1 / 3
第1話 アメノウズメ
しおりを挟む
姉は、よく笑う人だった。何か嬉しい事があろうとなかろうと、いつでも明るく笑っていた。顔見知りしかいないような過疎の街で生まれ育った姉は、巷ではまるでアメノウズメの様だと囁かれていた。
そんな姉への対抗心、と言うわけではないが、人付き合いの下手な私は精一杯の努力をその一点に注ぐ。最も、何か得られたかと言われて仕舞えばそれまでなのだが。
当然か。笑顔の神と揶揄された逸材に凡作が近づこうなど、無駄に等しいと。私はそう、諦めて吐き捨てた。
※
「直姉、弁当忘れてる」
窓から鋭利に差し込む朝の陽が時計のアクリルを反射して、八時の十分だか二十分だかを不確定に表す。昨年高校を卒業し、そのままに職を手につける十九の女が慌ただしく一人。使い古された弁当箱をトートバッグに詰め込み、玄関へ向かう。
「ありがとーマガリ、んじゃいってきます‼︎」
「ん、いってら」
波ヶ咲直の顔は、今日もアメノウズメだった。高校三年の年にしばらく家を空け、資格だのなんだのを手にした彼女は現在街の役場に勤めているらしい。心配をかけたくないのだろうか、身内のマガリにさえ詳しいことはあまり話してくれないが、新たな生活の環境にはまだ慣れないのだろう。
だというのに、その笑顔はいつもと変わらず姿を保ち続けていた。マガリはいつしかその姿を自身に重ねたいと願ってみたが、やはり届かぬと投げ捨てたのだ。
「……んじゃ、私も行ってくる」
高校二年目の、少し汚れが目立ち始めた制服。暑くも寒くもない秋の気象に当てられて、マガリはどっちつかずなセーターを纏った。少しざらつく玄関の床に陣取った鞄を持ち上げてから、母へ向けて笑う。
どうせ、姉とは雲泥の笑顔だろう。そう、自嘲した。
教室は、狭いひとつの箱。人口の過疎という原因から二十人ほどしか居ないが、通常は二倍までもがこの狭い箱に押し込められるというのだ。小さな椅子に収まる今でさえ、彼女は窮屈を感じている。
それぞれが、等間隔に詰められるように。よく聞いた簡素な不協和音が、この場の人間を統制する。一日の始まりを告げた単純の音色は、二十秒程度を支配して去っていった。
軋む戸の開く音と共に、いつもの姿が姿を見せる。しかし何故か。その光景に一つ、いつもと非なる存在を携えていた。その光景へと、整えられた静寂は揺らぐ。
転校生、というやつだろうか。通常なら、学期の初日に現れるであろう存在が特に何か特別など無いような今日に姿を見せていた。
特徴的に、雪景色に似た銀のセミロングを揺らして笑う。その顔も、アメノウズメには届かないか、などと。名も知らぬ人を評価しようなど、陰湿な思考が過ったことに、マガリは首を振る。
高い声、担任に促されるよう向き直る銀の少女はゆっくりと口を開いた。淡々と、素性を語る。
「黒柴阿弥陀です。短い間ですが、どうかよろしくお願いします」
加え、家庭の事情により長くは滞在できないと語った。転勤族というやつだろうか、なんでも無いような日に現れたのも、少しは納得だった。しかし、この過疎地域に何の用があるのか。卑下するつもりはなくとも、ここがそうと語って相違ないドがつくほどの田舎である事は明白である。
夏休みが明けてから一か月ほどが経ったか。堕落した生活に魅入られたマガリの身体は平凡な一日の生活にすらも悲鳴をあげ、身体中の関節がぴきぴきと泣いている。無論、一向に元の生活に戻れそうな気はしていない。
机横に吊るされ、だるだると今にも千切れそうな鞄へと、手を伸ばす。眠気に目を擦りながら、マガリは外の空気を求める。
「ねぇ、あなた」
背後から、語る声。本日の印象を掻っ攫った人物、黒柴阿弥陀が少し鋭利な声をマガリへ向ける。
「はい……?」
「波ヶ咲さん……だよね。それじゃあ行きましょう」
咄嗟の言葉に、マガリの理解など遠く及ばず。疑念を垂れ流す間など与えられることもなく、黒柴阿弥陀はマガリの腕を握り歩みを進めた。
