に行かないかい?」
「いいですねぇ。温泉にでも行きますか?」
「温泉といえば前から行きたかったところがあるんだよ。」


※※※


1週間後、私は妻と群馬県にある有馬温泉へと向かった。
「どうして有馬温泉なんですか?」
「うん?」
「数ある温泉の中で有馬温泉にこだわりがあったようでしたから。」
「社会人時代休み無く働いてまともに遊ぶ時間が取れなかったからね。ここの温泉は健康増進をしてくれるらしいから。これからも健康に過ごす為にここにしたんだ。」
「本当によく調べたんですねぇ。」
「今の私は楽しく日々を生きる事しか考えてないからねぇ。」


※※※


車を走らせて早数時間、今日は火曜日で平日ということもあり、渋滞に巻き込まれずにスムーズに現地に到着した。
「さあ、着きましたよ。まずはチェックインしよう。」
私はいつの間にか助手席で眠ってしまった妻を起こす。

「ごめんなさい!いつの間にか寝てました。」
「構わないよ。それより降りて荷物をホテルに運びましょう。」

※※※

ホテルに入り、すぐ目の前がフロントである。30代位の若い男性が対応してくれる。

「本日は当ホテルをご利用頂き、ありがとうございます。荷物は先に係のものが部屋まで運びますのでチェックインをお願いいたします。」
「ああ。よろしく頼むよ。」
そう言って私と妻は男性の隣にいた女性の方に荷物を預けた。


※※※


チェックインを済ませて私達はホテルの部屋へと向かう。渡された鍵には712と書いてあるのでエレベーターで7階へ行き、部屋へと向かう。


※※※


部屋につき、鍵を使って中へ入る。

部屋の中はシャワールームやトイレ、ベッドなどが最低限揃っているだけの質素な感じだが、7階ということもあり、外の景色の見晴らしは良い。
私達は奥にある椅子に腰掛ける。
「来る前は着いたらすぐに温泉へ向かおうと思っていたんだけど。」
「まあまあ、3時間も運転したら疲れますよ。」
久しぶりの運転という事もあり、自分の思った以上に疲れてしまったようだ。若い時にそれ以上の距離を運転した事はあるが、そこまで疲れた記憶はない。歳はとりたくないもんだな。

※※※

それから何と2時間も経ってしまった。
気づけば2人して眠っていたようだ。
偶然にも2人同時に起き、時計を見ると16時過ぎである。
「せっかくですし温泉に向かいますか。」
「そうですね。楽しまないと勿体無いです。」
そうして私達はホテルを出た。

ホテルを出た私達は車で温泉へと向かう。
場所はホテルから20分程の場所にある。
ホテルで寝た事もあり、行きよりも運転が楽に感じる。
「......とはいえ、一面雪景色なのは新鮮というか、危なかっしいというか。」
一応、車のタイヤはスリップしないように変えてきているとはいえ、少し運転が怖い。
「まあ、気にし過ぎか。」

※※※

そんな事を考えているうちに温泉に辿り着いた。
「では温泉を楽しみましょう。」

わざわざ冬を選んで来たかいあって温泉は外気の寒さとお湯の熱さがちょうど良く感じられた。
また露天風呂ということもあり、何とも言えない開放感に満ち溢れる感覚である。
一気に今までの疲れが吹き飛ぶような一時である。

気づけば風呂に入って1時間半も経っていた。
「充分満喫できたし、そろそろ出るか。」
もしかしたら妻は先に出て私を待っているかもしれない。湯冷めさせて風邪引かせるのは申し訳ないと思い、急いで着替える。
※※※
出てみると近くの休憩スペースに妻はいた。

「申し訳ない。結構待ちましたか?」
「いえ、ワタシも今出たところですから。」
聞くと、妻も私とほんの数分の差で出てきたらしい。
「普段ははや風呂なのに温泉だと長い時間入りたいと思うのは不思議よね。」
そんな他愛もない会話を二人で楽しんだ後にそのまま暫し観光を楽しむ事にする。
最も観て回るのは主にお土産屋だったり、買い物が殆どである。
流石に年齢もあって色々な場所を観て回る程の体力は無いので無理のない程度に楽しむ事にしたのだ。


※※※


「思ったよりも買いましたね。」
気づけば二人とも買い物で主に地域限定物の商品ばかりを買っていた。
「二人で消費し切れればいいですけどね。」
買うときは何も考えずに買って楽しむのだが、買った後に素に戻ると買いすぎた事を二人で後悔するのは旅行あるあるな気がする。
大量の荷物を車内後ろにぎっしりと乗せ、ホテルへと戻る。
今日、大量に買い込んだので明日は観光に丸一日使えそうである。


※※※


ホテルへ戻ってからが大変だった。
お土産の中にはナマモノもあり、ホテルの部屋にある冷蔵庫に入れるため、二人して荷物を沢山抱えて部屋へと向かう。
そこからは二人とも疲れがどっと出たせいでぐったりだった。
まだ夜7時頃ではあったがこの日はそのまま寝て終わってしまった。


