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第十五話
しおりを挟む事務所に詰めていた冬木は着信を告げる携帯を取り出した。
画面には‘藤堂’の表示があり、一コール、二コールと呼び出し音が早く出ろと言わんばかりに鳴っている。
藤堂はこの白藤会の若い衆の一人で最も年嵩で信用に足る男である。
今は紗枝と同じ若い衆の松田と一緒にいるはずだ。
「おう、どうしたぁ?」
電話に出ると表示通り藤堂だった。
【仕事中すんません、今ちょっといいですか】
「構わねぇよ。むしろヒマしてたくれぇだ」
どうやら藤堂はまだ冬木のマンションにいるらしい。
時刻は二十時ジャスト。
紗枝もまだいるだろう時間帯だ。
何かあったのかと思ったが、そういう訳でもないようだ。
藤堂の話によれば紗枝が突然人を探したいと言い出したそうで、一応諌めてみたものの、頑として譲らないので冬木に連絡したということだった。
一ヶ月以上の付き合いの中でも全く我が侭を言わなかった紗枝にしては珍しい。
電話を代わるよう言えば傍に居たのかすぐに紗枝が出た。
【こんばんは。やっぱりお仕事に関係ない人探しはダメですか?】
いつも通りの淡々とした口調だった。
冬木は椅子に深く腰掛けると後ろにある代紋へ振り返る。
「出来ねぇ事はねぇが、誰を探すってんだ?」
【母です】
ちょっと間を置いて冬木は紗枝の家庭事情を思い出した。
確か紗枝の両親は離婚し、今いる母親は父親の再婚相手――つまり義母だ――である。しかしその義母は家にいるのだから、彼女が探したいと思っている人物は恐らく実母だろう。
「今更母親なんか探してどうすんだよ」
【………分かりません。会いたいのか会いたくないのかすらよく分からないんです。でもどうしても会って確かめたいことがあるんです】
どこか気落ちした風にも聞こえる声にしばし考える。
ヤクザのツテを使えば探すことは出来るかもしれないが、全く関係のない一般人を探し出したところで何か利益がある訳でもない。
紗枝が一体何を思っているのか冬木にはサッパリ分からなかった。
【もしお金が必要なら貯金を崩します。足りなければ、今後左目を使う分から差し引いてもらっても構いません。こんなことはこれっきりにするので、お願いします】
電話の向こう側で頭を下げていそうな声に溜め息を漏らす。
「分かった、探してやる」
【…本当ですか?】
「ああ」
純粋に驚いた声が耳朶を打つ。
それはたまには我が侭の一つくらい聞いてやっても良いかという気にさせた。
冬木はメモ帳とペンを手に紗枝の母親について聞いた。
が、もう十二年も前のことだからか大分曖昧だった。
名前も下しか分からない、旧姓も知らない、顔も覚えていない、どこへ行ったかも分からない、どんな仕事をしていたかも分からない。
これが実の母親について語る娘の言葉とは思えない。
とりあえず分かる範囲のことを聞き終えた冬木は通話を切った。
「新見ぃ」
声を上げれば階下から自分付きの部下が上がってくる。
「はい、何でしょうか」
「コイツを探しとけ。紗枝の実の母親だとさ」
「はあ…?」
突拍子のない仕事に新見は上手く呑み込めなかった様子で目を瞬かせた。
差し出したメモ用紙を手にしばし逡巡していたようだが、すぐに意識を切り替えたのか、一つ頷くと胸ポケットにそれを仕舞う。
旧姓や現住所が分からないなら戸籍から辿ればいい。
そっちのツテも少なからずあるので少々時間はかかるかもしれないが出来るだろう。
懐から取り出した煙草に火を付けながら冬木は頬杖をついた。
* * * * *
冬木に実母の捜索を頼んでから二週間、もうすぐ八月の上旬を過ぎるかどうか。
暑い気温と差し込む日光の下をじんわり汗を滲ませた紗枝は歩いていた。
肩には勉強道具一式がはいったトートバッグがかけられている。
今日は冬木のマンションへ行く日ではない。
別に行っても良いのだが、行って何かすることがあるかと問われたら全くないので紗枝は残った課題を済ませてしまおうと昼食後に図書館へ向かっていた。
図書館なら冷房も程好く効いているし、静かで勉強に集中できる。
熱されたアスファルトの向こうに逃げ水が現れるくらい暑い。
気温は裕に三十度を越えているだろう。
……やっぱり家でやれば良かったかな。
家も人がいないし、自分の買ったものであれば好き勝手に飲食可能で気楽だ。何でいきなり図書館に行こうだなんて思い立ったのだろうか、少し前の自分に呆れて一度立ち止まる。
家からの距離と図書館までの距離を考えた。
図書館はすぐそこである。
ここまで来てやっぱり止めて帰ろうというのも何だか癪だ。
歩き出そうとした紗枝の横に後ろから走ってきた黒いハイエースが急停車し、バッとドアが開いたかと思うと両脇を抱えられるように車内へ引きずり込まれ、ドアが閉まって車が発進する。
この間、僅か三秒足らずの出来事だった。
トートバッグを手離しベルト通しに付けた新しい催涙スプレーを掴もうとして気付く。
自分を抱えているのは藤堂で、運転しているのは松田。
「は? ……え?」
マジマジ見遣れば藤堂が申し訳なさそうに手を離す。
「すんません、頭の指示でやりました」
「拉致大成功ー」
後ろのシートに座らされて我に返る。
何がどうしてこうなった?
