結婚5年目のお飾り妻は、空のかなたに消えることにした

三崎こはく

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1.カールトン家のお飾り妻

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「ラフィーナ。食事の前に、今日の分の仕事を済ませてしまうように」

 分厚い書類の束が、机の上に無造作に投げ捨てられた。
 ラフィーナは別の書類をめくっていた手を止め、うんざりとした眼差しで、書類を投げ捨てた男を見やった。黄金のように美しく輝く金色の髪と、サファイアを連想させるディープブルーの瞳。見た目だけは美しいその人物の名はジャン・カールトン辺境伯――ラフィーナの書類上の夫だ。

「……これだけの仕事を終わらせるには、まだ数時間はかかりますが」

 ラフィーナが時計を見ながら返事をすると、ジャンは失笑した。
 
「ならば食事の時間を遅らせればいいだろう。そんなこともわからないのか?」

 ラフィーナは悔しさに唇を噛む。時刻は21時をとうに回っている。現在とりかかっている仕事に加え、与えられた仕事まで終わらせるとすれば、時計の針は0時を優に超えてしまうだろう。
 それから冷めた食事をとり、入浴を済ませ、寝支度をととのえベッドに入る。今夜もまた、満足には眠れなさそうだ。

(本当ならこれらの仕事は全部、当主である貴方がしなければならないのよ……)

 ラフィーナの心の声は、ジャンに届くことはない。

 ◇

 ラフィーナが辺境伯であるカールトン家へと嫁いできたのは、今から5年前のことだった。
 
 カールトン家からの縁談が持ち込まれたとき、ラフィーナの両親はいたく喜んだ。
 辺境伯といえば、王国内では公爵家に次ぐ大貴族である。防衛のかなめである国境付近の警備を任されているがゆえだ。
 
 対照的にラフィーナの生家であるエニス家は、王国の山間に小さな領土を構える男爵家だ。貴族界では最下層の家柄であるだけに、政治界や社交界での発言権はないに等しい。
 
 だからこそエニス夫妻は、カールトン家から持ち込まれた縁談を二つ返事で受けた。結婚相手であるジャン・カールトン伯がどのような人物であるかを確認することもなく。
 ラフィーナは、ジャンが面識のない自分に縁談を申し込んできたことを不審に思ったが、両親の決定に逆らうことができなかった。

 驚くほどの早さで縁談は進み、ラフィーナはカールトン家へとやってきた。そして屋敷の扉をくぐるやいなや、ラフィーナは最悪な現実を思い知らされることとなった。
 扉の向こう側には結婚相手のジャンと、ラフィーナの知らない若い女性が、仲睦まじく腕を組んで立っていたのだから。

 ジャンは冷めた目でラフィーナを見つめながら言った。

『ラフィーナ、結婚生活を送るにあたり大切なことを伝えておく』
『何……でしょう……』
『私が愛しているのは隣にいるリリアだ。君は書類上の妻というだけで、夫婦らしいことをするつもりは一切ない』

 リリアと呼ばれた女性が、はかなげな仕草でジャンの肩にしなだれかかった。ふわふわとした栗色の栗色の髪を持つ愛らしい顔立ちの女性だった。年齢はラフィーナと同じくらいで、薄桃色のドレスからは女性らしいたおやかな手足が覗いていた。

 ラフィーナは頭が真っ白になって、それ以上何も言うことができなかった。貴族同士の結婚は、両家の繁栄を目的とした政略結婚が一般的だ。ラフィーナとて、ジャンとのあいだに恋人同士のような愛情を育もうとは思っていなかった。

 しかし、だからといってこんな状況を誰が予想しただろう。まさか結婚相手には愛人がいて、自分は仮初めの妻として選ばれたなんて。
 
 のちにラフィーナが聞いた話によれば、リリアは孤児院の生まれなのだという。慈善事業の一環として孤児院を訪れていたジャンが、まだ成人を迎えていなかったリリアに一目惚れした。
 ジャンは、リリアが成人を迎えると同時に身柄を引き取ったものの、貴族と平民の結婚は認められない。
 