※※※


2日目はホテルをチェックアウトして地元の名物料理巡りや観光の続きをする。
今日の夜には我が家に向かうことになるので悔いのないように隅々まで回る。


※※※


結局、観光はするにはしたが、お互い年齢の為、機敏には動けない。
2つ、3つの場所を周ればあっという間に夕方である。若ければもう少し居ても良かったかもしれないがこれ以上は運転もあるし、正直キツイ。
(車じゃなくて新幹線で来た方が良かったかもしれない......)
「ちょっと休憩しますね。」
「ええ、その方がいいでしょうね。ゆっくり帰りましょう。」
帰りの車では私も疲れているので途中何度もパーキングエリア等で休息を取る。
事故だけは起こしたくないのでこの帰り方が最善であろう。


※※※


「ふぅ。ようやく家についた。」
時計を見ると夜22時である。
夕方には有馬を出たので実に6時間近くの運転である。(最も、その内2時間程度はパーキングエリア等である為そこまで長い運転ではないのだが......)
まあ、近年では高齢者ドライバーによる凄惨な交通事故がニュースで話題になるから慎重にトロトロ運転する位が丁度良いだろう。
私は隣でウトウトしている妻を揺さぶり、車を降りようとした。その時、私の鳩尾に鈍い痛みが走る。
「ぐぅ!ぅぅぅ......」
私はあまりの痛みに車の中で蹲り、動けなくなってしまった。
「大丈夫ですか!どうしました!」
助手席にいた妻は寝起きにも関わらず、私の様子を見て一瞬で目が見開いていた。



それからの事はあまり覚えていない。
気づけば私は救急車で運ばれていた。
そしてそのまま病院にかつぎ込まれた。
最も、それも私自身うっすら記憶にある程度である。夢なのか現実なのかと問われるとはっきりはこたえられないだろう。

※※※

どれ位の時間が経ったのだろうか。
私は病院のベッドの上で色々な管に繋がれている状態であった。
私が目を開けると妻と目が合った。
妻は驚いて病室を飛び出して行く。
どうやら医者を呼びに行ったらしい。
「山下さん、あなたは初期の胃癌でした。」
「胃癌ですか?」
「倒れる直前に腹痛に襲われませんでしたか。それは胃癌の症状の1つなんですよ。」
「確かに車から降りようとした時、横腹の痛みで動けなくなったような......」
胃癌と言う思わぬ病気の発見であったが、私にとって衝撃的だったのはこの後であった。
「初期とはいえ、胃癌ですから手術であなたの胃を一部切り取っています。後、もしかしたら癌が再発するかもしれないので今後は定期的に診察をお願いします。」
まあ、胃癌と聞いていたので確かに胃を切り取るのは理解したけど問題はその後である。
「定期的に検診ですかぁ~。」
正直、私は昔からあまり病院が好きではない。独特の薬品の臭いを嗅ぐだけで気が滅入る。

しかも、胃を切った事で医者からは食事にも制限をかけられ、手術で体力まで大幅に落ちてしまった。
「楽しい旅行のはずがまさかこんな事になるなんて。」
今まで一生懸命働いてきたのに神はあまりにも残酷すぎやしないか?

「まあまあ、命が助かっただけ良かったですよ。急にあなたが倒れた時は生きた心地がしませんでしたよ。」
妻がそう私に呟く。せっかくの楽しい旅行だったのに彼女には悪い事をしたと思う。

「お医者様の話だと退院しても身体に不自由さが残るみたいですが、ワタシもサポートしますからこれからはもっと身体を労りましょうね。」
「......苦労をかけますが宜しくお願いします。」
こうして私は再び制限された生活を送る事になった。

それから数日が経過した。
年齢と手術の影響で私は未だに自分で立ち歩く事ができないでいた。
自由に立ち歩けないので当然だが、妻に付きっきりで介助してもらう。
介助と言っても朝に起きる時に車椅子を持ってきて貰い、乗る手伝いをして貰うだけである。

幸い、私は身体が不自由なだけで全く何もできない訳ではない。
ただ、万一の事を考えて妻には常に一緒にいて貰い、妻が買い物等で出かける時は車椅子で私も妻に付いていくようにしている。
医者曰く、適度な運動や気分転換になるから身体には良いらしい。

最も、仕事を辞めた後は死ぬまで自由に妻と好きな事をして過ごすと夢見ていた私にとって、この制限された日常は本当につまらないものである。
「生きている意味が分からなくなってくるなぁ。」
思えば振り返ると私の人生は幸せよりも不幸な事が多かった気がする。

幸せだったのは自分がまさか結婚するとは思わなかったので妻と出会えた事が幸せの絶頂であった。
それ以外は何度振り返っても良い思い出とは思えない事ばかりである。
「このまま私の人生は消化不良のまま、幕を閉じるのだろうか。」
そんな考えばかりが頭を巡る。