「ちょ……何、なんですか……⁉︎」
「何って、本部から聞いてるでしょう?」
言葉の真意を理解できないまま、疑念を垂れ流して脱出を試みる。しかし、一端の少女とは思えない力がマガリを拘束して離れなかったのだ。
一切の理解も及ばぬまま、マガリの脳はあれでもないこれでもないと唸りを溢す。おかしな奴と思われただろうか、などと、考えるよりも先に、自体を飲み込めないばかりだった。
いつしか辿り着いた旧校舎の薄汚れた床を軋ませて、薄暗い光景に視界を向ける。周囲に人間が黒柴阿弥陀のみとなった頃、ようやく、マガリは声帯に踏ん切りがついた。
黒柴阿弥陀、不思議な少女に、おそらく人違いと告げるよう息を吐く。
「あ、あの‼︎多分人違いじゃないですか⁉︎ほんとに何も知らないし、確かに波ヶ咲は私しかいませんけど……」
想像以上に、大きな音を反響させた。その声は、彼女がマガリに向けた第一印象を狂わせたようだ。
「え、どういうこと……」
「こっちのセリフですよ……」
ゆるりと離れていく黒柴阿弥陀の掌。その圧迫から解放された右腕は、拍子抜けしたようにぶらぶらと揺れる。マガリは困惑する彼女の表情に向けて首を傾げ、何故か苦笑いを溢した。
「それじゃあ、失礼しますね」
「あっ……ちょっと‼︎」
振り返り、来た道を視界に。相変わらず軋む床に不穏を覚えて、蜘蛛の巣が張った角を曲がる。すると、何やら黒い障壁がマガリの進行を妨げていた。先程まで存在しなかった謎の行き止まりに、またしても疑念のまま首を動かす。
三十五度くらい上の景色。てかてかと黒光りする障壁の上層に、幾重とも重なる異形の唇が佇む。直に植え付けられた瞼のない眼球が十、二十と、数えることも放棄させる姿。
ひゅっ、と、喉の奥を中心に、マガリの全身が凍る。どんな本や液晶の中でも見たことのないような、明らかなる創作でないとあり得ないこの世のバグめいた存在がマガリを見下ろしていた。人間、いざという時に声は出ないものだ。本当なら、声帯が千切れる程までに叫んでいてもおかしくはない。
などと脳内がぐちゃぐちゃと荒れ狂う最中の瞬間、マガリの視界を遮るようにして立ちはだかる黒の異形が吹き飛び、後方のアルミ扉に衝突した。
衝撃は、古き良き旧校舎を震わせた。いつの間にか白の装束に包まれた黒柴阿弥陀が現れる。彼女が異形を殴り飛ばしたのだろうか。
「あなた、本当に祓じゃないの⁉︎」
差し込んだ夕の光に照らされた黒柴阿弥陀は、左の手を差し出す。マガリは迷いなく、一言を発することすら恐れたままにその手を借りて立ち上がった。
祓。彼女の語る単語が何を意味するのか。そして、何が起きたのか。一切の理解は、未だ出来ない。
ふと、マガリは視界を逆の方向へ。かつて一度たりとも耳にしたことのないような、狂ったような嗚咽が、そちらの方向から耳をジリジリと軋ませる。
先程の黒壁と、幼児に似た形態の黒い塊。七だか八だか、その数が段々と二人へ迫る。学校の七不思議をバカに出来そうな容姿をした怪物の群れに、はっとした瞬間からマガリの喉が恐怖に震える。
「いやっ……何な何何これ⁉︎」
いつしか機能を失った脚を無理やりに叩き起こし、走る。マガリの脳は語りかけるのだ、今すぐこの場から逃げろと、命の危機だと。
「ちょっと、勝手に動いたら危な……‼︎」
黒柴阿弥陀の忠告が飛ぶ最中、マガリは脱出口を求めて近くの『旧二年四組』の扉に手を掛ける。勢い良く開け放ち、その先に見えた窓へと飛び込むために、前傾姿勢でアルミサッシを飛び越えた。
が、何故か。教室へ踏み入れたマガリの爪先は、意味もわからないまま土を踏み締めていた。乾きに乾いた、栄養の行き届かない腐敗の土である。さも当然と言わんばかりに、その光景に教室らしき姿は一つすらも存在しなかった。
「……は?」
荒廃した世界の先は延々と、粘度を帯びた汚い油のような空に支配されている。朽ち果てたビルの残骸や、いびつに歪む鉄骨の群れが気味悪く聳える。
