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第3章

第45話

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 何かが頬を突っついている。ちょんちょんと小鳥が啄む様に優しく、そして規則正しく突かれている。おそらく誰かの指なのだろう。
 エルは段々と意識が覚醒し始めると、それに併せて頭の痛みを感じた。覚えのある痛みだ。そう、これは……二日酔いの痛みだ。
 急速に意識が覚醒していく。
 そうだ、昨夜はアリーシャ達、赤虎族のパーティと夕食を共にし、酒が弱いと断ったのに無理やり飲まされて潰れてしまったのだ。
 この頬をリズムよく押してくる指は誰であろうか……。
 はっとしてエルが飛び起きると、目の前には悪戯に成功した時の様な良い笑顔・・・・・・をした短髪の赤髪の女性、アリーシャがベッドの傍らに座っていた。

「おはよう、エル。よく寝たわね。もう昼近いわよ」
「おはようございます……。ところで、ここは何処ですか?」

 痛む頭を押さえながら覚束ない状態で質問すると、アリーシャがくすくす笑いながら答えてくれる。

「覚えてないの? ここは昨日あたし達と宴会した宿、白銀の嶺亭の空き部屋よ」

 エルは顔を横に振り、懸命に痛みを追い払いながら昨夜のでき事を呼び起こした。
 昨日は、迷宮から帰還した後にアリーシャ達が宿泊している上位冒険者専用の宿、白銀の嶺亭で夕食をご馳走してもらったのだ。

「その様子が大分きつそうね。待ってて、今宿の人から酔い覚まし貰ってくるから」
「ありがとうございます」
「ふふっ、いいのよ。元はと言えばあたし達が調子に乗って飲ませたのがいけないんだから」

 アリーシャはウィンクすると、軽く手を振りながら部屋を出て行った。
 エルはガンガンと鈍痛引切り無しに起きるのに顔を顰めながら、アリーシャが薬を持って来てくれるのを待つ間に、昨晩の記憶を呼び覚ますことにした。
 
 ディムやカーン、そしてアリーシャ達と宴をしたのは、エルの宿泊料の20倍以上する高級宿、白銀の嶺亭であった。上位冒険者専用の宿であり、200年以上も続く老舗の宿屋だそうだ。王侯貴族が滞在しても何ら問題ない程に設えられた内装に、調度品やインテリアなども品のあるものばかり飾られていた。店員達も教育が行き届いており、礼節だけでなく細やかな気配りもできる、高級宿の看板に偽りなしの実にお持て成しの行き届いた宿であった。
 出てくる料理も50階層以降の食材がメインであり、エルが食べた事のない得も言われぬ絶品ばかりだった。つい美味しい食事に夢中になり過ぎて、碌に話を聞かずおかしな返答をしたのは失敗であった。子供染みた失態で汗顔の至りであったが、アリーシャ達は弟を接する様な物柔らかな態度になったので、お互いの仲を深めるという意味では良かったのかもしれない。ただし、こうして翌日になって思い出してみると、身悶えしそうな恥ずかしさであったが……。

 それから、お互いの自己紹介をした。
 エルがしがない寒村の農家の三男であること。幼少の砌に旅の冒険者から聞いた武神流の英雄譚に憧れ、自分も英雄と同じ偉業を成したいと志したこと。冒険者から簡単な技の手解きを受け、迷宮都市アドリウムを紹介されたこと。それから10年近くの時を修行と旅費稼ぎに勤しんだこと。そして、つい4カ月ほど前に念願叶ってこの都市に訪れたことなど、問われるままにエルの事情を話していた。
 エルの氏素性や冒険者への志望動機などは、若年の者が冒険者になる理由からそう外れたものではなく、ごく有り触れた話であったが、アリーシャ達には好意的に受け取られた。おそらく10年もの日々を研鑽を積んできたことが良かったのだろう。

 彼女達、赤虎族は力を尊ぶ種族である。もちろん力だけでなく戦士としての礼節も求められるが、力ある者は尊敬の対象になるそうだ。己を高めるために努力することは彼女達の間では美徳であり、童子の頃から努力し続けてきたエルに悪い印象を持たなかったのだ。加えて、4か月という短い期間にも拘らず、3つ星の冒険者に駆け上がったエルは、将来が有望である事も好意的に受け入れられた原因に違いない。
 それから、彼女達の事情も聞くことができた。彼女達全員はイルク村という同じ村の出身のようだ。アリーシャはその村の長の末子、6女であり、かつて最上位冒険者であった父を超えるためにこの都市(アドリウム)に訪れたそうである。ディムにカーン、そして後から宴に加わったパーティの回復役イーニャは、アリーシャと年も近く皆自分を鍛え高めるために同行してきたのだそうだ。赤虎族は力を信望する種族だけあって冒険者になることは珍しくなく、力を付け名声を得て故郷に帰還することが、村での地位や発言力を得ることになるらしい。
 普段なら52階層付近を探索しているのだが、今回は継戦の要であるイーニャ、赤髪の長髪を真直ぐに下ろした長身の魔法使いで柔和な笑顔と豊満な肉体が印象的な女性が、大地母神の神殿に用があったため安全を取って30階層付近での探索を行っていたそうだ。本来なら階層も異なり、エルがアリーシャ達の戦闘に興奮して要らぬ誤解を与えねば知り合うこともなかった関係であるが、実に縁とは不思議なものである。
 だが話してみると、彼女達は其々が優秀な戦士であり、闘いが大好きなエルとは非常に気が合った。たちまち意気投合し、武術の話や魔物の話で盛り上がったのだ。お互いを判り合うと段々と気安くなり、茶化しあったり軽い悪戯をしたりと、赤虎族の戦士達は実に話し易くユーモアでエルもその輪に溶け込み笑いあった。
 まあ、終いにはアリーシャに無理だと断ったのに酒を飲まされて轟沈し、今に至るというわけだが……。やはり、酒は自分には合わない。将来はもしかしたら耐性が付くのかもしれないが、おそらくは生来からの下戸なのだろうと痛む頭を押さえた。

「ほらっ、エル持ってきたわよ。これを飲めばもう大丈夫よ」

 顔を上げると、アリーシャが心配そうに見つめながら酔い覚ましの薬と水の入ったコップを渡してくる。
 エルは一気に薬を口に入れると水と共に流し込んだ。すると、立ち所に痛みが和らぎ頭が澄んでくる。
 この酔い覚ましの薬は、実は冒険者用の毒消しを一般用に薄めたものである。酔いも突き詰めれば状態異常の一種なので、魔物から受ける毒を即効性で回復できる毒消し薬で治療できるというわけだ。
 すっかり頭痛が消え晴々とした顔になると、エルはアリーシャに頭を下げた。

「ありがとうございます。お陰ですっかりよくなりました」
「よかった。やっぱりエルには元気な姿が似合うね」 
 
 そう言って快活そうな笑顔で微笑む。今日は軽鎧を着ておらず簡単な短衣を身に付けているだけで、服からすらりとした瑞々しい肢体を覗かせ、胸はその存在を主張するかのように服を押し上げている。非常に肉感的であるが蠱惑的な感は一切なく、日焼けした肌は実に健康的で生命力に満ち溢れていた。野生の美しい獣に出会ったらとしたら同じ様な印象を抱くのではないかと、エルは漠然とそんな考えが浮かんだ 。

「それで、今日はどうする? 昨日の話に出たように、あたし達と協会の修行場で訓練する?」 

 エルには酒のせいで記憶になかったが、どうやら昨日一緒に訓練する話が出たらしい。アリーシャ達は皆優れた戦士であり、夫々が別の神を辛抱する他流派である。色々と学ぶことは多いだろう。エルは笑顔で快諾した。

「そうですね、アリーシャ達がよければ一緒に修行しませんか?」
「よしっ、それじゃあみんなで訓練しよう」

 アリーシャは楽しそうに笑いながらエルの頭を撫でた。どうにも弟に接する様な扱いである。エルの視線に気づいたのか、アリーシャはエルの頭を撫で繰り回しながら疑問に答えた。

「あたし末っ子だから弟が欲しかったの。エルみたいな弟ができたらいいなーて、ずっと思ってたの」

 アリーシャの頭を撫でる手は力は強いがけして乱暴という訳ではなく、家族にするような親愛の情が篭っていた。エルとしても不快ではないので、アリーシャの気の済むまでやらせておいた。
 やがて満足したアリーシャが手を止めると、顔一杯に満面の笑みを浮かべエルの手を取った。

「もうお昼だし、昼食を食べてから訓練に行きましょうか。エルも朝飯を食べてないからお腹空いたでしょう?」
「もうお腹ぺこぺこですよ。お腹が空いていたら修行にも身が入らないので、お昼食べてからいきましょう」
 
 頭痛が治まると突然お腹が空腹を訴え鳴り出したのだ。なんとも我ながら現金な体である。
 アリーシャは笑顔のまま頷くと、エルを引っ張った。赤虎族がそうなのかアリーシャだからなのかわからないが、どうも気に入った相手とは接触するのを好むようだ。恋人的な甘いものではなく弟と接する風なのが余計そうさせるのかもしれないが、エルに触れるのが嬉しいらしく非常に楽しそうだ。エルとしては年上の美人に撫でられたり触られたこともないので正直どぎまぎしたが、姉が弟を可愛がっているのだと言い聞かせて何とか平静を保つように努力した。
 その後、エルは急かされる様にベッドから出て靴を履くと、アリーシャと共に部屋を後にし一階の食堂に降りるのだった。

 
    
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