銀鎖

松本尚生

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二、秋の終わり、そして、冬

2-5

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 屋敷の前にタクシーが止まった。

 離れの二階の自室から、遼一は敷地の前を見つめていた。

 母の賑やかな声が聞こえた。

 母に手を引かれる、紅梅色の振り袖が見えた。

 遼一はたまらず階下へ走り降り、転がるように外へ出た。

 振り袖姿の純香を乗せて、タクシーは音もなく走り去った。

 ふわりとひとひら、雪が舞い下りた。

「あら遼一、どうしたの?」

 何でもないと遼一は口の中でごにょごにょ言った。

「純香ちゃんって、いけすかないコだと思ってたけど、話してみるといい娘ねえ。あたしのこと『お母さん』って」

 社長候補との顔合わせのため、母は頼まれて純香に和服を着付けてやった。

 母は執念深いところはあるが、根が悪人ではない。乗り込んできた後妻を、「母」と呼べば喜ぶに決まっている。純香の一勝だ。

 母は純香の着物姿を褒めた。

「純香ちゃん、色白だから、ピンク色がよく似合うわ」

 遼一の返事を待たず母は続けた。

「本当は髪も結って送り出したいとこだけど、あの艶髪をあえて下ろしているのも、若々しくて悪くないわね」

 遼一は離れの玄関の前で、人形のような姉の姿を追った。タクシーは通りへ出て曲がり、とうに視界から消えていた。
 


 寒い中遼一は離れを出て、うろうろと敷地を歩き回った。冷たい風に頭をスッキリさせるのだと心の中で理由をつけて。

 何度出てきても作業場に明かりは灯らなかった。

 ある夜、遼一はふと予感がして、居室の窓から裏庭を見下ろした。蛍のような明かりが庭を横切った。

 遼一はぐっと唇を噛みしめ、今すぐ走り出したい衝動と戦った。数分の葛藤ののち、遼一はクローゼットから上着を取り出していた。

 嫌われていてもいい。憎まれていてもいい。

 どんな感情でもいいから、純香がもし、もし感情を持っていて、ぶつける相手がいればそれを外に出せるというなら、出して欲しい。吐き出して見せて欲しい。ぶつけられる痛みは引き受ける。

 あの日、遼一は純香ににらまれて、心の底では悲しいと感じていたはずだ。

 自分もその悲しみを表に出せない人間だった。

 感情は受け取ってくれる相手にしか表せない。誰も遼一の感情を、感じたままの遼一の感情を受け取ってはくれなかった。だから心を閉じたのだ。それは純香も多分同じ。

 周囲のひとの受け取りたがる感情を先取りして発することに倦いて、それを自分のものとして発することが虚しくて、純香も心を閉じたのだと思った。

 純香は自分にだけは、感じたままの感情をぶつけてくれていい。

 自分はいずれこの狭い世界からいなくなる。自分なら利害関係もない。血の鎖も断ち切ってやる。

 彼女がどんな思いを持っていても、それをどこにも漏らさずに、抱えたままここを去る。そうすることで自分の存在を償うことができるなら。

 遼一はノックもせずに作業場の扉を開けた。

 遼一はそのときどんな表情をしていたのだろうか。

 純香はゆっくりと顔を上げた。

 そして、言った。 

「あんた、死にたいって思ったことある?」

 すぐには答えられなかった。

 純香の白い頬は向こう半分がストーブの炎に照らされてオレンジ色に輝いていた。炎は揺らめいて強まったり弱まったりした。

 風が煙突から吹き込んで、ゴーッという音とともに炎が一瞬眩しいほどに強まった。純香の黒い瞳にも炎は映り込んでいた。子供の頃に図鑑で見た石にこんなのがあった。

 半透明な漆黒の宇宙に、近く、遠く、星が浮かびいろんな色の光を放っている。

 あれはブラックオパールだったろうか。

「ないですけど……」

 本当だった。

 遼一は自分が望まれて産まれてきたのとは少し違うことを知っていた。だが自分が存在してしまったことは変えられないし、自分がこの世に発生した経緯は本質的に自分とは無関係だ。

