銀鎖

松本尚生

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三、雨

3ー5

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 遼一はエンジンを止めドアを開けようとして、傘を持たずに出たことを悔やんだ。アパートまでの数メートルで、着ているものがびしょ濡れになりそうな降りだった。

 資料かばんを頭上に掲げ、遼一は自室までの数メートルを仰ぎ見た。扉の横に、黒い塊がうずくまっていた。遼一は駆け出した。

「悟!?」

 重いかばんをたすきにかけたまま、遼一の部屋の前で悟が膝を抱えて震えていた。

「……遼一さん」

 顔を上げた悟は冷え切って真っ青だった。遼一は急いで部屋の鍵を回し、濡れたかばんを取り上げながら、悟の肩を抱き起こした。

 悟の細い肩は細かく震えていた。抱き起こした瞬間、悟は吐息とともに何か呟いたようだったが、聞き取れなかった。

「早く身体を温めるんだ。シャワー使って」

 遼一はきびきびと指示したが、悟は人形のように突っ立っていた。遼一は風呂場の扉を開けてやり、悟の腕を取ってそこへ押しこめた。

「かけておくから、制服だけ先に脱いで寄こして」

 遼一が手を差し出しても、悟は風呂場に立ち尽くして応じない。

 濡れた衣服のままでいると風邪を引いてしまう。遼一は悟の胸のボタンに手を伸ばした。悟は抵抗した。子供がいやいやをするような幼い仕草で遼一の手を振り払った。

「干しておかないと、明日学校へ着ていく服がなくなるだろう」

 遼一はそう説いて聞かせた。

「自分でやるから」

 悟は微かにそう呟いた。かじかむ指で不器用に学生服のボタンをはずした。腕を伸ばして待っている遼一に学生服を渡した悟は「向こう向いて」と呟いて、遼一の肩をそっと押した。

 遼一の背後で素肌からズボンを剥がす気配がして、悟は脱いだそれを無言で遼一に手渡した。

「しっかり温まれよ」

 遼一はそう言って風呂場のドアを閉めた。ぼろアパートの、風呂トイレ一体型のユニットバスだが、とりあえず身体を温めるのに支障はない。そこそこ掃除もしてあった。
 
 遼一はぐっしょり濡れた中学校の制服をハンガーにかけ、それを吊す場所を探した。水滴が垂れるほどの濡れっぷりだ。台所の一角を見定め、床に雑巾を敷いてそれを吊した。

 風呂場に悟を残して扉を閉めてから制服をハンガーに吊すまで、二、三分は経ったはずだが、水音がしない。遼一は風呂場の扉を振り返った。

「悟? どうした? 大丈夫か」

 遼一はノックしながら風呂場の扉を開けた。悟は濡れたシャツを素肌に貼りつかせ、バスタブの縁に腰かけたまま、青ざめた唇をかんでじっとしていた。

「駄目だって、早く身体を温めないと。そんな格好でいたら風邪を引くだろう」

 悟は何も言わず、バスタブを握りしめている。

「自分でできないなら、俺が脱がすぞ」

 遼一が悟のシャツに手を伸ばすと、悟は暴れてその手を振り払った。俯いているのでその表情は見えない。遼一の手を振り払い、悟は濡れたシャツの胸許を握りしめた。遼一は諦めてため息をついた。

「じゃあ自分でやりなさい、早く。風邪引くから」

 遼一はそう言い置いて風呂場を出た。

 悟の様子は明らかにおかしい。

(何があったんだ……)

 英語の点数が上がり、三者面談に母親が来るといっていた。それが確か今日だったが、そこで何かあったのか。それとも遼一の知らないほかの何かか。

 三者面談を機に、遼一は悟の家の事情が知れると期待していた。そしてそれは悟をまた傷つけることになるかもしれないと察してはいた。

 やはり、辛い目に遭ってしまったのだろうか。それとも、まさかとは思うが、またいじめが復活したとか。

 悟はこの雨降りに、傘もなく学校からここまで、とぼとぼと歩いてきたに違いない。ぐっしょり濡れて、たまたま外出していた遼一の帰りをひとりで待つ悟の座っていた辺りには、水溜まりができていた。

