銀鎖

松本尚生

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三、雨

3ー2

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 夏休みのある日の午後、珍しく悟が頼みごとをしてきた。

「遼一さん、もし時間が空いてたら、図書館に連れてってもらえないかな」

「図書館?」

 探したい本があるのだという。

 仕事にもそろそろ飽きがきていた。気分を変えるのもいいだろう。八月も二週目に入り、そう暑くない日も出てきた。夕涼みがてらの散歩も悪くない。

 遼一が外へ出ようとすると、悟が慌てて車の鍵を持ってきた。

「遼一さん、鍵、鍵」

 まさか歩くなんて言わないよね。そう言って悟は遼一の手を取り、車の鍵を握らせた。

「悟、お前最近横着だぞ。歩いたってせいぜい一〇分かそこらだろう」

 甘やかしすぎたろうか。大体公園のあの辺りは車を止める場所がない。

「一〇分?」

 悟は首をかしげたが、カラクリに気づいて頬を緩めた。

「分かった。遼一さん、いつの話してんの。図書館は随分前に引っ越したんだよ」

 僕、場所分かるから、ナビしてあげる。

 そう言って悟は軽やかに部屋のドアを開けた。

 そうか。

 もう図書館は、あの公園の端にはないのか。

 街の南側、川向こうの住宅地と市街をつなぎ、見たことのない新しい橋が架かっていた。その橋のたもとを、悟の指示で右折した。

 真新しい図書館は、遼一の記憶にある古い木造のものとは似ても似つかない、ガラスをふんだんに使った現代的な建物だった。

 公園の周りにはいくつかの文教施設が並んでいたものだが、その半分は一緒に移転してきたらしい。駐車スペースも充分だった。便利になったものだ。いや、車を所有するものにとってだけ、便利になった。

「へえ……」

 遼一は、広い敷地に立ち並ぶ公共施設と案内版を眺めた。

「そんなに珍しい?」

「ああ。図書館には随分通ったものだったけどな」

「ふーん。その頃図書館ってどこにあったの?」

 遼一は市内でもっとも大きな公園の名前を挙げた。遼一のアパートから一kmも離れていない、街の中だ。

 悟は夏休みの課題に使う資料用と、自分の娯楽用の本を何冊も重そうに抱えてやってきた。遼一は貸し出しカウンターの側のフリースペースで、ロシア語の雑誌をパラパラめくっていた。遼一は雑誌を架台に戻し、悟の腕から全ての本を取り上げた。悟は恐縮して抵抗したが、遼一はそれをあっさり払いのけ、車に積んだ。

 助手席に収まった悟は、遼一を振り返って尋ねた。

「新しい図書館はどうだった?」

「随分と広くなってたよ。自習スペースがあれだけあれば、朝イチから行って席を取らなくても座れるな」

 便利になったもんだ。遼一は嘆息した。

「俺の頃は朝、開館と同時に席を取ってさ。昼メシは公園の売店で食うんだ。焼きそばとか、たこ焼きとか。疲れたらいつでも公園の中を散歩して」

 遼一はそこで口を閉じた。

 十年以上思い出しもしなかった、故郷の記憶。思い出のページを一度開くと、いくつもの情景が次々に浮かび上がる。はしゃいだ子供の声。頬をなぶる風の冷たさ。寒そうな華奢な脚。

「公園の売店には、綿あめを作る機械が置いて……あって……」

 遼一の声が小さくなった。

 遠い昔、この手で壊した美しいひと。

 笑うときっとキレイだと遼一は信じていた。そしてそれはその通りだった。あの公園で、綿あめを作る機械の前で、はしゃいで巻き取った飴の糸。初めて見た彼女の笑顔。長い時間が経ったのに、記憶は息詰まるほど鮮明だった。

「……遼一さん? どうしたの?」 

 急に黙り込んだ遼一を、助手席から悟が心配そうに見上げていた。

 遼一は無言で首を振り、呼吸を整えてから「何でもない」と悟に答えた。

「綿あめって自分で作れるの?」

 悟は心配そうに寄せていた眉を開いて、テンション高めにそう聞いた。

「今もあるかなあ。やってみたいな」

 遼一は上の空で、「もうないだろうな」と答えた。

 悟はそんな遼一の表情を横目で見ながら、「そっか、残念」と呟いた。
 


 夏休みが終わり最初の模試で、悟の英語の点数が大きく伸びた。学年相応の実力が身についてきた。

「遼一さんのおかげだよ」

 よかったーと、ありがとうと。悟の明るい声は、この古いアパートも明るくした。

 夏休み、悟はそのほぼ半分をここで過ごした。ゲームもテレビもない、PCも遼一が仕事で使っているこのアパートでは、勉強と読書しかすることがない。遼一が仕事に飽きて構ってやるまで、宿題を片付けて、問題集を解くしかすることがないのだ。