「ありのまま運命を受け入れるしかないのだろうか。」

そんな事を毎日考え、気づけばそのまま1年......2年......何と5年が経過した。
70歳となり、一時は多少歩き回れるようになった身体は当に弱りはじめ、最近は外出する回数も減った。

「結局、あれから自分のやりたい事は何もできなかったなぁ。」
この5年を振り返るが、虚無の5年であった。
毎日起きたら妻の作る朝ごはんを食べ、妻と一緒に車椅子で買い物をする。昼ごはんは外食で済ませ、家で2人、夕ごはんを食べる。

そして眠りにつく。ずっとこれを繰り返した。
「私に結局自由は無かったのか。」
思えば私の自由はいつも何かによって邪魔された。
幼い頃は私の家は貧しく、親の家業を手伝わなければ行けなかったので学校には中々行く事は出来なかった。

中学生になり、ようやく家業も安定して自分の時間を作れるようになった矢先に両親は亡くなってしまった。
まだ子どもだった私には生きる術がなく、結局また生きる為に働いた。
働きながら勉強もした。
とにかく必死に働き、その過程で色々なものを諦めてきた。

中学を卒業した後は所謂ブラック企業というものなのだろう。
とにかく長時間労働を強いられ、無我夢中で働き続けた。
途中で辞めるという選択肢もあったかもしれないが、私は辞めずにその会社に50年勤め上げた。

正直、何度投げ出そうとしたか。
だが、1つだけ希望もあった。
妻との出会い、そして結婚である。
妻と出会ったからこそキツイ仕事を投げ出さず、立派に勤め上げることができた。
その妻に恩返しがしたくて老後は一緒に楽しく過ごしたかった。ただそれだけなのに。

気づいたら私は涙が止まらなくなっていた。
声を上げず、ただ虚空を見つめながら泣いていた。
そして私は急に眠くなり、そのまま眠りに着いた。

※※※

そして、目が覚めると私は自宅ではなく、病院にいた。

何が起きたのか自分でもよく分からない。
眠くなったから寝た。ただそれだけなのに何故私は病院にいるのだろうか。
横を見ると疲れた顔をして眠っている妻がいた。
「あ、ああ。目が覚めましたか。」
私の視線に気づいたのか、眠っていたはずなのに妻はすぐに目を覚ました。

「ここは?私は確か眠くなって自宅で寝ていたのでは?」
「あなた、寝ている間に意識不明になって病院に運ばれたのよ。」
妻の言葉には驚いた。私はただ寝てしまい、起きただけなのに。まさかこんな事が起こっていたとは。

暫くしてから医者がやってきた。
「松下さん、以前に胃がんを患っていたかと思いますが、再発しています。」
「そうでしたか。治る見込みはあるのでしょうか。」
この時、私は不思議と取り乱すことなく、医者の話を聞く事ができた。

医者の話によると、手術してがんを取り除く事は可能だそうだ。
ただ私自身が高齢の為、手術に耐えきれるかは五分五分らしい。
「分かりました。手術をお願いします。」
私は手術を受ける事にした。

手術当日、私は妻の手を握りながらストレッチャーで手術室へと運ばれる。
妻はとても不安そうな顔をしていたが、当の私は他人事の様に冷めていた。
死ぬ事をどうも思っていない。
諦めがつき、投げやりになっていたのかもしれない。

手術は8時間に及んだらしい。(私は寝ていただけなのであまり実感は無かったが。)
医者の話によると手術後に意識が戻るかも怪しかったらしいが、結果的な私はまたしても生還を果たした。
しかし、やはり肉体は限界であったらしい。
今後、おそらく私は死ぬまで寝たきりだろう。

前の時と違い、もう身体を動かす気力も起きなければそもそも意識だっていつ途切れてもおかしい。
(私は何故生きなきゃいけないのだろうか。)
妻を残して死ぬのは心残りだが私ももう寿命なのだ。抗ってまで生きる理由は無いだろう。

何故私はまだ生かされるのだろう?
その疑問が拭えないまま私は退院する事になった。妻も私も高齢の為、病院に都度通うのは難しい。結果、自宅で介護となった。
医者には定期的に自宅に来てもらい、診察を受けることになる。

本当は自宅ではなく、病院にずっと入院しているのが良いのだろうが、妻が自宅介護を引き受けると言ってくれた。こんな手のかかる老人を今までも、そしてこれからも面倒を見てくれる妻には頭が上がらない。
不満だらけの人生だったが、妻に出会えた事だけが私の唯一の幸せである。

自宅介護が始まった。
私の身体は殆どもう動かない。
そんな私を妻は甲斐甲斐しく介護してくれた。そんな妻を見て心から私は申し訳なく思った。食事や筋肉が硬直しない為のマッサージは勿論、排泄の処理や身体を清潔にするのも欠かさずしてくれた。

自分では何もできない。
そんな生活が5年も続いた。
流石にこの頃になると妻も段々溜息が増えてきた気がする。
当たり前である。歳を重ねるのは私だけではない。そして歳を重ね、身体が動かない私も未だ死ぬ様子もない。

※次回更新は5/25(土)になります。
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