そんな光景に意味も分からず、一呼吸。マガリは空気を鼻から体内へ、その刹那、壮絶な拒否反応が五感を蝕んだ。
その場の土へ座り込むようにして、唇に手を。言葉にならない嫌な感覚が、昼食の有象無象を外へ追い出そうと試みているらしい。無惨にも、マガリを包む制服は吐瀉物に塗れて黄ばんでゆく。
「ゔぇっ……ゔぇぇ」
マガリの普段の生活では、嘔吐など伴わない健康を過ごしていた。久しい逆流に、酸の香りに、催促されるようにしてスカートを染める。舌の先からぼたぼたと、米粒を捻り落とした。
ふと顔を上げ、マガリは虚虚の意識に歪む視界の先を捉える。そこには、先ほどと同じ黒の異形がぼやけた視界に映り込んでいた。見間違いなどでは無い。明らかに、そこに存在しているのだ。先程まで居たはずの旧校舎どころか、もはや現実世界なのかすら疑わしい光景に、ただ夢ならばと願っていた。
まるで地獄のような空気に侵されたマガリの身体は動くことを拒否しているようだが、一心に立ち上がり走れと歯を軋ませた。しかし、そんな事では汚物まみれの身体は言うことを聞かない。
錯誤するマガリを捉えたようで、段々と異形は迫る。赤子のような塊、無数の眼と層を重ねる唇、蛇に似た姿。どれもが、吸い込まれそうな漆黒を携えていた。
結局、マガリの身体は行動を放棄したようで、迫る異形との接触へと至る。座り込んで動かない身体を登るよう、赤子の拙い手で肌が圧迫されていく。絡みつく蛇は螺旋を描きながら、胴をクルクルとよじ登る。
恐怖、またしても声帯までもが動きを止めた。どうしようもないままに、マガリは漆黒の肉の群れに溺れていく。
途切れかけた意識の中、呼吸を諦めた身体が、途端に軽くなる。視界の漆黒が弾け、マガリを蝕んでいた諸々が形を失ったのだ。
「……リ、大丈夫⁉︎」
両肩を掴まれ、揺らされる感覚。脳が揺れ、もう一度、正常へと意識が移行していた。眼前の顔、その笑顔に、彼女は安堵か何かを得たのだろうか。
見たこともない、服とも言えない何かに身を包んだ、その顔。笑顔で手を振り、今朝以来の再会である。
波ヶ咲直。焦りに任せた顔が、ゆっくりと微笑に変わる。相も変わらず、アメノウズメである。
「直姉……なんで……」
「それは後で、とにかく帰るよ‼︎」
波ヶ咲直は吐瀉物まみれのマガリを抱え、走り出す。ここがどこなのか。どこを目指しているのか。それすらもわからないまま、ただひたすらに、淀んだ空気を進んでいく。
ふと、マガリの視界がゆらりと歪む。その中心から、波ヶ咲直と同じ格好をした黒柴阿弥陀が現れた。
「波ヶ咲さん‼︎」
駆け寄る黒柴阿弥陀の切羽詰まった表情と、乱れた髪の毛。旧校舎の異形と戦っていたのだろうか。
「ん、マガリの友達?」
「そう……かも?」
マガリは掠れた声で、二つ返事を投げる。未だ何一つ飲み込めない状況では、仕方ないだろう。そんな事を考えながら、波ヶ咲直に抱えられた身体をずり落ちるよう重力をなぞり、ゆっくりと、マガリは自分の脚で身体を支えた。
「そっか。んーじゃ、マガリはとりあえず現界に……」
ぱっ、と。違和感すら感じさせない瞬間の出来事だった。
先程までマガリの身体を抱えていた、波ヶ咲直の右腕が根本から消滅した。少し遠くの土に転がっていた、先程までなかったものが何なのかを理解するまで零点四秒も掛からなかっただろう。
「……マガリ連れて逃げてくれ」
波ヶ咲直の一言。黒柴阿弥陀は、汗に塗れて、数分前と同じようにしてマガリの腕を握る。踵を返し、走り出した。
「なっ……直姉⁉︎」
「喋らないで‼︎舌噛むよ‼︎」
遠ざかる視界の向こう側。立ち尽くした、四肢が三肢になった姿を覆うようにして、巨大な異形が地から生えてくる。巨大な影に、波ヶ咲直の腕を切断したのは奴だと瞬間的に悟る。
ふと、波ヶ咲直は走り去る二人の方向を向いた。残った一本の腕を向け、ピースサインを示している。
