1 / 29
4月入社
しおりを挟む
藍の花はどんなに辛いことも、美しく装ってくれる。滲む努力なんてものは、簡単に結果を裏切ってくれる。
消えた消された消し去った。
そのデータは人差し指ひとつで消えたんだ。
そんなに軽いものだったのか、私のデータは。
私の想いは。
私が子供の頃に父親から聞いていた社会人像とはまるで違う。
大きく膨れ上がった書類用鞄を持ち、高そうな腕時計、綺麗な七三、磨かれた革靴。
社内には怒号が飛び交い、社会や会社の為、己の生き様と家族の為に戦う。
華金で労を労い、華のある者がお酌をする。
社内廊下を歩く私の目に映るその姿は、一台のパソコンとスマートフォン。お洒落な髪型にスニーカー。
今月を生きる為に働く。奨学金や家賃の支払いに従い、片手にはペットボトル。
通された室内には多くの賞状やトロフィーが並んである。
怒肩で真っ黒のスーツを着た青年が先に入室していた。
常務の立見さんによると、この子が今年新卒入社の黒川君という人らしい。
「それじゃあ朝礼始まるまで、少し待っててね」
「はい、分かりました」お互いに簡単に自己紹介を済ませた。
黒川君は若いのに時代劇や歌舞伎が好きらしい。
初対面でも誠実でやる気のある感じが凄く伝わってくる。
初対面ほど、非言語から伝わってくるものが多い。
「黒川君はこの会社でやりたいことはあるの?」横向くミディアムヘアーのその香りに少し緊張する。
私良い女です。と言われるよりも、良い香りがすることに女性としての気品さを感じる。
初対面ほど、五感から伝わってくるものが多い。
「もちろんあります。僕はもう一度ジーンズの流行を作るんです」
「ジーンズって止めてよ、なんか古臭いから。デニムって呼んで」笑いながら口元を手で隠した。
「北口さんは一番何がやりたいですか?」
「私はほら、やりたいことというか、やらなきゃいけないというか」彼女は仕方がないといった表情で、僕を見つめた。
北口デニム株式会社。
昭和の時代にはセカイノキタグチと呼ばれ、アパレル業界では知らない者はいなかった。
一九七十年代から一九八十年代にかけてはフォークソングを口ずさみ、キタグチデニムを履くことが最もお洒落とされていた。
古いエントランスには五百人を超える社員の写真が白い歯を見せて笑っている。真ん中では若い頃の祖父が笑っている。今ではもう見られない世界かもしれない。
大会議室に入ると、五十人程の人が作業着やスーツ、オフィスカジュアルな服装で僕らを待っていた。
「朝礼を始めます」立見常務の優しい声から一日が始まる。窓から見える桜と黒川君の瞳が光り輝いている。
「今日から新しい仲間が二人加わりました。向かって右から、北口春奈さんと黒川景さん」それぞれに会釈をした。
「それでは北口さんから、自己紹介を簡単にお願いします」
「はい。北口春奈と申します。前職でも東京で五年間、アパレル業界に勤めておりました。私の曽祖父からの家業ということもあり、本日からお世話になります。名前は北口でも春奈でもどちらでも大丈夫です。宜しくお願いいたします」
五十名程の乾燥した拍手が重なった。
「それでは次、黒川さんお願いします」
「あ、はい。えっと、黒川景です。新入社員で分からないことが多くありますが、何事にも一生懸命頑張ります。よろしくお願いします。趣味は時代劇と歌舞伎を見ることです。よろしくお願いします」
同じ大きさの拍手を貰い、僕は嬉しかった。
「えー、北口春奈さんの言葉にもあったように、北口社長の娘様にあたります。春奈さんには商品開発部主任をお願いしております。黒川さんには営業部に所属をしていただきます。尚、教育係には営業部主任の林が担当します」
「林です」一言だけ、僕に貰った。
「はい、よろしくお願いします」
「それでは、北口社長から一言お願いしてもよろしいでしょうか」大きな咳払いの後に言葉が続いた。