というか、何故いきなり誘拐紛いな迎え方をされたのか。
「色々言いたいことはあるんですけど、大丈夫ですか?今の誰かに見られたらどう見ても人攫いに遭っていると勘違いされますよ?」
「大丈夫だよー。人いなかったし、あの辺防犯カメラもないから目撃者なーし」
「……そうですか」
それは計算した上でやったということか。
溜め息を零しながらシートベルトを締めた紗枝に松田がカラカラと笑う。
あっけらかんとしたそれに怒る気も失せた。
不貞腐れ気味にフルスモーク越しの車窓を眺めつつ、どこに向かうのだろうとぼんやり思った。冬木のマンションの方向でないことだけは分かった。
紗枝が黙っているからか、それとも元々話すことがないからか、車内は静まり返っている。
そのうち知らない場所を走る車が裏通りへ入っていく。
いくつか交差点を曲がったけれども道順なんて覚えていない。
キッと控えめなブレーキ音と共に景色が止まる。顔を前へ戻せばドアを開けた藤堂が少し困ったように眉を下げた表情で紗枝に振り返ったが、何も言わずに外へ出て行った。
続いてハイエースから下りると松田が運転してどこかへ行ってしまう。
降りた先にあったのは雑居ビルの一角にある裏口のような場所だった。
「ここは岡止組白藤会の事務所です」
「白藤会?」
「岡止組の二次団体って言いますか、組長の兄弟分のところです」
中に頭が居ます、と言って藤堂が裏口の戸を開けた。
そこでは数人の男達は談笑しながら煙草を吸ったり携帯を弄ったりと、思い思いにくつろいだ様子でソファーや壁際に座り込み、裏口の目の前にいる紗枝に目を丸くした。
藤堂に促されるまま入るとざわめき出す。
女子高生だとか誰の知り合いだとか興味津々な視線が投げかけられる。
冬木の情婦だと藤堂が言えば、今度は感嘆と羨望の混じった声になった。
男達は誰を見ても厳つい顔立ちや鋭い顔立ちをしていたが、そういう映画の中に入り込んだのだと思えば存外楽しいかもしれない。
二階へ続く階段から足音がしたかと思うと見慣れた人物が下りて来る。
「新見さん」
声をかけるといつも通りの笑顔を返される。
「些か乱暴な迎えを寄越してしまってすみません。携帯が通じなかったので何かあったのではないかと焦りましたよ」
その言葉に、そういえば家を出てすぐに携帯の電源を切っていたことを思い出す。
図書館に行く時は忘れないうちに電源を切るので、今日も家を出た時にいつもの癖で切ってしまっていた。
「いえ、こちらこそすみませんでした。図書館に行く時は電源を切るのが癖で…」
「そうでしたか。何もなくて良かったですが、出来るだけ電源は切らないようお願いします」
「はい、気を付けます」
促されるまま二階へ上がり、扉を開けてもらうと広々とした部屋があった。
まず飛び込んでくるのは岡止組の代紋である桔梗、それからその前にドンと置かれた大きな机と来客用のテーブルと大きなソファーが二つ。冬木は机の方に座っている。
いつかの時のように左手で頬杖をついていた冬木が顎でソファーを示す。
そこへ座れば冬木の傍に来た新見が書類を受け取り紗枝へ手渡した。
数枚の書類は戸籍や住民票のコピーらしく、女性の名前や住所などが書かれていた。
特に戸籍を見た紗枝は驚いた。
そこにあったのは父の名と自分の名、そして現在の母の名であった。ページを巻くっても勿論それは変わるはずもなく、あんな曖昧な情報から本当に探し出せるとは思わなかった。
添付されている写真をジッと見つめる。
父と同じ四十くらいの少し老けた女性が楽しそうに笑っている。一緒に写っているのは今の夫か――…いや、戸籍では旧姓のままのようなので恐らくは彼氏なのだろう。
自分とよく似た顔立ちのそれを眺めるのは不思議な感覚だった。
そして同時に何故父が自分を見ないのかよく分かった。
紗枝は完全に母親似なのだ。
「会いてぇか?」
冬木が低く問う。硬い声だ。
紗枝は少しの間目を閉じて考えた。
そうして一つ頷く。
「……はい、会いたいです……」
その声は微かに震えが混じっている。
それが感動なのか恐怖なのか、紗枝自身にも分からなかった。
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