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第十四話
しおりを挟む冬木のマンションへ戻ると紗枝は私服に着替えてホッと胸を撫で下ろした。
汚れがないことを確認してワンピース一式を新見へ渡せば、クリーニングに出した後、このマンションの空いている部屋のクローゼットに仕舞うので好きに着て良いとのことだった。
それに曖昧に頷きながらも、そんな機会はそうそうないだろうと紗枝は思う。
白いTシャツにサスペンダー付きのショートパンツという格好でソファーへ雪崩れ込んだ紗枝の様子に新見が苦笑しつつ、ネクタイを外した冬木と共に出掛けて行った。
こうして一人残されることは時々ある。
でもすぐに松田や藤堂がやって来るんだろう。
それまで一休憩しようと目を閉じた紗枝はすぐに規則正しい寝息を立て始めた。
* * * * *
夢を見ている。
夢の中でそう実感するのは妙な違和感があった。
場所は家、今よりもまだ真新しくて所々に母の好きなキャラクターグッズが置かれていて、父がそういうものをあえて許容しているのだと子供心に知っていた。
母がヌイグルミやキャラクターの皿を買ってくると仕方ないなという顔をしながらも笑って食卓に上がるのを眺めていた父、そんな父の様子にありがとう、なんて嬉しそうに笑う母。
紗枝の食器もキャラクターで統一されたプラスチックの物だった。
楽しげな家族の団欒の場が突然真っ黒に塗り潰される。
目の前から漏れている光は曇りガラスの扉かららしい。
大きな扉の奥をそっと覗き込めばリビングで父と母が言い合いをしている。
父は怒りを滲ませた低い声で、母はヒステリックな甲高い声で互いに罵り合い、まだ言葉の意味を理解していなかった紗枝ですらそれらが良くない言葉だと分かるくらい感情がこめられていた。
「―――、―――――…!」
「――――――!!」
長い間言い争っていた二人だったが、父が腹に据えかねたのか母を平手で叩く。
勢いのまま悲鳴を上げて倒れた母は床に転がっているにも関わらず父の足を蹴る。
とうとう聞こえ始めた空気を震わせる怒号と絹を裂くような叫び声に耳がおかしくなりそうで、幼い紗枝は両手で耳を押さえると自分の部屋へ逃げ出した。
部屋の扉をピッタリ閉め、ベッドの中で布団に包まって小さな自分が怯えていた。
布団に包まっても、耳を閉じても、隙間から聞こえてくる恐ろしい声と音はいつまでも続いている。
朝が来ると父と母は顔も合わせずにそれぞれ仕事へ行き、紗枝は保育所に預けられ、夕方には必ず来てくれていた母の迎えも段々遠退いていった。そういう時は父が来た。
そうして夜遅くには二人は夫婦喧嘩を始めるのである。
そんな光景を繰り返し何度も眺めているうちに夢の中の紗枝は五歳になった。
誕生日のケーキもプレゼントもなく、お祝いの言葉もなかった。
気が付くと一人だった。
気が付くと傷が視えるようになっていた。
最初に変だなと感じたのは同じ保育所の子が腕に絵でも描いたように怪我をしているのに、誰もその怪我について触れないことだった。
「そのけがどうしたの?」
そう聞いた紗枝にその子は「けがなんかないよ」と言って走り去っていった。
翌日、その子が家に帰る途中、母親と乗っていた自転車が倒れて腕を切ったことを知った。
それからよく周りを見てみれば不思議な傷を持つ子や大人が結構いることに気が付いた。
膝を擦った子、指先を切った大人、頭に切り傷のある子、腕に痣のある子。
右目で見るとそれは消えてしまう。
でも左目で見るとそれは現れる。
誰も言わないのはきっと見えていないからなんだ。
人に話してはいけないと子供心に思った。
今度は父と母の喧嘩がパッタリ途絶え、幼かった紗枝は仲直りしたのだと喜んだが、それから一月もせず両親は離婚して母は家を出て行った。
よく晴れた夏の夕暮れ時、一度だけ振り返り、何かを言い残した母。
その後独り身に戻った父は二年ほどはそれでも紗枝の世話をしてくれた。
以前のように笑みを見せてくれることも、遊びに連れて行ってくれることもなく、淡々と保育所の送迎と食事、服などを用意し、それ以外は無関心だったが紗枝はいつか母は戻って来るのだと信じて耐えた。
しかし七歳を過ぎたある日、父が見知らぬ女性を家に連れて来た。
紗枝よりもずっと大きな男の子もいる。
父は紗枝に新しいお母さんとお兄ちゃんだよ、と言ったが紗枝は理解出来なかった。
そのせいか新しい母は紗枝に冷たく、一緒に連れて来た新しい兄ばかり可愛がり、父も自分に懐く兄の方をよく面倒見るようになった。
気が付けば紗枝はまた一人だった。
家中にあったはずのキャラクターモノのヌイグルミや皿などはいつの間にか捨てられて、新しい母が好きだというドライフラワーが飾られるようになり、新しい兄が使うのだという勉強道具や玩具が溢れ返る。
そして紗枝の物はいつしかなくなっている。
母が買ってくれたプラスチックの食器も、父にねだった玩具のネックレスも、お気に入りだったキャラクターのTシャツすら消えてしまった。
食事の時は喋るのは父と義母と義兄だけ。紗枝が会話に加わる前に話が変わったり、切り上げられたりして口を挟む隙がない。四人の食卓でも仲間外れ。
小学生になって一人で登下校出来るようになったら留守番が増えた。
父も義母も仕事に出て、義兄はいつだって紗枝を置いて登下校を済ませるとずっと通っているらしい塾へ行ってしまう。
紗枝は広い戸建ての家に誰かが帰ってくるまで一人ぼっち。
誰かが帰ってきても呼ばれない限りは自室にいる。
学校ではそこそこ友達はいたけれど、毎日遊ぶほど仲の良い子はいない。
故に紗枝は家ではひっそり勉強や一人遊びばかりして過ごしていた。
誕生日だけはどういう訳か義兄はケーキを買って来てくれた。苺の乗ったショートケーキをたった一切れだったけど、それだけは嬉しかった。他にはプレゼントも祝いの言葉もなく、帰ると冷蔵庫に入れられているそれだけが自分の誕生日を思い起こさせるものだった。
父も義母も義兄のすることには何も言わなかったが、何もしなかった。
小学校の卒業式も中学の入学式にも両親は来なかったし、その日を境に食事や洗濯は全くしてもらえなくなったので紗枝は部活動にも入らず帰宅後は洗濯や食事の買出しに時間を費やしていた。
家族との繋がりは家とお金だけになった。
紗枝の中でいつしか家族は同居人になった。
父や義母、義兄の誕生日はレストランで豪勢にディナーを楽しんでいることを後から知ったが、もうその頃には何もかもがどうでも良く思えて悔しさや悲しさは欠片も湧かず、ただそうなのかと事実を受け止めた。
一人で受験勉強をして、一人で高校入試に行って、一人で合格発表を見た。
中学の卒業式も高校の入学式もやっぱり誰も来なかった。
新しい通学路を殊更ゆっくり歩いて帰ったのをよく覚えている。
鍵のかかった玄関扉を開けると、中は相変わらず真っ暗だった。
「オイ」
聞き慣れない声に振り返るとラッピングされた大きな袋を手にした男が立っていた。
一瞬、義兄かと思ったが青みがかった黒髪とダークグレイの瞳に違う人間だとすぐに気が付き、開けかけていた扉のドアノブを掴んだまま黙り込んだ。
動かない紗枝の様子など全く気にしていない男が近付いてくる。
オールバックにした髪に色白の肌、左顎から広がるケロイド状の火傷、キッチリ着込んだスーツに包まれたスラリと長い手足。
その男の後ろにも同じくスーツを着たダークブラウンの髪色の男がいた。
細いシルバーフレームの眼鏡に閉じているような糸目の温和そうな顔立ち。
目の前に立った黒髪の男がラッピングされた袋を差し出した。
「満点取ったご褒美はコレが良いんだろ?」
ほらよ、と渡されたプレゼントを手にした途端に思い出す。
目の前にいるのは冬木東吾と新見愁というヤクザであり、紗枝の左目の特殊さを知って尚付き合いを持つ変わった人々だ。
思わず離した玄関の扉が後ろで重い音を立てて締まる。
抱き締めたプレゼントの袋は大きな本の形にくしゃりと崩れた。
「……ありがとう」
これは夢だと思った。
夢の中でそうだと分かっていても嬉しかった。
紗枝のためだけに買われた本、すぐ解かれてしまうのに丁寧に施されたラッピング、父とは違うハスキーボイスが満足にククッと笑う声。
本当はこういうのが夢だった。
誕生日はお祝いしてもらって、クリスマスは家族でケーキを囲んで、正月は一緒に初詣に行って、テストで成績が良かったらよくやったと褒めてもらう。
そういうあたりまえが、わたしはほしかった。
* * * * *
目を開けるとワッと驚いた声がした。
視界の端にタオルケットを持った松田が驚いた表情で立っている。
見上げた天井は家のものではなく、冬木のマンションのそれだと分かり、意味もなく溜め息が零れ落ちた。
「起きる?」と聞かれて頷きながら上半身を起こすとキッチンに藤堂が見えた。
どうやら自分が寝こけている間に二人が来たらしい。
時刻を確認すると夕方の五時を少し過ぎた辺りだった。
昼間は晴れていた空が今は雲に隠れ、窓の外でシトシト静かに雨が降っている。
きっと雲の裏側では鮮やかな橙色の空が藍色へ変わっていくところだろう。
頭の隅で母が家を出る光景が陽炎のように揺れる。
「ヤクザは人探しって得意ですか」
気付けばそんなことを呟いていた。
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