「社員の二人には頑張っていただきたい。来年の七十周年に向けて、ホームページのリニューアル、新商品の開発、中長期計画のブラッシュアップ。時代が変わっても、やることは同じだ。お客様にサービスを通じて感動を届ける。デニムを世界に届ける。再び世界がデニムを求める。この会社を!」
今日一番の乾燥拍手が鳴り響いた。
ドスの効いた声は昔から変わらない。
「北口社長、ありがとうございました」どうやら、娘も社員の一人として扱うようで、その感じはこの朝礼で皆がそう感じた。
初日は会社概要や各部屋の説明、社内システムの使い方等を簡単に教わった。
明日は各部署からの説明で一日が終わると聞いた。
朝はきっちり決まった時間で始まるのに、終わる時間にはチャイムなど無い。形だけの定時があるようだが、始業時のような区切りはない。
今日は予め決められた時間通りに一日が過ぎていった。
「定期だから、帰ってもいいよ」立見常務の声の後、僕らは事務所を後にした。
「黒川君、お疲れ様」
「北口さん、お疲れ様です」
「あぁ、下の名前でいいよ、覚えてる?」
「春奈さんです!」
「正解」笑いながら口元を手で隠した。
「黒川君は面白いね、今日なんかずっと緊張してたでしょ?」
「はい、今日初めてカタコリニナリマシタ」
「なんで片言みたいになってんのよ。明日もあるんだからね」エントランスの電子時計は十八時五分を指している。
「あと一日頑張ろうね、じゃあ、また明日」
「はい、お疲れ様でした」
社長の娘さんと同期入社って聞いてたから、緊張してたけど、気さくな方でよかった。
僕はこの会社で大きくなるんだ。
皆さんから受け入れられた気がした。
どんどんチャレンジして、沢山吸収するんだ。
綺麗な児島湾、僕の好きな藍色に見える。
初めての仕事、初めての一人暮らし。児島湾より瀬戸内海より、日本海より大きい男になってみせる。
そんな想いを胸に一人アパートに着いた。
消えた消された消し去った。
そのデータは人差し指ひとつで消えたんだ。
そんなに軽いものだったのか、私のデータは。
私の想いは。
私が子供の頃に父親から聞いていた社会人像とはまるで違う。
大きく膨れ上がった書類用鞄を持ち、高そうな腕時計、綺麗な七三、磨かれた革靴。
社内には怒号が飛び交い、社会や会社の為、己の生き様と家族の為に戦う。
華金で労を労い、華のある者がお酌をする。
社内廊下を歩く私の目に映るその姿は、一台のパソコンとスマートフォン。お洒落な髪型にスニーカー。
今月を生きる為に働く。奨学金や家賃の支払いに従い、片手にはペットボトル。
通された室内には多くの賞状やトロフィーが並んである。
怒肩で真っ黒のスーツを着た青年が先に入室していた。
常務の立見さんによると、この子が今年新卒入社の黒川君という人らしい。
「それじゃあ朝礼始まるまで、少し待っててね」
「はい、分かりました」お互いに簡単に自己紹介を済ませた。
黒川君は若いのに時代劇や歌舞伎が好きらしい。
初対面でも誠実でやる気のある感じが凄く伝わってくる。
初対面ほど、非言語から伝わってくるものが多い。
「黒川君はこの会社でやりたいことはあるの?」横向くミディアムヘアーのその香りに少し緊張する。
私良い女です。と言われるよりも、良い香りがすることに女性としての気品さを感じる。
初対面ほど、五感から伝わってくるものが多い。
「もちろんあります。僕はもう一度ジーンズの流行を作るんです」
「ジーンズって止めてよ、なんか古臭いから。デニムって呼んで」笑いながら口元を手で隠した。
「北口さんは一番何がやりたいですか?」
「私はほら、やりたいことというか、やらなきゃいけないというか」彼女は仕方がないといった表情で、僕を見つめた。
北口デニム株式会社。
昭和の時代にはセカイノキタグチと呼ばれ、アパレル業界では知らない者はいなかった。