 戸口でしょんぼりと小さく丸まっていた悟の姿。ひとりで、震えて。

 遼一は再び風呂場を振り返った。まだシャワーの音がしない。

 ノックもそこそこに、遼一は風呂場の扉を荒々しく開いた。

「いい加減にしないか。本当に風邪を引いてしまうぞ」

 悟は胸許を握りしめたまま青白い顔で震えていた。遼一の視線を遮ろうとでもするように、空いた手でシャツの裾を太腿まで引き下ろした。

「脱がされるのもいや、かといって自分でも脱げないなら」

 遼一は業を煮やして身体を伸ばし、悟の背の向こうにあるシャワーの水栓を捻った。

「このまま湯をかけるぞ。どうせ濡れてるんだから同じだろう」

 シャワーヘッドを向こうへ向け、冷たい水が終わるまで支えて待った。遼一の身体の下で、悟が息を呑んで身を固くしたのを感じた。湯温が上がった。

「ほら。もうそのままでいいから、とにかく温かいシャワーを浴びて」

 シャワーカーテンを引けないので、トイレ部分が水浸しになるのはもう覚悟だ。遼一はシャワーヘッドの向きを変え、悟の身体に湯を当てた。

 シャツごしに温かな湯が素肌を流れる。心地よいのか嫌なのか、悟の膝がピクリと震えた。浴室に湯気が満ちた。

「悟? おい、大丈夫か」

 遼一はさすがに心配になり、悟の両肩をつかんで前後に揺すった。

「悟!」

 悟の身体はうるうると細かく震えている。つかんだシャツが生ぬるい。

「悟? 声出ないのか? ん?」

 遼一は肩を揺すり、悟の顔を上向かせた。「うぅ」と悟の咽がくぐもって鳴った。

「どこか痛いのか?」

 遼一がそっとそう訊くと、悟は小さくかぶりを振った。

「どうした……」

 シャワーなのか涙なのか悟の頬は濡れていた。遼一の手の中で、悟の肩が揺れた。

「悟?」

 悟の指がこわごわと遼一に触れた。遼一のシャツの腹の辺りを、細い指の先でそっと握りしめた。悟は白い歯の隙間から小さく何か呟いた。湯音に紛れ、それは遼一の名のように聞こえた。遼一の手の中で悟の体温がふっと上がった。

 シャワーに濡れて悟の上体がひくりと反った。

(悟、お前……)

 遼一はシャワーが叩き続ける悟の顔を見た。痛みをこらえるように眉を寄せ、頼りない悲しげな瞳が濡れていた。

「遼一さん、僕を助けて……」

 悟の震える唇から吐息とともに哀願の言葉が漏れた。小さな小さな声だった。どうしていいか分からないんだ。悟はさらにそう呟いた。湯音に紛れ聞き取れない大きさだった。こうして身体を近づけていなければ。

 遼一の身体のどこかがきしんだ。遼一は悟の両肩をつかんだまま押し殺した声でこう聞いた。

「お前、俺に抱かれたいのか」

 悟は唇を噛んでうなだれた。遼一の鎖骨に悟の頭が当たった。華奢な身体の震えは止まない。遼一は震える悟の顎をとらえ、自分の唇で悟の青い唇の震えを止めてやった。悟の唇の上で、遼一は重ねて問うた。

「キスだけじゃ駄目か」

 悟は微かに首を振り、遼一の指から逃れた。頬を伝うのは涙なのかシャワーか区別がつかない。ガラス玉の瞳が見えた。駄目だ。今手を離したら、またこいつは遠くに行ってしまう。

 悟は小さく肩を丸めて身体を引いた。肩をつかんでいた遼一の手は宙に浮いた。

 逃げていく。今止めないと、遠ざかっていく。ズブ濡れの小鳥は全身から血を流して気を失おうとしている。気を失ってしまったら、二度と生き返らないことを遼一は知っていた。

「分かった。後悔するなよ」

 遼一は離れていった悟の腕をつかみ、自分の胸の中へ荒っぽく引き戻した。

 雨とシャワーの温水で生ぬるい身体に両腕を回し、自身もシャワーに打たれながら震える悟を抱きしめた。悟の冷たい唇が、吐息とともに遼一の名を呼んだ。遼一は息の続く限り悟の唇をむさぼった。

 悟の咽から苦しげな声が漏れた。その響きはだが途方もなく甘く遼一の深いところを刺激した。遼一は悟の身体に巻き付けた腕にさらに力を加えた。悟の細い指が遼一の背をつかみ、そして、だらりと落ちた。

 唇を離してのぞき込んだ悟の瞳は、赤くうるんで生きていた。

 遼一に欲望をのぞき込まれるのが恥ずかしいのか、悟は片手で自分の顔をおおった。遼一は手首をつかんでそれを外した。悟は遼一の手から逃れようと身体をくねらせるが、瞳は濡れて遼一を誘っていた。

 遼一はシャワーの下へ身体を差し入れ、もう一度悟の身体に腕を回した。そして悟の耳に「身体を温めて来い」と吹き込んだ。耳許でささやかれるごとに悟がピクリと反応するのを確かめながら、若い悟にいくつか手順を言い置いた。

 風呂場のドアを閉め、遼一は悟が今度こそシャワーの勢いを強めて、身体を流す音を確認した。遼一のシャツも濡れていた。遼一は風呂場のドアに背をもたせかけたままその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。

(おいおい。マジかよ……)                                        

 悟はまだ十五だ。いや、誕生日は来月だと言っていたので、十四だ。いくら本人が哀れっぽくすがったとはいえ、せがまれて欲望をなだめてやったのだとはいえ、咎められるは遼一だ。

 三人組のいじめに決着をつけたあと、悟は泣いて言ったのだ。

 これで自分はようやく人間になれたと。

 ひとを愛する権利、愛するひとに愛される権利、人間にアプリオリに備わるそれは権利だ。

 十八歳という機械的な切れ目で、愛する、愛される権利は取り上げられたり、与えられたりするものだろうか。それなら、愛されるべき時代に両親に愛されなかった悟の権利はどこにあるのだ。

 与えられるべきものを全て奪われ、感情を失っていた孤独な魂は、何をもって癒やされることができるのか。

 それなら、自分が与えてやる。

 愛情を注ぎ込んでやる。

 満たされて、あふれ出して、悟が許しを乞うまで、存分に。

 幼子を見守る親の愛も、ときめいて見つめ合う恋人の愛も。

 すべて、俺が。

 遼一は立ち上がった。
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