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第1部:鮮血の王冠
第11話:光の王妃、影の男たち
婚礼の前日、夕暮れ時――。
私は王宮を抜け出し、下町へと向かった。護衛も付けず、マリエだけを連れたお忍びだ。
これが、ロゼノア・デ・ローゼンとして動ける、最後の自由な時間かもしれない。
かつて「貧民街」と呼ばれ、汚泥と腐臭に満ちていたこの場所は、今や見違えるように整備されていた。
私の指示で敷かれた清潔な石畳、整備された水路。
路地裏に咲く小さな花々さえも、私の統治が隅々まで行き届いていることを証明している。
(ここも随分ときれいになったわね)
その整備された路地裏の影で、深くフードを被った男が待っていた。
「……ザック」
私が甘く名を呼ぶと、彼は弾かれたように顔を上げ、私の元へ駆け寄った。
そのまま勢いよく、石畳の上に跪いた。
「……会いたかった。ロゼノア様」
彼は私の手を取り、まるで神像にすがる信徒のように、額を押し付けてきた。
その手は無数の古傷と剣ダコに覆われ、ゴツゴツと硬く、荒っぽい。一方、私の手は白く滑らかで、宝石で飾られている。
決して交わることのない、残酷な身分の対比。
ザックは震える唇を、私の指先に押し付けた。
湿った音が静かな路地に響く。
飢えた獣が、獲物の味を覚えるような、熱く、執拗な口づけだった。
唇は指先から手のひらへ、そして敏感な手首の内側へと這い上がる。
「……はぁ、ロゼノア様……いい匂いだ……」
ザックの荒い鼻息が、薄い皮膚を濡らす。
ざらついた舌先が、脈打つ血管をひと舐めした。ゾクリと、背筋に電流が走る。
「ザック、顔を上げて」
私が命じると、彼は名残惜しそうに唇を離し、ゆっくりと顔を上げた。
その精悍な瞳は、情熱と絶望、そして隠しきれない欲情で揺らいでいた。
「明日……貴女は、俺の手の届かない場所へ行ってしまう」
絞り出すような声。
「あの輝く王宮で、別の男の妻になる。別の男に抱かれ、その身体を……あいつに、好き勝手に……」
「……ええ」
私は彼を見下ろし、哀しげな聖母の微笑みを浮かべた。
「わたくしは聖女として、王なる者に嫁がねばなりません。それは……運命なのです」
「わかっています……! わかっているんだ」
ザックは私の手を、強く握りしめた。痛いほどに。
「この街を救ってくれた貴女に、俺のような裏稼業の人間が触れていいはずがないことも」
彼は私の手首を引き寄せ、その内側に顔を埋めた。
涙で湿った熱い吐息が、肌に直接吹きかかる。
「でも……気が狂いそうだ。貴女が誰かのモノになるなんて……!」
私は、あえて彼を拒まなかった。
空いている方の手で、彼の乱れた髪を優しく梳く。
それは、飼い犬を躾ける主人の手つきだった。
「ザック」
甘く、耳元で囁くように。
「たとえ誰の妻になろうとも……わたくしの心は、いつもあなたと共にあります」
その言葉は、彼にとって甘美な猛毒だ。
決して手に入らないが、突き放されもしない。一生、彼を縛り付ける呪いの言葉。
「……ッ!」
ザックは私を見つめた。
理性の糸がブツリと切れる音がした。
彼は立ち上がり、衝動のままに腕を伸ばす。
そして――私を、強く抱きしめた。
「ロゼノア様……! ああ、ロゼノア様……ッ!」
逃れられないほど力強い腕。
革と鉄、そして荒っぽい男の匂いが私を包み込む。
ドレス越しに、彼の隆起した筋肉と、熱く昂ぶった身体の感触が伝わってきた。
私は抵抗しなかった。
ただ静かに、ザックの首に手を回し、背伸びをして頬に口づけた。
(可哀想な子……)
ザックの腕から、力が抜けた。
彼は、ゆっくりと、名残惜しそうに身を離し、頬に手を当てた。私の唇が頬に触れたことが信じられない、という目で見つめている。
「……ロゼノア様」
彼は一歩下がり、再び深く平伏した。
「俺は影になります。……光り輝く貴女の足元に広がる、もっとも濃い影に」
「……」
「貴女の敵を喰らい、汚れ仕事を全て引き受ける。……生涯、貴女のためだけに生きて、死にます」
誓いの言葉は、愛の告白よりも重く、熱かった。
(……この男は一生、私のために地獄を這う覚悟を決めたのね)
*
ザックと別れ、路地を出ると――
日は落ち、あたりはとっぷりと濃厚な闇に包まれていた。
その物陰に、見覚えのある黒髪の騎士が立っていた。
「ユリウス?」
「……ロゼノア様。護衛も付けず下町に来られるのは危険です」
「あら、心配してくれたの?」
私は、少しだけ笑った。
「貴女をお守りするのが、私の仕事ですから」
ユリウスの声は、いつも通り冷たく、生真面目だった。
だが、その視線は粘りつくように私から離れない。
「……いよいよ、婚礼ですね」
ユリウスが、低く言った。
「ええ」
私は、頷いた。
「……おめでとうございます」
その言葉は、静かだが、わずかに震えていた。
祝福の言葉なのに、まるで告別のような響き。
「ありがとう、ユリウス」
私は、彼の漆黒の瞳を見つめた。
ユリウスは、私を見つめ返している。
その瞳の奥には、騎士の規律で必死に抑え込んだ、焼けつくような劣情が揺らめいていた。
もし今、私が「抱いて」と言えば、この男は全てを捨てて私を犯すだろうか。
沈黙。
夜風が二人の間を通り抜ける。
私の香りが、彼の鼻先を掠めたのだろうか。ユリウスの喉仏がゴクリと動いた。
そしてユリウスが、一歩、私に近づいた。
右手が、わずかに動く。
私に触れようとしたのか、それとも引き止めようとしたのか。
その指先は、私の頬に触れるか触れないかの距離で震えている。
だが、そこには永遠に越えられない身分の壁があった。
ユリウスは、血が滲むほど拳を握りしめ、自分自身を殺すようにそっと手を下ろした。
「……失礼いたしました」
ユリウスの声は、酷く掠れていた。
「私は、これからも騎士として、貴女と陛下をお守りいたします。……この命ある限り」
「ええ、頼りにしているわ」
私は、そう言って、ユリウスの傍を通り過ぎた。
その時。
ドクン――。
(ユリウス……)
胸の奥が、わずかに疼いた。
(……気のせいよ)
私は首を振り、その疼きを無視した。
私に愛など必要ない。必要なのは、忠誠と支配だけだ。
後ろを歩くマリエが、そっと私の肩にショールをかけてくれた。
「お体が冷えます、ロゼノア様」
「ありがとう、マリエ」
私は王宮への帰路についた。
背後の闇に、二人の男の行き場のない情熱を置き去りにして。
明日は、戴冠式、そして婚礼。
私の、本当の支配が始まる。
私は王宮を抜け出し、下町へと向かった。護衛も付けず、マリエだけを連れたお忍びだ。
これが、ロゼノア・デ・ローゼンとして動ける、最後の自由な時間かもしれない。
かつて「貧民街」と呼ばれ、汚泥と腐臭に満ちていたこの場所は、今や見違えるように整備されていた。
私の指示で敷かれた清潔な石畳、整備された水路。
路地裏に咲く小さな花々さえも、私の統治が隅々まで行き届いていることを証明している。
(ここも随分ときれいになったわね)
その整備された路地裏の影で、深くフードを被った男が待っていた。
「……ザック」
私が甘く名を呼ぶと、彼は弾かれたように顔を上げ、私の元へ駆け寄った。
そのまま勢いよく、石畳の上に跪いた。
「……会いたかった。ロゼノア様」
彼は私の手を取り、まるで神像にすがる信徒のように、額を押し付けてきた。
その手は無数の古傷と剣ダコに覆われ、ゴツゴツと硬く、荒っぽい。一方、私の手は白く滑らかで、宝石で飾られている。
決して交わることのない、残酷な身分の対比。
ザックは震える唇を、私の指先に押し付けた。
湿った音が静かな路地に響く。
飢えた獣が、獲物の味を覚えるような、熱く、執拗な口づけだった。
唇は指先から手のひらへ、そして敏感な手首の内側へと這い上がる。
「……はぁ、ロゼノア様……いい匂いだ……」
ザックの荒い鼻息が、薄い皮膚を濡らす。
ざらついた舌先が、脈打つ血管をひと舐めした。ゾクリと、背筋に電流が走る。
「ザック、顔を上げて」
私が命じると、彼は名残惜しそうに唇を離し、ゆっくりと顔を上げた。
その精悍な瞳は、情熱と絶望、そして隠しきれない欲情で揺らいでいた。
「明日……貴女は、俺の手の届かない場所へ行ってしまう」
絞り出すような声。
「あの輝く王宮で、別の男の妻になる。別の男に抱かれ、その身体を……あいつに、好き勝手に……」
「……ええ」
私は彼を見下ろし、哀しげな聖母の微笑みを浮かべた。
「わたくしは聖女として、王なる者に嫁がねばなりません。それは……運命なのです」