ただしっかりと。彼女の顔は、アメノウズメだった。
そんな姉への対抗心、と言うわけではないが、人付き合いの下手な私は精一杯の努力をその一点に注ぐ。最も、何か得られたかと言われて仕舞えばそれまでなのだが。
当然か。笑顔の神と揶揄された逸材に凡作が近づこうなど、無駄に等しいと。私はそう、諦めて吐き捨てた。
※
「直姉、弁当忘れてる」
窓から鋭利に差し込む朝の陽が時計のアクリルを反射して、八時の十分だか二十分だかを不確定に表す。昨年高校を卒業し、そのままに職を手につける十九の女が慌ただしく一人。使い古された弁当箱をトートバッグに詰め込み、玄関へ向かう。
「ありがとーマガリ、んじゃいってきます‼︎」
「ん、いってら」
波ヶ咲直の顔は、今日もアメノウズメだった。高校三年の年にしばらく家を空け、資格だのなんだのを手にした彼女は現在街の役場に勤めているらしい。心配をかけたくないのだろうか、身内のマガリにさえ詳しいことはあまり話してくれないが、新たな生活の環境にはまだ慣れないのだろう。
だというのに、その笑顔はいつもと変わらず姿を保ち続けていた。マガリはいつしかその姿を自身に重ねたいと願ってみたが、やはり届かぬと投げ捨てたのだ。
「……んじゃ、私も行ってくる」
高校二年目の、少し汚れが目立ち始めた制服。暑くも寒くもない秋の気象に当てられて、マガリはどっちつかずなセーターを纏った。少しざらつく玄関の床に陣取った鞄を持ち上げてから、母へ向けて笑う。
どうせ、姉とは雲泥の笑顔だろう。そう、自嘲した。
教室は、狭いひとつの箱。人口の過疎という原因から二十人ほどしか居ないが、通常は二倍までもがこの狭い箱に押し込められるというのだ。小さな椅子に収まる今でさえ、彼女は窮屈を感じている。
それぞれが、等間隔に詰められるように。よく聞いた簡素な不協和音が、この場の人間を統制する。一日の始まりを告げた単純の音色は、二十秒程度を支配して去っていった。
軋む戸の開く音と共に、いつもの姿が姿を見せる。しかし何故か。その光景に一つ、いつもと非なる存在を携えていた。その光景へと、整えられた静寂は揺らぐ。
転校生、というやつだろうか。通常なら、学期の初日に現れるであろう存在が特に何か特別など無いような今日に姿を見せていた。
特徴的に、雪景色に似た銀のセミロングを揺らして笑う。その顔も、アメノウズメには届かないか、などと。名も知らぬ人を評価しようなど、陰湿な思考が過ったことに、マガリは首を振る。
高い声、担任に促されるよう向き直る銀の少女はゆっくりと口を開いた。淡々と、素性を語る。
「黒柴阿弥陀です。短い間ですが、どうかよろしくお願いします」
加え、家庭の事情により長くは滞在できないと語った。転勤族というやつだろうか、なんでも無いような日に現れたのも、少しは納得だった。しかし、この過疎地域に何の用があるのか。卑下するつもりはなくとも、ここがそうと語って相違ないドがつくほどの田舎である事は明白である。
夏休みが明けてから一か月ほどが経ったか。堕落した生活に魅入られたマガリの身体は平凡な一日の生活にすらも悲鳴をあげ、身体中の関節がぴきぴきと泣いている。無論、一向に元の生活に戻れそうな気はしていない。
机横に吊るされ、だるだると今にも千切れそうな鞄へと、手を伸ばす。眠気に目を擦りながら、マガリは外の空気を求める。
「ねぇ、あなた」
背後から、語る声。本日の印象を掻っ攫った人物、黒柴阿弥陀が少し鋭利な声をマガリへ向ける。
「はい……?」
「波ヶ咲さん……だよね。それじゃあ行きましょう」
咄嗟の言葉に、マガリの理解など遠く及ばず。疑念を垂れ流す間など与えられることもなく、黒柴阿弥陀はマガリの腕を握り歩みを進めた。
「ちょ……何、なんですか……⁉︎」
「何って、本部から聞いてるでしょう?」
言葉の真意を理解できないまま、疑念を垂れ流して脱出を試みる。しかし、一端の少女とは思えない力がマガリを拘束して離れなかったのだ。
一切の理解も及ばぬまま、マガリの脳はあれでもないこれでもないと唸りを溢す。おかしな奴と思われただろうか、などと、考えるよりも先に、自体を飲み込めないばかりだった。
いつしか辿り着いた旧校舎の薄汚れた床を軋ませて、薄暗い光景に視界を向ける。周囲に人間が黒柴阿弥陀のみとなった頃、ようやく、マガリは声帯に踏ん切りがついた。
黒柴阿弥陀、不思議な少女に、おそらく人違いと告げるよう息を吐く。
「あ、あの‼︎多分人違いじゃないですか⁉︎ほんとに何も知らないし、確かに波ヶ咲は私しかいませんけど……」
想像以上に、大きな音を反響させた。その声は、彼女がマガリに向けた第一印象を狂わせたようだ。
「え、どういうこと……」
「こっちのセリフですよ……」
ゆるりと離れていく黒柴阿弥陀の掌。その圧迫から解放された右腕は、拍子抜けしたようにぶらぶらと揺れる。マガリは困惑する彼女の表情に向けて首を傾げ、何故か苦笑いを溢した。
「それじゃあ、失礼しますね」
「あっ……ちょっと‼︎」
振り返り、来た道を視界に。相変わらず軋む床に不穏を覚えて、蜘蛛の巣が張った角を曲がる。すると、何やら黒い障壁がマガリの進行を妨げていた。先程まで存在しなかった謎の行き止まりに、またしても疑念のまま首を動かす。
三十五度くらい上の景色。てかてかと黒光りする障壁の上層に、幾重とも重なる異形の唇が佇む。直に植え付けられた瞼のない眼球が十、二十と、数えることも放棄させる姿。
ひゅっ、と、喉の奥を中心に、マガリの全身が凍る。どんな本や液晶の中でも見たことのないような、明らかなる創作でないとあり得ないこの世のバグめいた存在がマガリを見下ろしていた。人間、いざという時に声は出ないものだ。本当なら、声帯が千切れる程までに叫んでいてもおかしくはない。
などと脳内がぐちゃぐちゃと荒れ狂う最中の瞬間、マガリの視界を遮るようにして立ちはだかる黒の異形が吹き飛び、後方のアルミ扉に衝突した。
衝撃は、古き良き旧校舎を震わせた。いつの間にか白の装束に包まれた黒柴阿弥陀が現れる。彼女が異形を殴り飛ばしたのだろうか。
「あなた、本当に祓じゃないの⁉︎」
差し込んだ夕の光に照らされた黒柴阿弥陀は、左の手を差し出す。マガリは迷いなく、一言を発することすら恐れたままにその手を借りて立ち上がった。
祓。彼女の語る単語が何を意味するのか。そして、何が起きたのか。一切の理解は、未だ出来ない。
ふと、マガリは視界を逆の方向へ。かつて一度たりとも耳にしたことのないような、狂ったような嗚咽が、そちらの方向から耳をジリジリと軋ませる。
先程の黒壁と、幼児に似た形態の黒い塊。七だか八だか、その数が段々と二人へ迫る。学校の七不思議をバカに出来そうな容姿をした怪物の群れに、はっとした瞬間からマガリの喉が恐怖に震える。
「いやっ……何な何何これ⁉︎」
いつしか機能を失った脚を無理やりに叩き起こし、走る。マガリの脳は語りかけるのだ、今すぐこの場から逃げろと、命の危機だと。
「ちょっと、勝手に動いたら危な……‼︎」
黒柴阿弥陀の忠告が飛ぶ最中、マガリは脱出口を求めて近くの『旧二年四組』の扉に手を掛ける。勢い良く開け放ち、その先に見えた窓へと飛び込むために、前傾姿勢でアルミサッシを飛び越えた。
が、何故か。教室へ踏み入れたマガリの爪先は、意味もわからないまま土を踏み締めていた。乾きに乾いた、栄養の行き届かない腐敗の土である。さも当然と言わんばかりに、その光景に教室らしき姿は一つすらも存在しなかった。
「……は?」
荒廃した世界の先は延々と、粘度を帯びた汚い油のような空に支配されている。朽ち果てたビルの残骸や、いびつに歪む鉄骨の群れが気味悪く聳える。
そんな光景に意味も分からず、一呼吸。マガリは空気を鼻から体内へ、その刹那、壮絶な拒否反応が五感を蝕んだ。