 遼一は悟に数冊絵本を読ませた。絵本は書店で手に入る限りで、徐々にレベルを上げていった。三冊目を訳し終わったところで、遼一は文法メインの練習問題を選んで与えた。

 授業につまづいた悟だが、この方法だと順調に実力がついた。手取り足取り教えた訳ではないが、外国語の習得法など大体このようなものだ。中学英語のやり直しなど、生徒の理解力に問題がなければ軽いものだ。

 だが内心冷や冷やものではあった。遼一の思考方法と近い個性の持ち主にしかこの方法が通用しないことを、言語研究歴の長い遼一は知っていたからだ。

 そんな訳で、悟は遼一のアパートに入り浸りだった。自然食事もここで摂るか、遼一につき合って外で何か食べるか、自宅での食事回数は減った。

 そのたび遼一は、「家には言ってきたか」とか「自宅に電話しろ」とか、ここだけは口うるさくした。悟は渋々それに従っていたが、食事を外ですることについてはお手伝いさん、電話をかけても出るのは誰なのやら、父母の存在がとにかく薄かった。

「よかったな。ご両親にも報告しろよ」

 成績表を掲げて踊り出しそうな勢いの悟に、遼一はそう言った。

「え」

「『え』じゃなくて」

 遼一は諭すようにこう続けた。

「いくら興味なさそうにしてたって、子供の話は聞く権利があるんだよ、親には」

 悟の瞳から、表情が消えた。

「『権利』? 『義務』じゃなくて?」

 遼一はうなずいた。

「そう、義務じゃなくて。義務はまあ……あるんだろうけど、親の方にも都合ってものがあるから。義務を果たされないと拗ねてもさ、面白くない気分になるだけだろ」

 遼一が子供の頃は、今悟に言ったように思うことで、何とか暮らしていたのだった。母の身勝手な要望を叶えるための道具、母が世間から賞賛されるためのトロフィーだった自分の存在。

 母は遼一の成績にはあんなにうるさく口を出したくせに、世間からの評価に関係しない遼一の生活や趣味には、一切感心を持たないひとだった。何万もするバイオリンは買うくせに、遼一がいっとき好んでいた飛行機のプラモデルは買ってくれないとか。それによって自立心が生まれたので、遼一の成長にはよかったかもしれない。

 そして父は……。父は不在だった。

 が、悟の母はどうだろう。 そして父は。

 今回の模試の結果報告で、きっと親子関係のデータが取れる。悟には可哀想な思いをさせるかもしれないが。

「悟、もう遅いぞ。送っていくか?」

 時計は七時を回っていた。

「うーん、もうちょっと」

 悟は開いた問題集から目を離さずにそう答えた。ノッているときは頭に入る。遼一は冷蔵庫を開け中を確認しながら言った。

「メシ食ってくか?」

「いいの!?」

 悟はぴょんと跳びはねるように顔を上げた。

「ああ。その代わり、家に電話入れろよ」

 自炊歴の長い遼一は、簡単なものならすぐ作れる。食器も少しずつ揃ってきた。

 鍋に湯を沸かしパスタを茹でた。それを鶏肉とセロリと炒め合わせる。コンソメでキャベツを煮てスープもつけた。悟は喜んでそれを食べた。多分自宅ではもっと手の込んだうまいものが用意されるのだろうに。

 食べ終わって、悟はだるそうにため息をついた。

「あーあ、帰りたくないなあ。泊まってってもいい?」

 遼一側に困ることはないが、相手はまだ中学生だ。

「明日学校どうするんだよ。時間割今日と違うだろ」

 悟が納得しやすいように、学校に持っていく教科書の準備から攻めた。「親御さんが」方面よりも、確かに悟には入りやすかったようだ。

「じゃあ、翌日学校のない金曜とか、土曜とかなら?」

「親御さんが『いい』って言ったらな」

「けち」
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