 そこで世間を欺くために書類上だけの妻を迎え、愛人としてリリアをそばに置くことにした。白羽の矢が立ったのが、地位も権力も持たない男爵令嬢であるラフィーナということだ。

 あれから5年の月日が経った。
 リリアはまだ愛人としてジャンの隣にいて、ラフィーナの立場は書類上の妻のまま。この肩書きはこれから先も一生、変わることはない。

 ◇
 
「ふぅ……終わったわ……」

 ラフィーナが任された仕事を終え、一息をついたのは、もうすぐ日付をまたごうという頃だった。
 身体も脳味噌も疲れ果て、胃袋は痛いくらいに空腹を訴えている。シェフは眠っている時間だが、厨房に行けば冷めたスープくらいは残っているだろうか。
 
(毎日毎日、これの繰り返しだわ……こんな生活が続いたらいつか倒れてしまう)

 ラフィーナは疲労で痛む頭をさすった。
 
 カールトン家のメイドたちはみなラフィーナに冷たい。その理由は、屋敷の主であるジャンがラフィーナに冷たくあたるからだ。ラフィーナの機嫌をとっても利益などないことを知っている。
 だから身を粉にして働いていても食事を届けてもらえないし、コーヒーの一杯も淹れてもらえない。ジャンがラフィーナに、自分がするべき仕事を押しつけていても、咎める者は誰もいない。愛人であるリリアの存在も黙認されている。最悪な生活だ。

 ラフィーナがカールトン家にやってきた当初は、まだ味方になってくれるメイドがいた。ジャンが屋敷に愛人を置くことを咎めたり、ラフィーナに仕事を押しつけることを叱責したりするまともなメイドが数人はいたものだ。
 しかしそうした『ジャンの気に入らない』メイドたちは、この5年間の間にことごとく解雇されてしまった。残っているのはジャンの浮気と怠慢を咎めることのない従順なメイドばかり。ラフィーナの味方は一人とっしていないということだ。

 厨房で冷めたスープにありついたラフィーナは、寝支度を済ませベッドに倒れ込んだ。
 どんなに疲れていても、明日は太陽が昇るのと同時に起きなければならない。ジャンの代理人として、領土内にある修道施設を訪れる予定だからだ。
 それも本来なら、ジャンが自分でこなさなければならない仕事――なのだが。

(面倒な仕事は私にやらせて、自分は愛人リリアとのんびりする予定なんでしょうね……私は書類上の妻どころか、この家の奴隷だわ……)

 憂鬱とした思考を最後に、ラフィーナの意識は泥のような眠りに引き込まれていった。

 ◇

 翌朝、ラフィーナは予定どおりの時間に起床した。
 夢を見ることもないくらい深い眠りに就いていたというのに、身体はまだまだ休息がほしいと訴えている。そもそもの睡眠時間が足りていないのだ。

 身支度のために鏡を覗いた。やつれて疲れ果てた自分の顔があった。1日の大半を仕事に費やしているラフィーナには容姿を気にかける時間がない。手入れを怠った髪は傷んでぱさついているし、肌荒れも酷い。
 ジャンから有り余るほどの愛情を注がれ、日々美しさに磨きをかけていくリリアとは雲泥の差だ。

(リリアのようになりたいとは思わない。でも、せめて夜くらいゆっくり寝かせてほしいわ……)

 すっきりと覚醒しない頭のまま身支度をととのえ、部屋から出た。ちょうど、目の前を若いメイドが通り過ぎていくところだった。ラフィーナの顔を見たというのに、「おはようございます」の一言もない。いつものこととはいえ寂しさと悔しさが募る。

 ラフィーナが何気なくメイドの後ろ姿を眺めていると、メイドは少し離れたところにある扉をノックした。ジャンが寝室として使っている部屋だ。
 
 いくらか間を置いて扉は開き、中から顔を出したのはリリアだった。長い髪は乱れ、ネグリジェは肩がはだけ落ちてしまっている。昨晩、寝室で何があったのかは火を見るより明らかだった。

