無感の街

立志源

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第二章

味と音のない日々

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朝、目覚める。昨日と変わらない静かな部屋。
起き上がり、キッチンへ向かう。

コーヒーを淹れる。香りはない。
それはもう、当然のこととして受け入れていた。

トースターに食パンを入れる。焼きあがる音は聞こえない。
ぱち、と弾ける小さな音があったはずなのに、それがないことにも、すぐには気づかなかった。

焼きあがったパンを口に運ぶ。
昨日と同じように、味はしない。

食感だけがある。
歯ごたえと、熱さ。
だが、それ以上のものはない。

昨日よりもさらに味が薄れた気がした。
塩気も甘みも苦味も、区別できない。
舌の上を転がるだけで、それが何かを判断する術がない。

水を飲んでみる。何も感じない。
口の中が濡れる、それだけだった。

食事という行為が、次第に“義務”に近づいていくのを感じる。
腹が膨れるという感覚だけが、唯一の指標になりつつあった。

---

会社に向かう途中、騒音が少ないことに気づく。
車のエンジン音も、人々の足音も、どこか薄れている。

交差点の信号機が切り替わるが、その電子音が聞こえない。
耳に空気が流れているだけのような、奇妙な静けさ。

誰かが話している。口が動いている。
だが、その声は遠くの水中から響いているように、聞き取れない。

会社に着いても、周囲の声がまともに入ってこない。
会議室で何かを話しているのがわかるが、
内容はすべて“無音”のまま、頭の中に残らない。

スマートフォンを見て、字幕でやりとりするようになる。
同僚もまた、やや遅れて文字で返してきた。
「聞こえづらいんだよね、最近」
「音が割れてるっていうか、響かないっていうか」

やはり、自分だけではない。

少しずつ、だが確実に、
この世界の音は失われつつある。

---

昼食はコンビニで買った弁当。
何を食べても、味がない。
チキン南蛮も、ポテトサラダも、水と変わらない。

ただ違うのは、歯ごたえ。
柔らかいか、固いか。冷たいか、温かいか。

それだけで食事を終える。
満腹かどうかも、もはやよくわからなかった。

---

その夜、家に帰り、テレビをつける。
映像は流れる。誰かが喋っている。
だが、声は聞こえない。

字幕を読む。ニュースキャスターは「新型ウイルスによる感覚障害の可能性」と言っていた。

「嗅覚、味覚、聴覚。順を追って消失する症例が確認されている。
現在、原因は不明。感染経路も確定しておらず、ワクチンは——」

途中で、字幕が乱れた。

そのまま画面を消す。
音のない部屋に戻る。

耳を澄ませても、何も聞こえない。
自分の呼吸の音すら、かすかだった。

---

日記を開く。
ペンの走る音は、かすかに残っていた。

「味がない。音も聞こえない。会話は文字だけになりつつある。不自由ではあるけれど、それ以上に、現実が平坦になっていく感覚がある。食べても、話しても、何も起きていないような気がする。」
文字を書き終えたあと、
紙を指でなぞる。
わずかに、インクの盛り上がりを感じる。

まだ触れる感覚がある。
それだけが、今日の収穫だった。
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