「わかっています……! わかっているんだ」
ザックは私の手を、強く握りしめた。痛いほどに。
「この街を救ってくれた貴女に、俺のような裏稼業の人間が触れていいはずがないことも」
彼は私の手首を引き寄せ、その内側に顔を埋めた。
涙で湿った熱い吐息が、肌に直接吹きかかる。
「でも……気が狂いそうだ。貴女が誰かのモノになるなんて……!」
私は、あえて彼を拒まなかった。
空いている方の手で、彼の乱れた髪を優しく梳く。
それは、飼い犬を躾ける主人の手つきだった。
「ザック」
甘く、耳元で囁くように。
「たとえ誰の妻になろうとも……わたくしの心は、いつもあなたと共にあります」
その言葉は、彼にとって甘美な猛毒だ。
決して手に入らないが、突き放されもしない。一生、彼を縛り付ける呪いの言葉。
「……ッ!」
ザックは私を見つめた。
理性の糸がブツリと切れる音がした。
彼は立ち上がり、衝動のままに腕を伸ばす。
そして――私を、強く抱きしめた。
「ロゼノア様……! ああ、ロゼノア様……ッ!」
逃れられないほど力強い腕。
革と鉄、そして荒っぽい男の匂いが私を包み込む。
ドレス越しに、彼の隆起した筋肉と、熱く昂ぶった身体の感触が伝わってきた。
私は抵抗しなかった。
ただ静かに、ザックの首に手を回し、背伸びをして頬に口づけた。
(可哀想な子……)
ザックの腕から、力が抜けた。
彼は、ゆっくりと、名残惜しそうに身を離し、頬に手を当てた。私の唇が頬に触れたことが信じられない、という目で見つめている。
「……ロゼノア様」
彼は一歩下がり、再び深く平伏した。
「俺は影になります。……光り輝く貴女の足元に広がる、もっとも濃い影に」
「……」
「貴女の敵を喰らい、汚れ仕事を全て引き受ける。……生涯、貴女のためだけに生きて、死にます」
誓いの言葉は、愛の告白よりも重く、熱かった。
(……この男は一生、私のために地獄を這う覚悟を決めたのね)
*
ザックと別れ、路地を出ると――
日は落ち、あたりはとっぷりと濃厚な闇に包まれていた。
その物陰に、見覚えのある黒髪の騎士が立っていた。
「ユリウス?」
「……ロゼノア様。護衛も付けず下町に来られるのは危険です」
「あら、心配してくれたの?」
私は、少しだけ笑った。
「貴女をお守りするのが、私の仕事ですから」
ユリウスの声は、いつも通り冷たく、生真面目だった。
だが、その視線は粘りつくように私から離れない。
「……いよいよ、婚礼ですね」
ユリウスが、低く言った。
「ええ」
私は、頷いた。
「……おめでとうございます」
その言葉は、静かだが、わずかに震えていた。
祝福の言葉なのに、まるで告別のような響き。
「ありがとう、ユリウス」
私は、彼の漆黒の瞳を見つめた。
ユリウスは、私を見つめ返している。
その瞳の奥には、騎士の規律で必死に抑え込んだ、焼けつくような劣情が揺らめいていた。
もし今、私が「抱いて」と言えば、この男は全てを捨てて私を犯すだろうか。
沈黙。
夜風が二人の間を通り抜ける。
私の香りが、彼の鼻先を掠めたのだろうか。ユリウスの喉仏がゴクリと動いた。
そしてユリウスが、一歩、私に近づいた。
右手が、わずかに動く。
私に触れようとしたのか、それとも引き止めようとしたのか。
その指先は、私の頬に触れるか触れないかの距離で震えている。
だが、そこには永遠に越えられない身分の壁があった。
ユリウスは、血が滲むほど拳を握りしめ、自分自身を殺すようにそっと手を下ろした。
「……失礼いたしました」
ユリウスの声は、酷く掠れていた。
「私は、これからも騎士として、貴女と陛下をお守りいたします。……この命ある限り」
「ええ、頼りにしているわ」
私は、そう言って、ユリウスの傍を通り過ぎた。
その時。
ドクン――。
(ユリウス……)
胸の奥が、わずかに疼いた。
(……気のせいよ)
私は首を振り、その疼きを無視した。
私に愛など必要ない。必要なのは、忠誠と支配だけだ。
後ろを歩くマリエが、そっと私の肩にショールをかけてくれた。
「お体が冷えます、ロゼノア様」
「ありがとう、マリエ」
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