その場の土へ座り込むようにして、唇に手を。言葉にならない嫌な感覚が、昼食の有象無象を外へ追い出そうと試みているらしい。無惨にも、マガリを包む制服は吐瀉物に塗れて黄ばんでゆく。
「ゔぇっ……ゔぇぇ」
マガリの普段の生活では、嘔吐など伴わない健康を過ごしていた。久しい逆流に、酸の香りに、催促されるようにしてスカートを染める。舌の先からぼたぼたと、米粒を捻り落とした。
ふと顔を上げ、マガリは虚虚の意識に歪む視界の先を捉える。そこには、先ほどと同じ黒の異形がぼやけた視界に映り込んでいた。見間違いなどでは無い。明らかに、そこに存在しているのだ。先程まで居たはずの旧校舎どころか、もはや現実世界なのかすら疑わしい光景に、ただ夢ならばと願っていた。
まるで地獄のような空気に侵されたマガリの身体は動くことを拒否しているようだが、一心に立ち上がり走れと歯を軋ませた。しかし、そんな事では汚物まみれの身体は言うことを聞かない。
錯誤するマガリを捉えたようで、段々と異形は迫る。赤子のような塊、無数の眼と層を重ねる唇、蛇に似た姿。どれもが、吸い込まれそうな漆黒を携えていた。
結局、マガリの身体は行動を放棄したようで、迫る異形との接触へと至る。座り込んで動かない身体を登るよう、赤子の拙い手で肌が圧迫されていく。絡みつく蛇は螺旋を描きながら、胴をクルクルとよじ登る。
恐怖、またしても声帯までもが動きを止めた。どうしようもないままに、マガリは漆黒の肉の群れに溺れていく。
途切れかけた意識の中、呼吸を諦めた身体が、途端に軽くなる。視界の漆黒が弾け、マガリを蝕んでいた諸々が形を失ったのだ。
「……リ、大丈夫⁉︎」
両肩を掴まれ、揺らされる感覚。脳が揺れ、もう一度、正常へと意識が移行していた。眼前の顔、その笑顔に、彼女は安堵か何かを得たのだろうか。
見たこともない、服とも言えない何かに身を包んだ、その顔。笑顔で手を振り、今朝以来の再会である。
波ヶ咲直。焦りに任せた顔が、ゆっくりと微笑に変わる。相も変わらず、アメノウズメである。
「直姉……なんで……」
「それは後で、とにかく帰るよ‼︎」
波ヶ咲直は吐瀉物まみれのマガリを抱え、走り出す。ここがどこなのか。どこを目指しているのか。それすらもわからないまま、ただひたすらに、淀んだ空気を進んでいく。
ふと、マガリの視界がゆらりと歪む。その中心から、波ヶ咲直と同じ格好をした黒柴阿弥陀が現れた。
「波ヶ咲さん‼︎」
駆け寄る黒柴阿弥陀の切羽詰まった表情と、乱れた髪の毛。旧校舎の異形と戦っていたのだろうか。
「ん、マガリの友達?」
「そう……かも?」
マガリは掠れた声で、二つ返事を投げる。未だ何一つ飲み込めない状況では、仕方ないだろう。そんな事を考えながら、波ヶ咲直に抱えられた身体をずり落ちるよう重力をなぞり、ゆっくりと、マガリは自分の脚で身体を支えた。
「そっか。んーじゃ、マガリはとりあえず現界に……」
ぱっ、と。違和感すら感じさせない瞬間の出来事だった。
先程までマガリの身体を抱えていた、波ヶ咲直の右腕が根本から消滅した。少し遠くの土に転がっていた、先程までなかったものが何なのかを理解するまで零点四秒も掛からなかっただろう。
「……マガリ連れて逃げてくれ」
波ヶ咲直の一言。黒柴阿弥陀は、汗に塗れて、数分前と同じようにしてマガリの腕を握る。踵を返し、走り出した。
「なっ……直姉⁉︎」
「喋らないで‼︎舌噛むよ‼︎」
遠ざかる視界の向こう側。立ち尽くした、四肢が三肢になった姿を覆うようにして、巨大な異形が地から生えてくる。巨大な影に、波ヶ咲直の腕を切断したのは奴だと瞬間的に悟る。
ふと、波ヶ咲直は走り去る二人の方向を向いた。残った一本の腕を向け、ピースサインを示している。
ただしっかりと。彼女の顔は、アメノウズメだった。
0
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる