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秋暁、胸の奥が騒ぐとき(1)
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高守柚瑠の自宅兼拠点に、場違いなほど厳かな気配が流れ込んできたのは、ちょうど依頼帰りで一息ついていた夕方のことだった。
「……柚瑠、お前んとこの結界、ゆるいな。見逃してやるけど」
突然、玄関をくぐってきたのは、和装に身を包んだ精悍な中年の男――高守玲音。柚瑠の遠縁にあたる親戚で、霊媒の世界では知る人ぞ知る凄腕だった。
「玲音さん……なんで急に?」
「ちょいと“良い素材”を見つけたからな。スカウトに来ただけだよ」
玲音の視線がすっと横に向けられる。そこには、キッチンで湯を沸かしていた律がいた。
「無我律くん。君、なかなか素質あるな。精神の揺らぎが少ない。霊との距離感も見事だ。柚瑠に使われてるより、もっと上で鍛えたほうがいい」
「……は?」
柚瑠は、手にしていたマグカップを落としそうになった。律もまた驚いた顔で目を瞬かせている。
「俺なんか、まだ未熟ですし、柚瑠さんの助手で……」
「だからこそ惜しい。高守家の名のもと、正式に助手として迎える。どうだ、考えておいてくれ」
玲音はそれだけ言い残すと、置き手紙のように名刺をテーブルに置き、さっさと玄関を出ていった。
――気まずい沈黙が落ちた。
「……柚瑠さん。俺、ちょっと外の空気吸ってきます」
そう言って出ていく律の背中を、柚瑠は呆然と見送った。
胸がざわつく。
助手だから、必要なんだ。
ずっとそばにいて、助けてくれて。僕はアイツがいなきゃ――いや、でも、それだけか?
(行くなよ……)
気づけば、柚瑠は玄関を飛び出していた。
律の背中を見つけたのは、角を曲がった小さな公園のあたりだった。風が、ふたりの間を吹き抜けていく。
「律!!」
呼ばれて、律が振り向く。
「……柚瑠さん?」
「……行くな。あんなスカウト、断れ。僕には、おまえが必要だ」
柚瑠の声は震えていた。自分でも、自分の感情の正体がわからなかった。
「僕は……おまえが助手だから?相棒だから?……それとも、ただ……」
「――俺は」
律が一歩、柚瑠に近づいた。その目には、もう迷いがなかった。
「俺は、柚瑠さんのことを、“好き”って意味で好きです」
柚瑠の息が止まった。
「助手としてじゃなくて、人として。男として、恋愛感情として。ずっと前から、俺は、柚瑠さんが……」
風が止まり、時間が凍るようだった。
「……わかんないんだよ」
柚瑠の声が小さく漏れる。
「僕の“必要”って気持ちが、おまえの言う“好き”と同じなのか、まだ……」
「それで、いいです」
律の声は静かだった。
「気づいてもらえただけで、今日は十分です」
その声に、柚瑠は目を伏せたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
“律を、失いたくない”――その気持ちだけは、確かだった。
---
夜の風が、ふたりの間をそっとすり抜ける。
律の告白を受けてから、柚瑠は一言も発していなかった。沈黙を破ったのは、意外にも律のほうだった。
「すみません……俺、勝手でしたよね」
「……バカ」
柚瑠がぽつりと呟いた。
「謝るくらいなら、言うなよ。そんな顔して、謝るなよ」
「……はい」
律が苦笑し、目を伏せる。その横顔を見て、柚瑠は心の奥底がかき乱されるような感覚に襲われていた。
助手としての信頼。戦友としての絆。そして、それを超える感情。
「……正直、まだ答えは出せない」
やっとの思いで口を開く。
「だけど、律がいなくなるって想像したら、息ができないくらい苦しくなった。それは、嘘じゃない」
律が目を上げる。柚瑠の言葉を、ひとつ残らず受け止めるように、まっすぐに。
「だったら、俺は待ちます。何年でも、何回でも、柚瑠さんの隣に立ち続けて……“好き”を証明してみせます」
「……めんどくせえな、おまえは」
柚瑠は、ようやく少しだけ口元を緩めた。
「でも……そばにいろ。今だけじゃねぇ。これからも、ずっと」
その言葉に、律の瞳が震える。
「はい」
「助手として――って、今は言っとく」
「はい。……でも、いつかそれが“恋人として”に変わることを願って、俺はそばにいます」
柚瑠は、何も返さなかった。
けれど、隣に並んで歩き出したその歩幅は、さっきより確かに近づいていた。
沈黙の中に芽生えた感情の輪郭は、まだぼやけていた。
それでも――それはたしかに、恋のはじまりだった。
---
「わあ……すっごい、人」
ライトアップされた城跡公園は、まさに秋の見頃。燃えるような赤や黄の紅葉が夜のとばりに照らされ、どこか現実離れした空間をつくっていた。
境内跡に沿って続く石畳の小道には、出店の屋台と観光客がずらりと並んでいる。
「おい黒川、あれ! 焼きだんご! 食っていこうぜ!」
「……因幡先生。除霊前なので、まず状況確認を優先していただけると……」
「なーに言ってんだよ、どうせ対象は深夜にしか出ないって言ってたじゃん? ちょっとくらい楽しんでもバチ当たんねーよ。な?」
「たしかに、報告では深夜帯限定の霊出没。今のうちに腹ごしらえしておくのも、合理的判断ですね」
横から律が口を挟んでくる。
「というわけで、律。僕はあれ食いたい。たい焼き」
「……はいはい、結局食べたいだけですね」
そしてその数分後――。
「うめぇぇ……あっ、因幡、次たこ焼きいこうぜ」
「いや、俺は唐揚げ。いや、串焼きも捨てがたいな……」
「ちょっと、君たち本当に仕事のつもりで来てる?」
「ああ? 腹が減ってはなんとやら、ってやつだろ。な、柚瑠」
「まったくだ。食わずして霊と向き合うとか正気の沙汰じゃない」
「「どっちが大食いか決着つけてやるよ!!!」」
ふたりの大人たちが、火花を散らしてコロッケと焼きそばに挑む横で、助手ふたりはほぼ無表情だった。
「……このふたり、似てますね」
「……ほんと、それな。胃袋だけでなくてテンションの上がり方も一緒だよ」
黒川と律はそれぞれのパートナーに紙ナプキンを差し出しながら、なんとも言えない溜め息をついた。
---
食い倒れの宴が一段落し、人混みの熱が落ち着く頃――。
一同は、城跡の裏手、観光客の流れから少し外れた川沿いの小道にいた。
風の音が紅葉を揺らし、時折、すすり泣くような声が混ざる。
「ここだな。霊が出るのは」
因幡が低く呟き、文庫本を開いた。
「どうやら、城落ちの夜、愛しい人を残して命を絶った侍女の霊らしいな……その執着が、時折現世を彷徨うらしい」
「愛と未練、か。因幡、朗読に入れ」
柚瑠は小さく印を切りながら、川沿いの空気を結界で満たしていく。
「よし、いくぞ。……“白銀の指が私の喉元をなぞった瞬間、私はただ快楽に喘ぐだけの存在になっていた……”」
柚瑠と律が同時に顔をしかめる。
「またそれか……!」
「毎度のことだけど、なんで除霊で官能朗読なんだろう……」
夜気がふるえた瞬間、木の陰から、朧げな人影が姿を現す。
泣き濡れた瞳、裾のほどけた白無垢。
怨念というより、深い悲しみがその身にまとわりついていた。
「うわっ……出た」
「大丈夫、こっち来るぞ。因幡、もう一段階感情込めて!」
> 「“彼の舌先が私の耳の奥まで届いた瞬間、すべてが崩壊して……”」
呻きとともに、霊の輪郭がふるえる。
柚瑠がすかさず最後の結界を仕上げると、霊はすっと涙を残して、紅葉の風に溶けていった。
ふわりと舞った一枚の紅葉が、因幡の足元に落ちる。
「……やれやれ。やっぱこのスタイル、間違ってねぇな」
「俺には間違ってるようにしか思えないんですが……」
黒川はため息をつきながら、因幡に上着を掛けた。風が冷たくなっていた。
一方その隣では、柚瑠がふいに言った。
「なぁ律。次のイベント飯、なにがあったっけ?」
「……もう、除霊が終わって安心した瞬間にこれなんだから……」
ふたりのコンビが静かに笑い合い、帰り道へと歩き出す。
紅葉の名残と、過ぎた怨念と。
そして、少しずつ育ち始めた4人の関係だけが、秋の城跡に静かに残されていた――。
---
除霊から戻ったあとの、深夜の静かな時間。
黒川のアパートの部屋は灯りを落とし、間接照明だけがほのかに空間を照らしていた。
「はぁ……今日はさすがに、疲れましたね」
ソファに深く腰を沈めた黒川が、小さく伸びをした。
すでにシャワーは浴び終えていて、ゆるく乾かした髪からは微かに柑橘系の香りが漂っていた。
部屋着のパーカーの袖を無意識にいじる手つきが、今日のことを反芻している証拠だった。
「まあな。……あの亡霊の最後のひとこと、気になるな」
キッチンからマグカップを2つ持ってきた因幡が、黒川の隣に腰を下ろす。
差し出されたカップには、薄く淹れたカモミールティー。
眠る前の静けさが、ふたりを自然に寄り添わせていた。
「“来世でまた、会えますように”――でしたね」
黒川が、ぽつりと呟く。
それは亡霊が光へ還る直前、消え入りそうな声でこぼした願いだった。
「愛してた人に再び会えるように、か。執着じゃなく、願いとして残ったんだな。……おまえは、信じるか? 来世とか、運命とか」
因幡がマグを片手に、ふと横目で黒川を見やった。
黒川は、答えに少しだけ間を置いた。
そして、柔らかく笑ってこう返す。
「……誰かを強く想う気持ちが、何かを超えることがあるなら。信じたいです。叶わなくても、願っていたい……って思うくらい、大切な人がいるなら」
その横顔には、熱も告白もない。ただ、少しだけ切なさを孕んだ穏やかな静けさがある。
だけど因幡は、その言葉の向かう先を、薄々気付いていた。
(……俺のことか?)
気付かないふり。
ずっとしてきた。
黒川が、誰よりも自分の言葉を信じ、支えてくれていること。
傍にいる理由が、ただの“助手”ではないこと――。
それを、ずっとわかっていながら、気付かないふりをしていた。
でも。
「……黒川」
「はい?」
因幡は何気ないような顔で、黒川の頭をぽんと撫でた。
唐突で、あまりにも優しくて、黒川の瞳が揺れる。
「……あんまり、そういう顔すんな。夜だし、変な気起こすだろ」
「……!」
赤くなる耳を隠すように、黒川はマグカップを持ち直した。
笑ってごまかすのは得意だったはずなのに、今夜はちょっと無理だった。
「すみません。気をつけます」
「いや、……気にすんな。おまえのそういうとこ、俺は……」
言いかけて、因幡は言葉を切った。
(好きだよ。……とか、今さら言えるかよ)
そんな自分に小さく舌打ちしながら、マグカップに口をつける。
静けさが戻る。
けれど、それはどこか心地いい緊張を孕んだ沈黙だった。
部屋の窓の外では、夜風が赤く色づいた葉を揺らしていた。
---
夜中。
窓の外では風が紅葉を揺らし、さらさらと乾いた音を立てていた。
その音の中に、かすかな声が混じった。
「やだ……いかないで、柚瑠さん……っ……」
寝返りを打った布団の中で、律は眉を寄せ、小さく震えていた。
夢のなかで何かにすがるように、誰かの名前を呼んでいる。
――柚瑠が、遠ざかっていく。
何も言わず、ただ背を向けて歩いていく。
呼んでも、手を伸ばしても、届かない。
胸を裂くような喪失感だけが、律の中に残った。
「――っ……!!」
びくん、と身体を起こして、律は夢から飛び起きた。
視界がにじんで、呼吸がうまくできない。
何が現実で、何が夢だったのか、その境目が曖昧なまま、目から涙が溢れ続けた。
「律……?」
低く優しい声が、すぐ横から聞こえた。
柚瑠だった。
隣の布団に背中合わせに寝ていた彼が、律の異変に気付いて目を覚ましていた。
「どうした、苦しい夢?」
律は何も答えられず、ただ小さく頷いた。
こぼれ落ちた涙が、シーツに滲んでいく。
柚瑠はそっと起き上がると、律の背中に腕をまわして、その身体を抱き寄せた。
「大丈夫。……僕はここにいる」
律の額が、柚瑠の胸元に触れる。
そのぬくもりに、律はようやく少しだけ呼吸を取り戻す。
「……夢の中で、柚瑠さんが、俺のこと嫌いになって、……どこかに行ってしまって……呼んでも、追いかけても、何にも届かなくて……」
震える声でこぼす律に、柚瑠は何も言わず、ただ優しく背を撫でた。
まるで小さな子どもをあやすような仕草だった。
「律。よく聞いて」
柚瑠は少しだけ体を離し、律の頬に手を添えて、まっすぐ目を見る。
「僕は、おまえが泣くほど不安になるような、そんな夢に負けないくらい、ちゃんとここにいる。……おまえを嫌いになるなんて、ありえない。おまえは、僕にとってただの助手じゃない。大事な存在だ」
律の唇がわなないた。
喉の奥から、嗚咽がこぼれそうになったその瞬間、柚瑠がもう一度、強く抱きしめる。
「……僕は、どこにも行かない。律、おまえの傍にいるよ。これからもずっと」
その言葉に、律の手がゆっくりと柚瑠の背に回った。
ぬくもりにすがるように、静かに、でもしっかりと。
「……柚瑠さん、……ありがとうございます」
涙のにじんだ声に、柚瑠は「バカ」とだけ囁いて、律の髪を撫でた。
夜の風が、ふたりのいる部屋の外を通り過ぎていく。
けれど、ここにはもう何の不安もなかった。
寄り添う温もりと、互いを求める想いだけが、確かにそこにあった。
---
夜が明け始める頃、律はようやくうとうととした浅い眠りに落ちていた。
窓のカーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでいる。
部屋の空気はしんと静かで、聞こえるのは鳥のさえずりと、隣にいる誰かの穏やかな呼吸。
律は薄く目を開けた。
まぶたの裏にまだ残っていた夢の影は、今ではもうどこにもなかった。
隣にいる柚瑠の腕の中で目覚めた朝――
それは信じられないほど、あたたかくて、安心できる空間だった。
「……起きてたのか?」
不意に、低い声が頭の上から落ちてくる。
「っ……柚瑠さん、起こしちゃいましたか?」
「ん。目が覚めたら、おまえが俺の腕を掴んで離してくれなかっただけだ。寝苦しいかと思ったけど……まぁ、悪くなかった」
小さな冗談めいた言い回しに、律は頬を赤らめた。
昨夜の夢のことを思い出して胸がちくりと痛むけれど、柚瑠のぬくもりはそれをそっと包み込んでくれる。
「……あの、昨日は……すみませんでした。変な夢で取り乱して……」
「謝るなよ、律。怖い夢くらい見るもんだ。誰だって」
そう言って、柚瑠はゆっくり起き上がり、寝癖のついた髪を指先で整えながら、カップを手に取る。
「……コーヒー、淹れるけど飲むか?」
「はい、ぜひ……」
律もゆっくりと身体を起こした。
すぐ隣にある日常。
その中に柚瑠がいて、笑っていて、名前を呼んでくれている。
それだけで、律の胸の奥がじんわりとあたたまる。
小さなテーブルで、柚瑠が差し出したカップを受け取る。
そこに注がれた黒い液体は、ほんのり香ばしくて、鼻をくすぐった。
「甘くしてる。おまえ、苦いのダメだろ」
「……ありがとうございます」
さりげない気遣いに、律の心はまた少しだけ強くなれた気がした。
一口飲むと、ちょうどいい甘さと温度に、思わず頬がゆるむ。
「……なんか、こういう朝って、すごく……幸せですね」
ぽつりと漏れた律の言葉に、柚瑠は一瞬カップを口に運ぶ手を止めた。
だが、それをすぐに誤魔化すようにふっと笑う。
「何だそれ。夢見が悪かったやつの台詞には聞こえねえな」
「ふふっ……」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
照れ隠しと、安堵と、静かな喜びがそこに混ざっていた。
昨日の夢はもう過去。
この朝は、確かな“今”として、ふたりの心に刻まれていく。
小さな朝のテーブルに、寄り添うふたりの距離が、昨日よりも少しだけ近くなっていた。
「……柚瑠、お前んとこの結界、ゆるいな。見逃してやるけど」
突然、玄関をくぐってきたのは、和装に身を包んだ精悍な中年の男――高守玲音。柚瑠の遠縁にあたる親戚で、霊媒の世界では知る人ぞ知る凄腕だった。
「玲音さん……なんで急に?」
「ちょいと“良い素材”を見つけたからな。スカウトに来ただけだよ」
玲音の視線がすっと横に向けられる。そこには、キッチンで湯を沸かしていた律がいた。
「無我律くん。君、なかなか素質あるな。精神の揺らぎが少ない。霊との距離感も見事だ。柚瑠に使われてるより、もっと上で鍛えたほうがいい」
「……は?」
柚瑠は、手にしていたマグカップを落としそうになった。律もまた驚いた顔で目を瞬かせている。
「俺なんか、まだ未熟ですし、柚瑠さんの助手で……」
「だからこそ惜しい。高守家の名のもと、正式に助手として迎える。どうだ、考えておいてくれ」
玲音はそれだけ言い残すと、置き手紙のように名刺をテーブルに置き、さっさと玄関を出ていった。
――気まずい沈黙が落ちた。
「……柚瑠さん。俺、ちょっと外の空気吸ってきます」
そう言って出ていく律の背中を、柚瑠は呆然と見送った。
胸がざわつく。
助手だから、必要なんだ。
ずっとそばにいて、助けてくれて。僕はアイツがいなきゃ――いや、でも、それだけか?
(行くなよ……)
気づけば、柚瑠は玄関を飛び出していた。
律の背中を見つけたのは、角を曲がった小さな公園のあたりだった。風が、ふたりの間を吹き抜けていく。
「律!!」
呼ばれて、律が振り向く。
「……柚瑠さん?」
「……行くな。あんなスカウト、断れ。僕には、おまえが必要だ」
柚瑠の声は震えていた。自分でも、自分の感情の正体がわからなかった。
「僕は……おまえが助手だから?相棒だから?……それとも、ただ……」
「――俺は」
律が一歩、柚瑠に近づいた。その目には、もう迷いがなかった。
「俺は、柚瑠さんのことを、“好き”って意味で好きです」
柚瑠の息が止まった。
「助手としてじゃなくて、人として。男として、恋愛感情として。ずっと前から、俺は、柚瑠さんが……」
風が止まり、時間が凍るようだった。
「……わかんないんだよ」
柚瑠の声が小さく漏れる。
「僕の“必要”って気持ちが、おまえの言う“好き”と同じなのか、まだ……」
「それで、いいです」
律の声は静かだった。
「気づいてもらえただけで、今日は十分です」
その声に、柚瑠は目を伏せたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
“律を、失いたくない”――その気持ちだけは、確かだった。
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夜の風が、ふたりの間をそっとすり抜ける。
律の告白を受けてから、柚瑠は一言も発していなかった。沈黙を破ったのは、意外にも律のほうだった。
「すみません……俺、勝手でしたよね」
「……バカ」
柚瑠がぽつりと呟いた。
「謝るくらいなら、言うなよ。そんな顔して、謝るなよ」
「……はい」
律が苦笑し、目を伏せる。その横顔を見て、柚瑠は心の奥底がかき乱されるような感覚に襲われていた。
助手としての信頼。戦友としての絆。そして、それを超える感情。
「……正直、まだ答えは出せない」
やっとの思いで口を開く。
「だけど、律がいなくなるって想像したら、息ができないくらい苦しくなった。それは、嘘じゃない」
律が目を上げる。柚瑠の言葉を、ひとつ残らず受け止めるように、まっすぐに。
「だったら、俺は待ちます。何年でも、何回でも、柚瑠さんの隣に立ち続けて……“好き”を証明してみせます」
「……めんどくせえな、おまえは」
柚瑠は、ようやく少しだけ口元を緩めた。
「でも……そばにいろ。今だけじゃねぇ。これからも、ずっと」
その言葉に、律の瞳が震える。
「はい」
「助手として――って、今は言っとく」
「はい。……でも、いつかそれが“恋人として”に変わることを願って、俺はそばにいます」
柚瑠は、何も返さなかった。
けれど、隣に並んで歩き出したその歩幅は、さっきより確かに近づいていた。
沈黙の中に芽生えた感情の輪郭は、まだぼやけていた。
それでも――それはたしかに、恋のはじまりだった。
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「わあ……すっごい、人」
ライトアップされた城跡公園は、まさに秋の見頃。燃えるような赤や黄の紅葉が夜のとばりに照らされ、どこか現実離れした空間をつくっていた。
境内跡に沿って続く石畳の小道には、出店の屋台と観光客がずらりと並んでいる。
「おい黒川、あれ! 焼きだんご! 食っていこうぜ!」
「……因幡先生。除霊前なので、まず状況確認を優先していただけると……」
「なーに言ってんだよ、どうせ対象は深夜にしか出ないって言ってたじゃん? ちょっとくらい楽しんでもバチ当たんねーよ。な?」
「たしかに、報告では深夜帯限定の霊出没。今のうちに腹ごしらえしておくのも、合理的判断ですね」
横から律が口を挟んでくる。
「というわけで、律。僕はあれ食いたい。たい焼き」
「……はいはい、結局食べたいだけですね」
そしてその数分後――。
「うめぇぇ……あっ、因幡、次たこ焼きいこうぜ」
「いや、俺は唐揚げ。いや、串焼きも捨てがたいな……」
「ちょっと、君たち本当に仕事のつもりで来てる?」
「ああ? 腹が減ってはなんとやら、ってやつだろ。な、柚瑠」
「まったくだ。食わずして霊と向き合うとか正気の沙汰じゃない」
「「どっちが大食いか決着つけてやるよ!!!」」
ふたりの大人たちが、火花を散らしてコロッケと焼きそばに挑む横で、助手ふたりはほぼ無表情だった。
「……このふたり、似てますね」
「……ほんと、それな。胃袋だけでなくてテンションの上がり方も一緒だよ」
黒川と律はそれぞれのパートナーに紙ナプキンを差し出しながら、なんとも言えない溜め息をついた。
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食い倒れの宴が一段落し、人混みの熱が落ち着く頃――。
一同は、城跡の裏手、観光客の流れから少し外れた川沿いの小道にいた。
風の音が紅葉を揺らし、時折、すすり泣くような声が混ざる。
「ここだな。霊が出るのは」
因幡が低く呟き、文庫本を開いた。
「どうやら、城落ちの夜、愛しい人を残して命を絶った侍女の霊らしいな……その執着が、時折現世を彷徨うらしい」
「愛と未練、か。因幡、朗読に入れ」
柚瑠は小さく印を切りながら、川沿いの空気を結界で満たしていく。
「よし、いくぞ。……“白銀の指が私の喉元をなぞった瞬間、私はただ快楽に喘ぐだけの存在になっていた……”」
柚瑠と律が同時に顔をしかめる。
「またそれか……!」
「毎度のことだけど、なんで除霊で官能朗読なんだろう……」
夜気がふるえた瞬間、木の陰から、朧げな人影が姿を現す。
泣き濡れた瞳、裾のほどけた白無垢。
怨念というより、深い悲しみがその身にまとわりついていた。
「うわっ……出た」
「大丈夫、こっち来るぞ。因幡、もう一段階感情込めて!」
> 「“彼の舌先が私の耳の奥まで届いた瞬間、すべてが崩壊して……”」
呻きとともに、霊の輪郭がふるえる。
柚瑠がすかさず最後の結界を仕上げると、霊はすっと涙を残して、紅葉の風に溶けていった。
ふわりと舞った一枚の紅葉が、因幡の足元に落ちる。
「……やれやれ。やっぱこのスタイル、間違ってねぇな」
「俺には間違ってるようにしか思えないんですが……」
黒川はため息をつきながら、因幡に上着を掛けた。風が冷たくなっていた。
一方その隣では、柚瑠がふいに言った。
「なぁ律。次のイベント飯、なにがあったっけ?」
「……もう、除霊が終わって安心した瞬間にこれなんだから……」
ふたりのコンビが静かに笑い合い、帰り道へと歩き出す。
紅葉の名残と、過ぎた怨念と。
そして、少しずつ育ち始めた4人の関係だけが、秋の城跡に静かに残されていた――。
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除霊から戻ったあとの、深夜の静かな時間。
黒川のアパートの部屋は灯りを落とし、間接照明だけがほのかに空間を照らしていた。
「はぁ……今日はさすがに、疲れましたね」
ソファに深く腰を沈めた黒川が、小さく伸びをした。
すでにシャワーは浴び終えていて、ゆるく乾かした髪からは微かに柑橘系の香りが漂っていた。
部屋着のパーカーの袖を無意識にいじる手つきが、今日のことを反芻している証拠だった。
「まあな。……あの亡霊の最後のひとこと、気になるな」
キッチンからマグカップを2つ持ってきた因幡が、黒川の隣に腰を下ろす。
差し出されたカップには、薄く淹れたカモミールティー。
眠る前の静けさが、ふたりを自然に寄り添わせていた。
「“来世でまた、会えますように”――でしたね」
黒川が、ぽつりと呟く。
それは亡霊が光へ還る直前、消え入りそうな声でこぼした願いだった。
「愛してた人に再び会えるように、か。執着じゃなく、願いとして残ったんだな。……おまえは、信じるか? 来世とか、運命とか」
因幡がマグを片手に、ふと横目で黒川を見やった。
黒川は、答えに少しだけ間を置いた。
そして、柔らかく笑ってこう返す。
「……誰かを強く想う気持ちが、何かを超えることがあるなら。信じたいです。叶わなくても、願っていたい……って思うくらい、大切な人がいるなら」
その横顔には、熱も告白もない。ただ、少しだけ切なさを孕んだ穏やかな静けさがある。
だけど因幡は、その言葉の向かう先を、薄々気付いていた。
(……俺のことか?)
気付かないふり。
ずっとしてきた。
黒川が、誰よりも自分の言葉を信じ、支えてくれていること。
傍にいる理由が、ただの“助手”ではないこと――。
それを、ずっとわかっていながら、気付かないふりをしていた。
でも。
「……黒川」
「はい?」
因幡は何気ないような顔で、黒川の頭をぽんと撫でた。
唐突で、あまりにも優しくて、黒川の瞳が揺れる。
「……あんまり、そういう顔すんな。夜だし、変な気起こすだろ」
「……!」
赤くなる耳を隠すように、黒川はマグカップを持ち直した。
笑ってごまかすのは得意だったはずなのに、今夜はちょっと無理だった。
「すみません。気をつけます」
「いや、……気にすんな。おまえのそういうとこ、俺は……」
言いかけて、因幡は言葉を切った。
(好きだよ。……とか、今さら言えるかよ)
そんな自分に小さく舌打ちしながら、マグカップに口をつける。
静けさが戻る。
けれど、それはどこか心地いい緊張を孕んだ沈黙だった。
部屋の窓の外では、夜風が赤く色づいた葉を揺らしていた。
---
夜中。
窓の外では風が紅葉を揺らし、さらさらと乾いた音を立てていた。
その音の中に、かすかな声が混じった。
「やだ……いかないで、柚瑠さん……っ……」
寝返りを打った布団の中で、律は眉を寄せ、小さく震えていた。
夢のなかで何かにすがるように、誰かの名前を呼んでいる。
――柚瑠が、遠ざかっていく。
何も言わず、ただ背を向けて歩いていく。
呼んでも、手を伸ばしても、届かない。
胸を裂くような喪失感だけが、律の中に残った。
「――っ……!!」
びくん、と身体を起こして、律は夢から飛び起きた。
視界がにじんで、呼吸がうまくできない。
何が現実で、何が夢だったのか、その境目が曖昧なまま、目から涙が溢れ続けた。
「律……?」
低く優しい声が、すぐ横から聞こえた。
柚瑠だった。
隣の布団に背中合わせに寝ていた彼が、律の異変に気付いて目を覚ましていた。
「どうした、苦しい夢?」
律は何も答えられず、ただ小さく頷いた。
こぼれ落ちた涙が、シーツに滲んでいく。
柚瑠はそっと起き上がると、律の背中に腕をまわして、その身体を抱き寄せた。
「大丈夫。……僕はここにいる」
律の額が、柚瑠の胸元に触れる。
そのぬくもりに、律はようやく少しだけ呼吸を取り戻す。
「……夢の中で、柚瑠さんが、俺のこと嫌いになって、……どこかに行ってしまって……呼んでも、追いかけても、何にも届かなくて……」
震える声でこぼす律に、柚瑠は何も言わず、ただ優しく背を撫でた。
まるで小さな子どもをあやすような仕草だった。
「律。よく聞いて」
柚瑠は少しだけ体を離し、律の頬に手を添えて、まっすぐ目を見る。
「僕は、おまえが泣くほど不安になるような、そんな夢に負けないくらい、ちゃんとここにいる。……おまえを嫌いになるなんて、ありえない。おまえは、僕にとってただの助手じゃない。大事な存在だ」
律の唇がわなないた。
喉の奥から、嗚咽がこぼれそうになったその瞬間、柚瑠がもう一度、強く抱きしめる。
「……僕は、どこにも行かない。律、おまえの傍にいるよ。これからもずっと」
その言葉に、律の手がゆっくりと柚瑠の背に回った。
ぬくもりにすがるように、静かに、でもしっかりと。
「……柚瑠さん、……ありがとうございます」
涙のにじんだ声に、柚瑠は「バカ」とだけ囁いて、律の髪を撫でた。
夜の風が、ふたりのいる部屋の外を通り過ぎていく。
けれど、ここにはもう何の不安もなかった。
寄り添う温もりと、互いを求める想いだけが、確かにそこにあった。
---
夜が明け始める頃、律はようやくうとうととした浅い眠りに落ちていた。
窓のカーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでいる。
部屋の空気はしんと静かで、聞こえるのは鳥のさえずりと、隣にいる誰かの穏やかな呼吸。
律は薄く目を開けた。
まぶたの裏にまだ残っていた夢の影は、今ではもうどこにもなかった。
隣にいる柚瑠の腕の中で目覚めた朝――
それは信じられないほど、あたたかくて、安心できる空間だった。
「……起きてたのか?」
不意に、低い声が頭の上から落ちてくる。
「っ……柚瑠さん、起こしちゃいましたか?」
「ん。目が覚めたら、おまえが俺の腕を掴んで離してくれなかっただけだ。寝苦しいかと思ったけど……まぁ、悪くなかった」
小さな冗談めいた言い回しに、律は頬を赤らめた。
昨夜の夢のことを思い出して胸がちくりと痛むけれど、柚瑠のぬくもりはそれをそっと包み込んでくれる。
「……あの、昨日は……すみませんでした。変な夢で取り乱して……」
「謝るなよ、律。怖い夢くらい見るもんだ。誰だって」
そう言って、柚瑠はゆっくり起き上がり、寝癖のついた髪を指先で整えながら、カップを手に取る。
「……コーヒー、淹れるけど飲むか?」
「はい、ぜひ……」
律もゆっくりと身体を起こした。
すぐ隣にある日常。
その中に柚瑠がいて、笑っていて、名前を呼んでくれている。
それだけで、律の胸の奥がじんわりとあたたまる。
小さなテーブルで、柚瑠が差し出したカップを受け取る。
そこに注がれた黒い液体は、ほんのり香ばしくて、鼻をくすぐった。
「甘くしてる。おまえ、苦いのダメだろ」
「……ありがとうございます」
さりげない気遣いに、律の心はまた少しだけ強くなれた気がした。
一口飲むと、ちょうどいい甘さと温度に、思わず頬がゆるむ。
「……なんか、こういう朝って、すごく……幸せですね」
ぽつりと漏れた律の言葉に、柚瑠は一瞬カップを口に運ぶ手を止めた。
だが、それをすぐに誤魔化すようにふっと笑う。
「何だそれ。夢見が悪かったやつの台詞には聞こえねえな」
「ふふっ……」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
照れ隠しと、安堵と、静かな喜びがそこに混ざっていた。
昨日の夢はもう過去。
この朝は、確かな“今”として、ふたりの心に刻まれていく。
小さな朝のテーブルに、寄り添うふたりの距離が、昨日よりも少しだけ近くなっていた。
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