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第十一話
しおりを挟む憂鬱なテスト期間を終えて入った夏休みの一週目、紗枝は冬木のマンションにいた。
冗談半分でねだってみた画集が手の中にある。
買ってやると言ってから三日後、本当に手渡されたそれは丁寧にラッピングが施された、まさしくプレゼントといった体だった。
昔から欲しいと思いながらも他の本にばかり気を取られて買えずにいた品は、開けてみるときちんとビニールで包装されており、新品であることが窺えた。
嬉しくて何度も買ってくれた冬木と注文してくれた新見へお礼を述べた。
しかし高価なこの本を家族に見られれば不審に思われるだろう。
それ故に画集は冬木のマンションに置いておくこととなった。
そのお陰か紗枝は二日か三日に一度のペースでマンションへ足を運ぶようになり、冬木達と顔を合わせる回数も必然的に増え、結果共に食事を摂ることも当たり前になりつつあった。
今日も例に漏れず、ソファーの上で膝を抱えるような体勢で画集を眺めている。
「ねえ紗枝ちゃん、それ面白いのー?」
持ち込んだゲーム機で遊んでいた松田がテレビ画面から振り返る。
「面白いと言うか綺麗ですね」
「ええっ、本気で?なんかその絵コワーイ…」
示された先にある絵はモノクロで描かれている。
朽ちた廃墟に骨と皮だけになった人間のようなものが大量に混ざり合い、無機質な冷たさと異様な雰囲気を醸し出す、確かにホラー系の絵だった。
画集の中身は基本こんな絵ばかりだ。
「‘終焉の画家’って呼ばれるくらいですからね。でもこういう退廃的な死を連想させる絵が好きなんです。時々、世界がこんな風に滅びてしまったら素敵なのにって思います」
輝かしい生者の消え失せた死後の世界。
色味もなく、希望もなく、あるのはただどこまでも続く荒野と廃墟、人であったモノの成れの果て。やがてはそれらも風化して砂に還って行く様を眺め、そうして最期は自分も地に横たわり美しい死の一部になれたら言うことなしだ。
「もしかして紗枝ちゃんって終末モノ好きー?」
「はい。人間がいなくなって段々朽ちて行く廃墟や荒廃する世界って美しいと思いません?」
「うーん、オレは今が一番好きだなー」
「確かに松田さんはそんな感じですね」
今と言う時を常に楽しんで精一杯謳歌している。よく話すようになってから、そういう人なのだと分かってきた。
その横でゲームの分厚い攻略本を読み込んでいる藤堂さんは逆に先を大切にするタイプに見える。
正反対だからこそウマが合うのかもしれない。
そんなことを考えていると玄関の鍵が開く音がした。
廊下へ顔を向ければ少しして冬木と新見がリビングに入って来た。
「おかえりなさい」
のんびり声をかける紗枝の後ろで松田と藤堂の二人は「お疲れさんです」と頭を下げる。
それに「また出る」と短く返事をした冬木はジッと見つめてくる紗枝に気が付き、動きを止め、無遠慮な視線にあえて全身を晒すように立った。
画集をローテーブルに置いてソファーから離れ、紗枝は冬木の目の前に立つ。
右目を閉じて左目だけで頭の天辺から爪先まで見ると唐突に口を開いた。
「脱いでください」
欠片も色気のない淡々とした声に従って冬木はスーツを脱ぐ。
ベストとワイシャツを新見へ渡して上半身が露わになると、そこで紗枝はストップを入れた。ズボンまで脱がずとも傷が視えた。
一旦右目に戻すと目の前にある逞しい体に彫られた刺青に一瞬視線が行く。
右目の状態でグルリと一周してから、再度左目で反対向きに今度はじっくり眺める。
かなりの出血量で視えにくい背中の傷に手を伸ばして血を拭う動作をすると赤の下に隠れていた筋肉や骨があった。しかし幻影だからか紗枝の手に血は付かない。触れるか触れないかの感覚で撫でるように手を動かし、背中全体の傷を確かめる。
正面に戻り、腕を取って片方ずつ持ち上げた。
肩から肘下に視える傷を指先でなぞる。
「刺青を切り取るみたいに皮が剥がされてますよ。他は手首に縛られたような跡と顔の右側に痣がありますけど、一番酷いのは背中です。場所によっては骨が少し見えますね」
頷いて見せると冬木はワイシャツとベストを着込み、厳しい表情でダイニングテーブルへ寄り掛かった。腕を組んで何か考えているようだ。
キッチンに入った新見もテレビ画面の前の二人も沈黙している。
しばし所在なげに立ち尽くしていた紗枝もダイニングテーブルの定位置――いわゆるお誕生日席――に座り、何とはなしに冬木の背中を眺めた。
親子近く歳が離れているけれど、それを感じさせないくらい冬木は背筋が伸びていた。後から新見も同い年だと聞いたが二人とも実年齢より少し若い感じがするし、外見も年を経るというより大人の魅力が出始めた頃というような印象を受ける。
普段のちょっと気怠げな雰囲気も今は鳴りを潜めている。
こうして黙って眉を顰めている姿は威圧的でヤクザっぽい。
でも出会ってから今まで冬木に怒鳴られたり手を上げられたりしたことはない。若干恫喝はあったが無理難題を言われたこともなく、穏やかというには少々語弊があるかもしれないけれども、険悪な状態でもないので怖いと感じたこともない。
それは自分が恐怖と感じるものの方向性にも因るかもしれない。
自他への死というものが紗枝にはピンと来ないのだ。
実際四人もの男女が目の前で暴行を受け、内二人が死ぬ運命を辿ろうとも哀れみすら湧かなかった。
「行くんですね」
時間的には五分かそこらだろう。組んでいた腕を解く冬木にポツリと呟く。
左目に見える傷は服の上からでも分かるほど血を滲ませ、刻一刻とその時が近付いていることから外出に関して取り止める意思がないことを読み取った。
「今日はどうしても外せねぇ用事なんだ」
「そうですか…」
もしも今回の傷で冬木が死ねば紗枝との関係も終わるだろう。
異質な左目の秘密を受け入れてくれる相手がいるというのは存外気楽で楽しい日々だった。
それはともかく死なれたらやっぱり後味が悪いな、などと考えながら穿いていたショートパンツのベルト通しに引っ掛けていたものを外して差し出した。
半ば反射的に受け取った様子の冬木が掌にある十センチにも満たない物に目を瞬かせた。
キーホルダー付きのカバーは下部がマジックテープで開け閉め出来るようになっており、その中身を確認した冬木はやっぱり不可解そうな顔をする。
それもそのはず、黒いカバーの中に入っていたのは黒いケースの口紅だった。
しかし、それは外見だけを見た場合の話である。
「それリップ型の催涙スプレーです」
ここが押す場所でこっちが出る場所、なんて説明するとギョッとされた。
「オイオイ、物騒だなぁ」
「ヤクザと関わりを持つので、もしものために護身用で買いました」
「成る程」
「距離は二メートル弱、短時間しか使えません。使う時は目を細めて息を止めてください。あと、くれぐれも密室で撒き散らさないようお願いします。ベルト通しにつけておけばいざと言う時に便利ですよ」
冬木はリップ型催涙スプレーを手の中で転がした後、カバーに戻すと右後ろのベルト通しに引っ掛け、ベストで覆い隠した。
新見より上着を受け取って素早く着ると冬木達は部屋を出て行った。
すぐに玄関と鍵の締まる音がした。
一度帰宅したのは紗枝に視てもらうためだったのだろう。
残された紗枝は小さく溜め息を零して立ち上がるとキッチンへ向かい、コーヒーなどが入れられている棚から最近開けたばかりのミルクココアの袋を取り出した。
マグカップに粉を分量より少し大目に入れて湯を注ぐと甘い香りが広がる。
冷えていた指先にカップ越しに熱いくらいの熱が伝わってくる。
「紗枝ちゃんって左目のコトで脅されて協力してるって聞いたけど、全然頭のコト怖がったり嫌がったりしないねー?」
ゲームを再開した松田の問いに知らず手が止まる。
確かにそういう気持ちはない。
「脅されたのは最初だけですし、何もされていませんから」
「じゃあ頭のコトどう思ってるのー?」
ココア片手にソファーへ戻ると松田が振り返る。
藤堂は我関せずといった風に本を読んでいるが、耳は傾けているようだった。
「どうとも。でもこうして関わって左目で視た以上、死なれると寝覚めが悪いので出来れば怪我は回避して欲しいとは思っています。だからさっきのもその一環です」
「……クールって言うよりドライな性格なんだねー……」
はあ、と何とも言い難い表情で松田は視線をテレビ画面へやる。
あの催涙スプレーは小さいものの、効き目はかなりあるらしいから、使えば敵を怯ませたり逃げる隙をつくったりくらいにはなるだろう。
要はあれほどの傷を負わされる前に相手に捕まらなければ良いのだ。
ココアに口を付けながらそっと目を閉じる。
瞼の裏には大きな背中に彫られた美しい刺青が残っている。
天女か女神のような人物に恐らく組の代紋だろう桔梗の花が咲き誇っていた。
それが今度は鮮やかな赤で塗り潰され、やがてドス黒くなると眩しい橙色の背景を伴って人影が振り返る。顔は分からない。体格と細さからみて女か、人影の口許が動くと灰色のドアの向こうに消えた。
あるはずのない、バタンという音が聞こえた気がして目を開ける。
窓の外は今しがた見た橙と同じ色に染まっていた。
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