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第2話 苦渋の帰還
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黒柴阿弥陀に身体を抱え込まれたまま、掌を伸ばすも無駄と。ただひたすらに、緊迫した黒柴阿弥陀の心臓から、マガリに触れ合う肌を伝って震えていた。
恐らく、マガリは何処かで察していた。波ヶ咲直の仕草、そしてその顔を、二度と見ることはできないという事。一生の別れ故に、彼女が見せた笑顔である事を。
嗚咽にもならない掠れた声帯が、無理やりに酸っぱい味を落としてゆく。一心不乱に揺れるマガリの視界は溢れた涙で能力を失ったようで、うつろうつろと崩壊した世界を歪ませている。もう、瞼を開いている事にすら、疲れを感じてしまったのだ。
汚泥を煮詰めたような空気を吐き捨て、あらゆる器官が活発に行動を始めた。ゆっくりと爪先が地に触れた事で、状況への理解へとマガリの脳が回転する。
見慣れた旧校舎の傍ら、土と蜘蛛の巣に蝕まれた百葉箱が佇む。きぃ、と、弱々しい金属の擦れる音が響いていた。本来目にする事のない、その箱の中身が露わになっていたのだ。
しかし、百葉箱とは、気温湿度といった事柄を計測する機械を雨などから守るためのもの。これといって、不可思議な物が入っているわけではない。
無駄な思考へ、マガリは頭を横に振る。何故、百葉箱の扉が開け放たれているのか。そんな事はどうでも良いのだ。隣でへたり込むよう息を荒くする黒柴阿弥陀へ、ゆっくりと、揺れる肩に触れた。いつしか、彼女の姿は制服へと戻っていた。
「黒柴、さん‼︎」
はっ。と、身体をびくりと震わせて黒柴阿弥陀はマガリへ目を向ける。依然、呼吸は荒い。
「……よかった、無事だった……‼︎」
マガリの安否を視認した黒柴阿弥陀は、一息を地に落として大きく深呼吸へと移る。ゆっくりと立ち上がり、制服の土を払ったのちにマガリへ手を差し出した。
「あの、直姉……さっきのあの人、どうなって……えっと、何がなんだか……‼︎」
一瞬、彼女の呼吸が固まった。視線を逸らすようにして、沈黙を述べる。マガリが差し出された手に迷いなく触れ、立ちあがろうと試みる最中、彼女の手は小刻みに震えていた。
「……あの人は、あなたを逃すために囮になったの」
恐らく、黒柴阿弥陀の語る何らかの組織に、波ヶ咲直は属していたのだろう。足手纏いのマガリを生かすため、波ヶ咲直は自己犠牲を選んだと言う。
「そ、それじゃあ今からでも助けに……」
「……今の私が行っても何もできない。それに、今の私がすべき事は、あなたを無事に逃す事だから」
苦虫を潰すような表情に、マガリはこれ以上何か言葉を投げつける事は出来なかった。本当なら、姉を見殺しにしたと声を荒げていたかもしれない。しかし、その言葉を汲み全力でマガリの安否に汗を流してくれたのだ。責め立てることなど出来ない。
黒柴阿弥陀は深々と頭を下げる。ただ、足手纏いがあの場に居ようが居まいが、どちらにせよ波ヶ咲直は黒柴阿弥陀を逃すために同じ道を選んだとマガリは思う。マガリにとって長年を共に生きてきた波ヶ咲直の考える事など、手に取るように分かる。
そんな受け入れ難い現実の眼前に、マガリは脳に軋むような衝撃を得た。黒柴阿弥陀の手を借りて立ち上がった身体は、膝から崩れるようにして再び土へ臥す。
遠のく意識、煮え切らない感情の整理を跳ね除けるようにして、頭の中が真っ黒に染まってゆく。倒れ込む身を揺さぶり、緊迫の形相で語りかける黒柴阿弥陀の姿すらも、マガリは捉える事が出来なくなっていた。
※