一九七十年代から一九八十年代にかけてはフォークソングを口ずさみ、キタグチデニムを履くことが最もお洒落とされていた。
古いエントランスには五百人を超える社員の写真が白い歯を見せて笑っている。真ん中では若い頃の祖父が笑っている。今ではもう見られない世界かもしれない。
大会議室に入ると、五十人程の人が作業着やスーツ、オフィスカジュアルな服装で僕らを待っていた。
「朝礼を始めます」立見常務の優しい声から一日が始まる。窓から見える桜と黒川君の瞳が光り輝いている。
「今日から新しい仲間が二人加わりました。向かって右から、北口春奈さんと黒川景さん」それぞれに会釈をした。
「それでは北口さんから、自己紹介を簡単にお願いします」
「はい。北口春奈と申します。前職でも東京で五年間、アパレル業界に勤めておりました。私の曽祖父からの家業ということもあり、本日からお世話になります。名前は北口でも春奈でもどちらでも大丈夫です。宜しくお願いいたします」
五十名程の乾燥した拍手が重なった。
「それでは次、黒川さんお願いします」
「あ、はい。えっと、黒川景です。新入社員で分からないことが多くありますが、何事にも一生懸命頑張ります。よろしくお願いします。趣味は時代劇と歌舞伎を見ることです。よろしくお願いします」
同じ大きさの拍手を貰い、僕は嬉しかった。
「えー、北口春奈さんの言葉にもあったように、北口社長の娘様にあたります。春奈さんには商品開発部主任をお願いしております。黒川さんには営業部に所属をしていただきます。尚、教育係には営業部主任の林が担当します」
「林です」一言だけ、僕に貰った。
「はい、よろしくお願いします」
「それでは、北口社長から一言お願いしてもよろしいでしょうか」大きな咳払いの後に言葉が続いた。
「社員の二人には頑張っていただきたい。来年の七十周年に向けて、ホームページのリニューアル、新商品の開発、中長期計画のブラッシュアップ。時代が変わっても、やることは同じだ。お客様にサービスを通じて感動を届ける。デニムを世界に届ける。再び世界がデニムを求める。この会社を!」
今日一番の乾燥拍手が鳴り響いた。
ドスの効いた声は昔から変わらない。
「北口社長、ありがとうございました」どうやら、娘も社員の一人として扱うようで、その感じはこの朝礼で皆がそう感じた。
初日は会社概要や各部屋の説明、社内システムの使い方等を簡単に教わった。
明日は各部署からの説明で一日が終わると聞いた。
朝はきっちり決まった時間で始まるのに、終わる時間にはチャイムなど無い。形だけの定時があるようだが、始業時のような区切りはない。
今日は予め決められた時間通りに一日が過ぎていった。
「定期だから、帰ってもいいよ」立見常務の声の後、僕らは事務所を後にした。
「黒川君、お疲れ様」
「北口さん、お疲れ様です」
「あぁ、下の名前でいいよ、覚えてる?」
「春奈さんです!」
「正解」笑いながら口元を手で隠した。
「黒川君は面白いね、今日なんかずっと緊張してたでしょ?」
「はい、今日初めてカタコリニナリマシタ」
「なんで片言みたいになってんのよ。明日もあるんだからね」エントランスの電子時計は十八時五分を指している。
「あと一日頑張ろうね、じゃあ、また明日」
「はい、お疲れ様でした」
社長の娘さんと同期入社って聞いてたから、緊張してたけど、気さくな方でよかった。
僕はこの会社で大きくなるんだ。
皆さんから受け入れられた気がした。
どんどんチャレンジして、沢山吸収するんだ。
綺麗な児島湾、僕の好きな藍色に見える。
初めての仕事、初めての一人暮らし。児島湾より瀬戸内海より、日本海より大きい男になってみせる。
そんな想いを胸に一人アパートに着いた。
2
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる