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第一章
香りのない朝
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目が覚めたのは、いつもより少し早い時間だった。
外はまだ薄暗く、窓の隙間から入る光が天井を淡く照らしていた。
布団の中はまだ温かい。しばらくそのまま目を開けていたが、特に何も考えることもなく、ただ天井の模様を眺めていた。
やがて、時計の針が一定のリズムで進む音が聞こえてきて、ようやく体を起こす気になった。
キッチンに向かい、いつものようにコーヒーを淹れる。
豆を挽き、お湯を注ぎ、立ちのぼる湯気を見る。
マグカップを持ち上げて鼻に近づける。
何も香らなかった。
その瞬間、自分の動作が一瞬止まったことに気づいた。
鼻が詰まっているわけではない。風邪の症状もない。
もう一度、湯気を吸い込む。目を閉じて、集中する。
だが、やはり何も感じない。
それでも、特に慌てることはなかった。
たとえば豆の種類が変わったとか、鼻の調子がたまたま悪いとか、
そういう一時的な理由で説明できる気がした。
ただ、それでも、確かに「何かがおかしい」とは思っていた。
食パンをトースターに入れ、焼き上がった香ばしさを確認しようとする。
ない。
食べてみる。味も、薄い。食感はあるが、ただの熱いかたまりのようだった。
時間になったので、外に出た。春の風が頬をなでたが、そこに感じる匂いもまた、どこか薄れていた。
駅へと向かう途中、パン屋の前を通る。
毎朝、焼きたての甘い香りが漂っていたその場所も、今日は無臭だった。
少しだけ立ち止まって、扉の前に立つ。中では確かにパンを焼いている。
けれど、香りがしない。鼻を近づけても、変わらない。
店員は変わらず接客を続けている。客も、普通に並んでいる。
誰も気にしていない。
自分の感覚だけが壊れたのか、それとも誰もがすでに順応してしまったのか。
その違いがわからなかった。
電車に乗り込む。混雑した車内。
以前なら、誰かの香水や汗の匂いが気になったものだ。
今は何も感じない。
つり革を握る手に力が入る。
何かが、すでに戻らない場所へ行ってしまった気がしていた。
スマートフォンで「匂い 感じない 病気」と検索する。
出てきたのは数件のニュース記事。
《一部地域で嗅覚障害の症例が急増》《ウイルス感染の可能性》といった見出しが並ぶ。
いずれも短い文章で、詳細は不明とされていた。
同僚との会話の中でも違和感は続く。
「最近、パン屋の匂いしなくない?」と聞いてみた。
「え? 前からそんなにしてたっけ?」と返された。
どうやら、彼らは最初から“香り”というものに関心がなかったらしい。
もしくは、もうずいぶん前から失われていたのかもしれない。
自分だけが今、それに気づいたのだとしたら、それは何なのだろう。
遅れて届いた知らせのようなものか、
あるいは逆に、もうすぐ失うという前兆なのか。
夜、家に帰ってから、ノートを取り出す。
書き慣れていない万年筆で、静かに文字を綴る。
「今朝、コーヒーの香りがしなかった。パンの香ばしさも、外の空気のにおいも。周囲の人間は気にしていない。あるいは気づいていない。何が正しいのかわからない。ただ、確実に何かが抜け落ちている。」
文字を書いている手の下にある紙の感触が、かすかに心をつなぎとめていた。
それが、まだ「自分がここにいる」と思わせる最後の手がかりのようだった。
外はまだ薄暗く、窓の隙間から入る光が天井を淡く照らしていた。
布団の中はまだ温かい。しばらくそのまま目を開けていたが、特に何も考えることもなく、ただ天井の模様を眺めていた。
やがて、時計の針が一定のリズムで進む音が聞こえてきて、ようやく体を起こす気になった。
キッチンに向かい、いつものようにコーヒーを淹れる。
豆を挽き、お湯を注ぎ、立ちのぼる湯気を見る。
マグカップを持ち上げて鼻に近づける。
何も香らなかった。
その瞬間、自分の動作が一瞬止まったことに気づいた。
鼻が詰まっているわけではない。風邪の症状もない。
もう一度、湯気を吸い込む。目を閉じて、集中する。
だが、やはり何も感じない。
それでも、特に慌てることはなかった。
たとえば豆の種類が変わったとか、鼻の調子がたまたま悪いとか、
そういう一時的な理由で説明できる気がした。
ただ、それでも、確かに「何かがおかしい」とは思っていた。
食パンをトースターに入れ、焼き上がった香ばしさを確認しようとする。
ない。
食べてみる。味も、薄い。食感はあるが、ただの熱いかたまりのようだった。
時間になったので、外に出た。春の風が頬をなでたが、そこに感じる匂いもまた、どこか薄れていた。
駅へと向かう途中、パン屋の前を通る。
毎朝、焼きたての甘い香りが漂っていたその場所も、今日は無臭だった。
少しだけ立ち止まって、扉の前に立つ。中では確かにパンを焼いている。
けれど、香りがしない。鼻を近づけても、変わらない。
店員は変わらず接客を続けている。客も、普通に並んでいる。
誰も気にしていない。
自分の感覚だけが壊れたのか、それとも誰もがすでに順応してしまったのか。
その違いがわからなかった。
電車に乗り込む。混雑した車内。
以前なら、誰かの香水や汗の匂いが気になったものだ。
今は何も感じない。
つり革を握る手に力が入る。
何かが、すでに戻らない場所へ行ってしまった気がしていた。
スマートフォンで「匂い 感じない 病気」と検索する。
出てきたのは数件のニュース記事。
《一部地域で嗅覚障害の症例が急増》《ウイルス感染の可能性》といった見出しが並ぶ。
いずれも短い文章で、詳細は不明とされていた。
同僚との会話の中でも違和感は続く。
「最近、パン屋の匂いしなくない?」と聞いてみた。
「え? 前からそんなにしてたっけ?」と返された。
どうやら、彼らは最初から“香り”というものに関心がなかったらしい。
もしくは、もうずいぶん前から失われていたのかもしれない。
自分だけが今、それに気づいたのだとしたら、それは何なのだろう。
遅れて届いた知らせのようなものか、
あるいは逆に、もうすぐ失うという前兆なのか。
夜、家に帰ってから、ノートを取り出す。
書き慣れていない万年筆で、静かに文字を綴る。
「今朝、コーヒーの香りがしなかった。パンの香ばしさも、外の空気のにおいも。周囲の人間は気にしていない。あるいは気づいていない。何が正しいのかわからない。ただ、確実に何かが抜け落ちている。」
文字を書いている手の下にある紙の感触が、かすかに心をつなぎとめていた。
それが、まだ「自分がここにいる」と思わせる最後の手がかりのようだった。
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