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2、ハニー・ビー・カフェ

ガラス張りの明るい「カフェ」じゃなきゃ

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 向かいの美容室「ラ・シュヴゥ」の店主河野が、入ってくるなり「今日はマスター、ストレートのオススメある?」と言った。相変わらずの仏頂面だ。

「いらっしゃいませ……そうですね、カスガさんからおいしいマンデリンが入りましたけど」

「じゃ、それちょうだい」

「かしこまりました」

 河野はすみれの奥のボックス席に陣取った。胸ポケットからタバコを出そうとして、栗田さんに止められた。

「先生……それはマズイですぜ」

「むぅ。禁煙か。どこもかしこも世知辛い世の中になっちまったぜ」

「仕方ありませんやな……法律だってぇんですから……」

 栗田さんも喫煙者だった。ふたりして世の健康志向をひとくさり嘆いている間に、マンデリンが落とし終わった。

「お待たせいたしました。マンデリンです」

「おぉ」

 河野は仕事柄いつもオシャレな格好で、四十代前半に見えるが多分後半、五十行っているかもしれない。

 腕がよくて儲かっており、時折店をスタッフに任せて、こうしてやや単価の高いものを注文してくれる。

 個人商店が沈んでいく地元商店街にとって、活気をもたらしてくれる貴重な店だ。あやかりたい。

 河野は苦味の強い豆を味わって、深く息を吐いた。

「うまいね、マスター」

「恐縮です」

 ブレンド一杯で何時間もおしゃべりする常連が多い中で、貴重なお客さまだが。

 河野はカウンター内に引っ込んだ貴広に、ギロリと丸い目を向けた。

「マスター、HBCの提案、渋ってんだって?」

「は」

 ごいんきょと栗田さんが、「HBCとは一体何のことでございましょうな」「そりゃアレじゃないですか……? 例のアノ」「ああ、頭文字を取ってHBC」などと小声でやり取りする。

「そんな……『渋ってる』だなんて、ひと聞きの悪い」

 貴広は頭を掻いた。

 河野はさらに目をギョロリと剥いた。

「ウチもさあ、予約制にしてはいるけど、待ちが発生する日もあって。そばに入りやすいカフェがあると、待っててもらうのに都合いいんだよね」

「はあ」

「俺たちにはそりゃ、昔ながらの喫茶店は居やすいよ。俺も先代マスターの頃からずっとここだ。でもさあ、若い女性にはダメなんだよね。ガラス張りの明るい『カフェ』じゃなきゃ」

 そんなことを言われても――。

 ケンカを売られている。

 客商売のこと、売られたケンカを買うこともできず、貴広は黙り込むしかなかった。

「じゃね。ごちそうさま」

 河野は出ていった。

 河野の会計を終え、トレイを持って片付けに向かう貴広は、すみれの同情的な目と目が合った。

(なんでもないんですよ)と言う代わりに、貴広はすみれに微笑んだ。

 ホント、商社マン時代に比べ、こんなもの苦労のうちにも入らない。

「……あの方は、腕は大層よろしいのですが、まあ少しヘンクツなところがおありになりますのですよ」

 ごいんきょが取りなすようにそう言った。

 貴広は笑顔で首を横に振った。
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