 だから自分の存在を消してしまいたいと感じたことはない。大人になったら、自分をこの世に産み出した環境から充分に離れてしまえばいいだけのことだ。

 純香は続けた。

「あたし、前に考えたのよ。死んでるってどういうことだろうって」

 純香は遼一を叩き出したりはしないようだった。遼一は遠慮がちにソファの肘かけに腰を下ろした。

「死んでるってどういうことだろう。死体は歩かない。ものも言わない。多分やりたいことがないんだと思う。ひとは死ぬと、そこにはもう意志がなくなってしまうのよ」

 死ねばそこに意志はない。それはそうだろう。

 遼一は離れに引越して来た日の夜を思い出した。遼一は母の言動に、先妻さんの魂へ向けた勝利宣言を感じ取った。

 自分たちの自然な感覚として、死体や骨に意識があり続けるとは思わない。故人の意志は肉体の軛から解放され、しばらくその辺りを浮遊したのち、別の世界へ旅立っていく。

「あたしはね、歩いて行きたいところがない。言いたいこともない。やりたいことも別にない。死体と同じ」

 心臓をギュッとつかまれた。

 再び呼吸ができるようになって、遼一は恐る恐る純香の顔を見た。純香はふっと薄く笑った。

「そっか。もう死んでるんだから、これでいいんだと思ったらスッとしたわ」 

 そう言って笑った純香の目はガラス玉のように虚ろだった。

 なんて悲しいことを言うんだろうと遼一は思った。

「どうしてそんなことを言うの?」

 遼一の声は震えていた。

「え……なんであんたが泣くわけ?」

 純香は驚いて目をみはった。

 感情、だ。

 純香は抱えた膝に顎を載せ、投げやりにまた笑った。

「もらい泣きしちゃうほど泣ける話だった? だったらあたしのトークも満更じゃないね」

 声優にでもなろうかしら。

 投げやりにそううそぶく純香の心は、どんなにか傷ついているだろう。

 純香の白い指が近づいてきて、遼一の目の際を拭った。華奢な指は冷たかった。遼一は震える声で純香に尋ねた。

「純香さんの、自分の人生はいつ始まるんですか」
「自分の人生? ないわ、そんなの」
「どこかへ逃げたらいいじゃないですか」

 遼一は鼻をすすり、呼吸を整えた。純香はまた感情のこもらない声で答えた。

「逃げる? どこへ? やりたいこともないし、行きたいところもないのよ」

 本当に? 生きているひとりの人間が、やりたいことがひとつもないなんて、そんなことがあるだろうか?

「やってみたいこと、何かひとつでもあるでしょう」

 遼一は純香の心の深いところに押し込まれた、本当の純香の気持ちを見せて欲しいと願った。もう純香自身にも見つけられなくなっているのでなければ。

「やってみたいこと」

 純香の瞳の色が変わった。半透明の覆いが消えた。

「そうね、ひとつだけあるわ」

 純香の瞳が恒星のようにきらめいた。その輝きに遼一の魂は吸い取られた。目が離せない。

「あたしに与えられたこのくそみたいな人生を、叩き壊してやりたい」

 純香の細くて白い指が、遼一の咽元を捉えた。



 狭いソファの上で、ひとつブランケットにくるまって。

 ふたりは時折ゴーッというストーブの音を聞いていた。

 純香の肌はなめらかで、触れているだけで遼一を夢見心地にした。

「純香さん。俺さあ、純香さんのことが好きだよ」

 遼一は純香の背をそっと撫でながら呟くようにそう言った。

「あらそう。あたしは別に好きじゃないわよ」

 純香の答えはにべもない。

「うん、知ってる。いいんだそれで」

 遼一は熱い何かに胸を灼かれながらまぶたを閉じた。

 いいんだ、それで。

 遼一は自分の腕の中で息づく大切なもの、この世で最も尊い宝物に頬を寄せた。



 期末試験はさんざんだった。模試の順位も校内で百番近く一気に落ちた。

 成績表を鬼のような目で舐めるように読んだ母は、最後に大きくため息をついた。

「お父さんが何て言うか」

 遼一の目の前がぐらりと揺らいだ。

「俺はあんたたちを喜ばせるために勉強してるんじゃない」

 歯を食いしばり、遼一は辛うじてつなぎとめた理性で努めて静かにこう言った。

「勝ち馬に乗りたいか? 冗談じゃない。俺の人生は俺のものだ。あんたがあいつを搾取する梃子として俺を産んだとしても、俺はいつまでも黙ってあんたの道具ではいない」

 母も黙ってはいなかった。男の罵声に怯む女ではない。

「一丁前に偉そうなことをほざいてんじゃないよ、この莫迦。あたしはあんたのためを思って」
「要らねえよ」

 遼一は母の手から成績表をもぎ取って、廊下へ続く居間の扉を勢いよく開けた。その背に浴びせた母の捨て台詞に、遼一の背中は凍りついた。

「ほどほどにしときなさいよ、裏の小屋へ通うのは」

 あんたにしては随分とうまくやったじゃないの。

 母の哄笑が耳に響いた。
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