 リリアはメイドと何かを話していたが、ふいにラフィーナの視線に気がついたようだった。

「あら、ラフィーナ様ではありませんか。おはようございます」

 猫撫で声のあいさつに、ラフィーナは返事をしなかった。元よりラフィーナはジャンに愛情など抱いていない。これから先、小指の甘皮ばかりの愛情が芽生えることもない。
 それでもただの愛人でしかないリリアに堂々とされるのは、とても不愉快だった。
 
 ラフィーナの心中などまるで気にかけない様子で、リリアは言葉を続けた。
 
「もうお支度をなさっているんですね。あ、今日はジャン様の代わりに修道施設へ向かわれるんでしたっけ? 辺境伯夫人って大変ですねぇ……私、愛人で良かった」

 リリアはぺろりと舌を出した。
 ラフィーナはかっと頭に血が上った。

(愛人で良かったなんて、よくもそんなこと――……)

 ここまで言われたら黙ってはいられないと、ラフィーナは口を開いた。
 しかし何も言うことはできなかった。中途半端に開いた扉の内側から、寝惚け眼のジャンが顔を覗かせたからだ。
 
 ジャンはリリアの肩を抱き寄せると、甘い声で尋ねた。

「リリア、こんな早朝にどうしたんだ。メイドに何か用事があったのか?」
「飲み水を持ってきてもらおうと思ったの。昨晩のジャン様はとても情熱的だったから、のどが乾いてしまって」
「ああ、そうだったのか。おいそこのメイド、すぐに水を持ってきてくれ」

 メイドは頭を下げて、早足でその場からいなくなってしまった。廊下に残されたのはジャンとリリアと、そしてラフィーナ。
 ジャンはリリアの肩を抱いたまま、鬱陶しいものを見るような目でラフィーナを見た。

「お前は、なぜまだ屋敷にいるんだ。さっさと仕事に行け」
「……はい」

 リリアへの怒りは急速にしぼんでいって、ラフィーナは小さな声で返事をした。いくらラフィーナがジャンの分の仕事をこなしているとはいえ、この屋敷の主はジャンだ。逆らっても今より状況が良くなることはない。

 ラフィーナは視線を下げ、ジャンとリリアの横を通り過ぎようとした。
 するとすれ違いざまにリリアが言った。わざとらしい猫撫で声で。

「ジャン様ぁ、聞いてください。ラフィーナ様ったら、私に挨拶も返してくれないんですよ。それどころか怖ぁーい目つきで私のことを睨んできて」
「何だと?」

 ジャンは急に眉をつりあげ、ラフィーナのことを突き飛ばした。
 ラフィーナは悲鳴をあげて地面に尻餅をついた。

「挨拶も返さないなんてリリアに失礼だと思わないのか! 田舎育ちの男爵娘はこれだから嫌なんだ。最低限の礼儀もなっていない」

 ラフィーナを罵るジャンのかたわらでは、リリアがにんまりと口角をつり上げていた。ラフィーナを罵倒するジャンが、リリアの表情の変化に気がついた様子はない。
 
 こうした出来事は珍しいことではなかった。純朴の仮面をかぶったリリアは、何かと理由をつけてはラフィーナを貶めようとする。リリアが屋敷の物を壊せばいつの間にかラフィーナの責任にされているし、ジャンから送られた宝石が失くなったときは、ラフィーナが盗んだと濡れ衣を着せられたこともある。
 結局その宝石はリリアのベッドの枕元から見つかったのだが、謝罪の言葉は一言もなかった。
 今だって、挨拶を返していたら返していたで、「ラフィーナ様ったら、すごく嫌そうな顔で私に挨拶をしてくるんですぅ」と告げ口をされることは目に見えていた。

 ラフィーナが黙っていると、ジャンは嫌みたらしい捨て台詞を吐いた。

「リリアをいじめている暇があったらさっさと仕事に行くんだな。お前にできることなどそれしかないのだから」
(その仕事一つしないあなたは何者だというの……)

 ラフィーナの心の声は誰にも届くことはない。
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