夕暮れは姿を顰めたようで、窓の外にはただ明確な闇の景色だけが広がっている。少し肌寒く感じる季節の入り口に、分厚い布団を暑苦しいと跳ね除けた。
マガリは覚えのない風景に、記憶を呼び覚ます。耐え難いような一連の出来事は、全て夢か。一つ落とした溜息は、受け入れたくないと嘆く諦めの悪い理想である。
ひとまずの状況を探り、視界を回す。床に敷かれた布団以外何もない、牢獄のような部屋だった。マガリは薄暗い中を立ち上がり、ぼんやりと捉えたドアノブを目指す。流石に鍵をかけられて監禁、なんて事はないだろう。
冷たい鉄を捻ると同時に、ゆっくりと差し込んだ光を浴びる。廊下へ出てみると、少し古めかしい木造の風景が飛び込んできた。急な階段を降りて、状況を探る。マガリは今尚、本当に何が何だか分かっていないのだ。現実離れした異形との遭遇、そして姉の死。何もかも、御伽噺であれと歯を軋ませるばかりである。
一階へと降り立った視界には、ごく一般的な家庭の、何の変哲もない光景。開け放たれたままの扉から、淡々とプロ野球の中継実況が垂れ流されていた。
「っしゃ北島打てよ⁉︎絶対打てよお前マジで‼︎」
「もう、お姉ちゃんうるさい‼︎」
齧り付くよう、映し出されたマウントに叫ぶ一人の女性。二十代後半といったところか、試合の動向に熱烈な感情をぶつけていた。そしてその姿へ、呆れたような声を向ける黒柴阿弥陀。ひとまず、出会って時間が浅いながらも見知った顔を発見した事に、マガリは安堵を漏らした。
ふと、野球中継がコマーシャルへと変わる。興が削がれたと言わんばかりの女性が気配に気付いた様で、ゆっくりと視線がマガリを向いた。
「お、起きた?」
「あ……えっと、はい」
女性はテレビのリモコンを手に取り、電源を落とす。静寂の中に立ち上がり、立ち尽くすマガリを凝視していた。
「……まぁなんだ、とりあえず風呂でも入ってきな。また倒れたらいけねえし、阿弥陀も一緒に」
「ん。じゃあ行こうか、波ヶ咲さん」
言われるがままに、後ろで縛った髪を解く黒柴阿弥陀。その姿に連れられ、数歩先の脱衣所へと向かう。
恐らく、マガリは何処かで察していた。波ヶ咲直の仕草、そしてその顔を、二度と見ることはできないという事。一生の別れ故に、彼女が見せた笑顔である事を。
嗚咽にもならない掠れた声帯が、無理やりに酸っぱい味を落としてゆく。一心不乱に揺れるマガリの視界は溢れた涙で能力を失ったようで、うつろうつろと崩壊した世界を歪ませている。もう、瞼を開いている事にすら、疲れを感じてしまったのだ。
汚泥を煮詰めたような空気を吐き捨て、あらゆる器官が活発に行動を始めた。ゆっくりと爪先が地に触れた事で、状況への理解へとマガリの脳が回転する。
見慣れた旧校舎の傍ら、土と蜘蛛の巣に蝕まれた百葉箱が佇む。きぃ、と、弱々しい金属の擦れる音が響いていた。本来目にする事のない、その箱の中身が露わになっていたのだ。
しかし、百葉箱とは、気温湿度といった事柄を計測する機械を雨などから守るためのもの。これといって、不可思議な物が入っているわけではない。
無駄な思考へ、マガリは頭を横に振る。何故、百葉箱の扉が開け放たれているのか。そんな事はどうでも良いのだ。隣でへたり込むよう息を荒くする黒柴阿弥陀へ、ゆっくりと、揺れる肩に触れた。いつしか、彼女の姿は制服へと戻っていた。
「黒柴、さん‼︎」
はっ。と、身体をびくりと震わせて黒柴阿弥陀はマガリへ目を向ける。依然、呼吸は荒い。
「……よかった、無事だった……‼︎」
マガリの安否を視認した黒柴阿弥陀は、一息を地に落として大きく深呼吸へと移る。ゆっくりと立ち上がり、制服の土を払ったのちにマガリへ手を差し出した。
「あの、直姉……さっきのあの人、どうなって……えっと、何がなんだか……‼︎」
