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二、一九九〇年 学院―1
①
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山の春は遅い。
低い木立の枝々を軽く腕で払いながら、暢子は林の中を歩いていた。
四月。新学期が始まるのは少し先だが、広い構内にはすでにひとの気配があった。寮生が戻ってきている。
中高一貫教育が売りの歴史あるこの私立女子校には、全国から生徒がやってくる。各地に散った卒業生が、自分の娘もぜひにと望むからだ。寄宿舎は必須だった。
桜の枝先が、蕾を持ってぽうっと霞んでいた。はにかんでうっすら頬を染めるような春の若枝。それは花開く前の少女の一瞬の恥じらいに似て、暢子はこれを見ると毎年何とも言えぬ居心地の悪さを感じた。
レベルの高いこの学院に、「通学生枠」という一段低い敷居をまたいで入り込んでしまったことも居心地悪い理由のひとつだった。
「学校は地域に開かれているべき」との理念から、学院は毎年一定の人数を地元の少女たちのために割いていた。暢子もこの通学生枠で入学したひとりであり、ほかの通学生とともに麓の自宅から毎日バスでここへ通っていた。
同じ花ならリラの方が暢子は好きだ。暢子がかき分けて進むその細い枝は、桜がすっかり終わったあとに花開く。白やら薄紫、濃紫とさまざまに咲き誇るリラの木々。桜のいやにあだっぽい香りと違い、リラは香りも清冽で、すがすがしい爽やかさが敷地をひゅんと駆け抜ける。暢子の一番好きな季節だった。
中等部の建物から自分の画材を撤収し、大荷物を抱えて暢子は奥の高等部の校舎へ向かっていた。今日この日だけ暢子たちのために、美術室の鍵が開かれている。中等部の美術室を下級生に明け渡すために。
林の中の小径を進むと、寮生たちと幾度かすれ違った。暢子はそのたびに軽く会釈した。見覚えがあるような顔だったので、多分上級生だろう。この林の奥に学寮がある。
上級生でなくても、寮生はみなどこか大人っぽかった。呼び合うときも名字呼び捨て。「俺」「お前」で話し、話す内容も理屈っぽくて難しい言葉ばかりが出てくる。この学院の伝統らしい。寮で鍛えられるうち、若いがゆえの背伸びにすぐ感染してしまうのだろう。
地元民というだけでうっかり紛れ込んでしまった通学生の暢子は、彼女らの会話についていけない。高邁な精神性を尊び、聞きかじりの哲学論争をがなり立て、狂気のように熱中し、馬鹿をやるときは徹底的に馬鹿になる。そんな思春期特有の自意識と思い込みが、開学当時のまま連綿と受け継がれていた。
もっともここにいるのは経済的に余裕のある家庭のお嬢さま方なのだから、バンカラといってもきれいなものだ。
だが生活の心配がない分、いや、だからこそ、そうした熱っぽいお祭り騒ぎに夢中になることで、自分が苦労知らずの箱入りだという事実を忘れようとするのだ。それは往年の学生たちの事情と、もしかしたらそう変わらないかもしれない。
暢子たち通学生は、学力のみならず、数の上でも寮生たちに敵わない。反目こそしないが、自然と教室の隅で小さくなってしまった。寝食をともにして充満する空気に汚染されないからか。家の経済状態の違いか。地元の人間関係の文脈から切り離されないからなのか。暢子には分からない。
暢子たち通学生は、寮生たちの熱狂から距離を置くしかないことに、引け目を感じていた。通学生枠で入学し、日々世俗とここを往き来する中途半端な自分たち。在家の信者が、世を捨てて信仰に打ち込む聖者を見る目に似ているといえば、言い過ぎだろうか。
高等部の美術室は無人だった。休み中ひとの出入りのない部屋は、つんとする油の匂いに混じってかび臭い埃の匂いがした。窓を開けると、ブラスバンド部のチューニングの音がぷおーと聞こえた。
敷地内には松や樺も交じるが、リラが多い。四月の今はまだ葉も出ていないが、暢子は林の中の細い枝がリラだと知っている。昨年、暢子は満開のリラとブラスバンド部が根城にしている古ぼけた講堂を描いて、学生展に入賞した。
美術室の床いっぱいに、巣立っていった卒業生の手になる盛大な落書きが踊っていた。暢子はその図案を眺めた。
天使が羽を広げ、挑発的なポーズで月に手を伸ばしている横で、暢子も知っている美術教師がむっつりと腕を組んでいる。団子のように仲良く並んだ少女たちの自画像の上から、聖女が微笑んで見下ろしている。学院の正門を入ってすぐのところで、いつもわれわれを見守っている守護聖女の像だ。そうしたごちゃごちゃしたポップな絵の端々に書き込まれた警句。
「全部ウソ。明日来る鬼だけがホント」
「世界は情感的には中性である」
「そしてそれはもう快楽の主体ではない」
「君はそいつをもう一度英雄にしてやりたいか」
暢子はため息をついた。これを消すことが、暢子たち新入部員の初仕事になりそうだ。
先輩たち、画材は何を使ったのだろう。
暢子は屈んで美術教師の肘の辺りを指でこすってみた。
暢子は絵を描いている時間が好きだった。熱病に冒されたようなこの学院の特殊な空気の中で、キャンバスに向かっているときだけは、通学生も寮生もなく、ただの田崎暢子でいられた。
リラの咲きこぼれる枝の影から、長い髪の少女が現れる。そんな構図、動きがあっていい。あまりに「マンガ的」すぎるだろうか?
新学期が始まって少ししたら、夏の終わりに出展する作品に取りかかる。このとき暢子が頭に浮かべた構図、その中央にはめ込む少女は、誰にモデルを頼もうか。暢子は友人たち数人の姿を思い浮かべた。どれもイメージからは遠かった。
暢子は指先をこすりながら立ち上がった。窓際の、あちこち絵の具汚れの染みついた流しで手を洗った。ふと何かを感じ、暢子は外を見た。リラの枝がそよそよと動いた。
構図を考えるあまり、幻覚を見たかと思った。
リラの枝を片手で押しやりながら、こちらへと歩いてくる。
リラの精。
低い木立の枝々を軽く腕で払いながら、暢子は林の中を歩いていた。
四月。新学期が始まるのは少し先だが、広い構内にはすでにひとの気配があった。寮生が戻ってきている。
中高一貫教育が売りの歴史あるこの私立女子校には、全国から生徒がやってくる。各地に散った卒業生が、自分の娘もぜひにと望むからだ。寄宿舎は必須だった。
桜の枝先が、蕾を持ってぽうっと霞んでいた。はにかんでうっすら頬を染めるような春の若枝。それは花開く前の少女の一瞬の恥じらいに似て、暢子はこれを見ると毎年何とも言えぬ居心地の悪さを感じた。
レベルの高いこの学院に、「通学生枠」という一段低い敷居をまたいで入り込んでしまったことも居心地悪い理由のひとつだった。
「学校は地域に開かれているべき」との理念から、学院は毎年一定の人数を地元の少女たちのために割いていた。暢子もこの通学生枠で入学したひとりであり、ほかの通学生とともに麓の自宅から毎日バスでここへ通っていた。
同じ花ならリラの方が暢子は好きだ。暢子がかき分けて進むその細い枝は、桜がすっかり終わったあとに花開く。白やら薄紫、濃紫とさまざまに咲き誇るリラの木々。桜のいやにあだっぽい香りと違い、リラは香りも清冽で、すがすがしい爽やかさが敷地をひゅんと駆け抜ける。暢子の一番好きな季節だった。
中等部の建物から自分の画材を撤収し、大荷物を抱えて暢子は奥の高等部の校舎へ向かっていた。今日この日だけ暢子たちのために、美術室の鍵が開かれている。中等部の美術室を下級生に明け渡すために。
林の中の小径を進むと、寮生たちと幾度かすれ違った。暢子はそのたびに軽く会釈した。見覚えがあるような顔だったので、多分上級生だろう。この林の奥に学寮がある。
