無感の街

立志源

文字の大きさ
1 / 5
第一章

香りのない朝

しおりを挟む
目が覚めたのは、いつもより少し早い時間だった。
外はまだ薄暗く、窓の隙間から入る光が天井を淡く照らしていた。

布団の中はまだ温かい。しばらくそのまま目を開けていたが、特に何も考えることもなく、ただ天井の模様を眺めていた。
やがて、時計の針が一定のリズムで進む音が聞こえてきて、ようやく体を起こす気になった。

キッチンに向かい、いつものようにコーヒーを淹れる。
豆を挽き、お湯を注ぎ、立ちのぼる湯気を見る。
マグカップを持ち上げて鼻に近づける。

何も香らなかった。

その瞬間、自分の動作が一瞬止まったことに気づいた。

鼻が詰まっているわけではない。風邪の症状もない。
もう一度、湯気を吸い込む。目を閉じて、集中する。
だが、やはり何も感じない。

それでも、特に慌てることはなかった。
たとえば豆の種類が変わったとか、鼻の調子がたまたま悪いとか、
そういう一時的な理由で説明できる気がした。

ただ、それでも、確かに「何かがおかしい」とは思っていた。

食パンをトースターに入れ、焼き上がった香ばしさを確認しようとする。
ない。
食べてみる。味も、薄い。食感はあるが、ただの熱いかたまりのようだった。

時間になったので、外に出た。春の風が頬をなでたが、そこに感じる匂いもまた、どこか薄れていた。
駅へと向かう途中、パン屋の前を通る。
毎朝、焼きたての甘い香りが漂っていたその場所も、今日は無臭だった。

少しだけ立ち止まって、扉の前に立つ。中では確かにパンを焼いている。
けれど、香りがしない。鼻を近づけても、変わらない。
店員は変わらず接客を続けている。客も、普通に並んでいる。

誰も気にしていない。
自分の感覚だけが壊れたのか、それとも誰もがすでに順応してしまったのか。
その違いがわからなかった。

電車に乗り込む。混雑した車内。
以前なら、誰かの香水や汗の匂いが気になったものだ。
今は何も感じない。

つり革を握る手に力が入る。
何かが、すでに戻らない場所へ行ってしまった気がしていた。

スマートフォンで「匂い 感じない 病気」と検索する。
出てきたのは数件のニュース記事。
《一部地域で嗅覚障害の症例が急増》《ウイルス感染の可能性》といった見出しが並ぶ。
いずれも短い文章で、詳細は不明とされていた。

同僚との会話の中でも違和感は続く。

「最近、パン屋の匂いしなくない?」と聞いてみた。
「え? 前からそんなにしてたっけ?」と返された。

どうやら、彼らは最初から“香り”というものに関心がなかったらしい。
もしくは、もうずいぶん前から失われていたのかもしれない。

自分だけが今、それに気づいたのだとしたら、それは何なのだろう。
遅れて届いた知らせのようなものか、
あるいは逆に、もうすぐ失うという前兆なのか。

夜、家に帰ってから、ノートを取り出す。
書き慣れていない万年筆で、静かに文字を綴る。

「今朝、コーヒーの香りがしなかった。パンの香ばしさも、外の空気のにおいも。周囲の人間は気にしていない。あるいは気づいていない。何が正しいのかわからない。ただ、確実に何かが抜け落ちている。」
文字を書いている手の下にある紙の感触が、かすかに心をつなぎとめていた。
それが、まだ「自分がここにいる」と思わせる最後の手がかりのようだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

処理中です...