一瞬、彼女の呼吸が固まった。視線を逸らすようにして、沈黙を述べる。マガリが差し出された手に迷いなく触れ、立ちあがろうと試みる最中、彼女の手は小刻みに震えていた。
「……あの人は、あなたを逃すために囮になったの」
恐らく、黒柴阿弥陀の語る何らかの組織に、波ヶ咲直は属していたのだろう。足手纏いのマガリを生かすため、波ヶ咲直は自己犠牲を選んだと言う。
「そ、それじゃあ今からでも助けに……」
「……今の私が行っても何もできない。それに、今の私がすべき事は、あなたを無事に逃す事だから」
苦虫を潰すような表情に、マガリはこれ以上何か言葉を投げつける事は出来なかった。本当なら、姉を見殺しにしたと声を荒げていたかもしれない。しかし、その言葉を汲み全力でマガリの安否に汗を流してくれたのだ。責め立てることなど出来ない。
黒柴阿弥陀は深々と頭を下げる。ただ、足手纏いがあの場に居ようが居まいが、どちらにせよ波ヶ咲直は黒柴阿弥陀を逃すために同じ道を選んだとマガリは思う。マガリにとって長年を共に生きてきた波ヶ咲直の考える事など、手に取るように分かる。
そんな受け入れ難い現実の眼前に、マガリは脳に軋むような衝撃を得た。黒柴阿弥陀の手を借りて立ち上がった身体は、膝から崩れるようにして再び土へ臥す。
遠のく意識、煮え切らない感情の整理を跳ね除けるようにして、頭の中が真っ黒に染まってゆく。倒れ込む身を揺さぶり、緊迫の形相で語りかける黒柴阿弥陀の姿すらも、マガリは捉える事が出来なくなっていた。
※
夕暮れは姿を顰めたようで、窓の外にはただ明確な闇の景色だけが広がっている。少し肌寒く感じる季節の入り口に、分厚い布団を暑苦しいと跳ね除けた。
マガリは覚えのない風景に、記憶を呼び覚ます。耐え難いような一連の出来事は、全て夢か。一つ落とした溜息は、受け入れたくないと嘆く諦めの悪い理想である。
ひとまずの状況を探り、視界を回す。床に敷かれた布団以外何もない、牢獄のような部屋だった。マガリは薄暗い中を立ち上がり、ぼんやりと捉えたドアノブを目指す。流石に鍵をかけられて監禁、なんて事はないだろう。
冷たい鉄を捻ると同時に、ゆっくりと差し込んだ光を浴びる。廊下へ出てみると、少し古めかしい木造の風景が飛び込んできた。急な階段を降りて、状況を探る。マガリは今尚、本当に何が何だか分かっていないのだ。現実離れした異形との遭遇、そして姉の死。何もかも、御伽噺であれと歯を軋ませるばかりである。
一階へと降り立った視界には、ごく一般的な家庭の、何の変哲もない光景。開け放たれたままの扉から、淡々とプロ野球の中継実況が垂れ流されていた。
「っしゃ北島打てよ⁉︎絶対打てよお前マジで‼︎」
「もう、お姉ちゃんうるさい‼︎」
齧り付くよう、映し出されたマウントに叫ぶ一人の女性。二十代後半といったところか、試合の動向に熱烈な感情をぶつけていた。そしてその姿へ、呆れたような声を向ける黒柴阿弥陀。ひとまず、出会って時間が浅いながらも見知った顔を発見した事に、マガリは安堵を漏らした。
ふと、野球中継がコマーシャルへと変わる。興が削がれたと言わんばかりの女性が気配に気付いた様で、ゆっくりと視線がマガリを向いた。
「お、起きた?」
「あ……えっと、はい」
女性はテレビのリモコンを手に取り、電源を落とす。静寂の中に立ち上がり、立ち尽くすマガリを凝視していた。
「……まぁなんだ、とりあえず風呂でも入ってきな。また倒れたらいけねえし、阿弥陀も一緒に」
「ん。じゃあ行こうか、波ヶ咲さん」
言われるがままに、後ろで縛った髪を解く黒柴阿弥陀。その姿に連れられ、数歩先の脱衣所へと向かう。
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