上級生でなくても、寮生はみなどこか大人っぽかった。呼び合うときも名字呼び捨て。「俺」「お前」で話し、話す内容も理屈っぽくて難しい言葉ばかりが出てくる。この学院の伝統らしい。寮で鍛えられるうち、若いがゆえの背伸びにすぐ感染してしまうのだろう。
地元民というだけでうっかり紛れ込んでしまった通学生の暢子は、彼女らの会話についていけない。高邁な精神性を尊び、聞きかじりの哲学論争をがなり立て、狂気のように熱中し、馬鹿をやるときは徹底的に馬鹿になる。そんな思春期特有の自意識と思い込みが、開学当時のまま連綿と受け継がれていた。
もっともここにいるのは経済的に余裕のある家庭のお嬢さま方なのだから、バンカラといってもきれいなものだ。
だが生活の心配がない分、いや、だからこそ、そうした熱っぽいお祭り騒ぎに夢中になることで、自分が苦労知らずの箱入りだという事実を忘れようとするのだ。それは往年の学生たちの事情と、もしかしたらそう変わらないかもしれない。
暢子たち通学生は、学力のみならず、数の上でも寮生たちに敵わない。反目こそしないが、自然と教室の隅で小さくなってしまった。寝食をともにして充満する空気に汚染されないからか。家の経済状態の違いか。地元の人間関係の文脈から切り離されないからなのか。暢子には分からない。
暢子たち通学生は、寮生たちの熱狂から距離を置くしかないことに、引け目を感じていた。通学生枠で入学し、日々世俗とここを往き来する中途半端な自分たち。在家の信者が、世を捨てて信仰に打ち込む聖者を見る目に似ているといえば、言い過ぎだろうか。
高等部の美術室は無人だった。休み中ひとの出入りのない部屋は、つんとする油の匂いに混じってかび臭い埃の匂いがした。窓を開けると、ブラスバンド部のチューニングの音がぷおーと聞こえた。
敷地内には松や樺も交じるが、リラが多い。四月の今はまだ葉も出ていないが、暢子は林の中の細い枝がリラだと知っている。昨年、暢子は満開のリラとブラスバンド部が根城にしている古ぼけた講堂を描いて、学生展に入賞した。
美術室の床いっぱいに、巣立っていった卒業生の手になる盛大な落書きが踊っていた。暢子はその図案を眺めた。
天使が羽を広げ、挑発的なポーズで月に手を伸ばしている横で、暢子も知っている美術教師がむっつりと腕を組んでいる。団子のように仲良く並んだ少女たちの自画像の上から、聖女が微笑んで見下ろしている。学院の正門を入ってすぐのところで、いつもわれわれを見守っている守護聖女の像だ。そうしたごちゃごちゃしたポップな絵の端々に書き込まれた警句。
「全部ウソ。明日来る鬼だけがホント」
「世界は情感的には中性である」
「そしてそれはもう快楽の主体ではない」
「君はそいつをもう一度英雄にしてやりたいか」
暢子はため息をついた。これを消すことが、暢子たち新入部員の初仕事になりそうだ。
先輩たち、画材は何を使ったのだろう。
暢子は屈んで美術教師の肘の辺りを指でこすってみた。
暢子は絵を描いている時間が好きだった。熱病に冒されたようなこの学院の特殊な空気の中で、キャンバスに向かっているときだけは、通学生も寮生もなく、ただの田崎暢子でいられた。
リラの咲きこぼれる枝の影から、長い髪の少女が現れる。そんな構図、動きがあっていい。あまりに「マンガ的」すぎるだろうか?
新学期が始まって少ししたら、夏の終わりに出展する作品に取りかかる。このとき暢子が頭に浮かべた構図、その中央にはめ込む少女は、誰にモデルを頼もうか。暢子は友人たち数人の姿を思い浮かべた。どれもイメージからは遠かった。
暢子は指先をこすりながら立ち上がった。窓際の、あちこち絵の具汚れの染みついた流しで手を洗った。ふと何かを感じ、暢子は外を見た。リラの枝がそよそよと動いた。
構図を考えるあまり、幻覚を見たかと思った。
リラの枝を片手で押しやりながら、こちらへと歩いてくる。
リラの精。
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