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第一章 伯爵と男娼、出会う
第一話「裏通りから野良猫を追いかけて」
しおりを挟む十九世紀を過ぎた頃。一人の女王に統治されているこの帝国は経済の発展が大きく進み、今まさに絶頂期を迎えようとしていた。
しかし国が潤い華やかになる一方で、表通りを外れた裏通りではその光に照らされた帝国の陰が深まりを見せてゆく。
彼もまた、その陰に囚われた一人であった。
「今日もよかったぞ。――また来る」
その言葉と共に自分の手の上に乗せられた重みのある布袋を、ノアは黙って受け取る。
そうしてゴツゴツとした、これ見よがしに大きな宝石の指輪をいくつもはめた手が離れてゆくのを見て、相変わらず趣味が悪いと心の中でぼやいた。
「――いつもありがとうございます」
しかしそんな思いは少しも顔に出すことなく、ノアは愛想よく笑う。
その笑顔に気分を良くしたらしい悪趣味な指輪の持ち主は満足げに笑い、表通りへと踵を返した。初夏の朝日を正面から受けるその姿は、逆光でも分かるほどに肥えた腹を揺らしながら帰って行く。
「…悪趣味な肥満野郎が。あー、気持ち悪い。さっさと身体洗ってこよう」
ノアは踵を返しながら、受け取った布袋を開けて中身を確認する。贅沢せずに一般的な感覚で生活をすれば一週間は生きていけそうな額の硬貨が、そこには顔を覗かせていた。
「…いつまで続けられるのかね、このシゴト」
同じ仕事仲間の間ではノアの年頃は盛りを終え、客が減っていく年齢とされている。それでもノアが未だ盛りの年頃と同じように客を取っていられるのは、彼の恵まれた顔立ちのお陰でもあった。
「そろそろ身の振り方、考えないとな」
そうして次の客の予定を思い出しながら、ノアが一歩踏み出したときだった。
「みゃお…」
「ん?」
軽い衝撃を感じて視線を下ろせば、じゃれるようにノアの足元にすり寄る野良猫が一匹。
「…なんだ、オマエ。エサでもたかりに来たのか?」
「みゃーお」
「生憎と食いもんなんて持ってないぞ。他を当たれ」
まるでその言葉をきちんと聞いているかのように、真っ直ぐにノアを見つめる野良猫。
やがて、フイっと顔を逸らしたかと覚えば。
「っ、おい…!」
野良猫は、一直線に表通りに向かって走り出していた。そして運悪く、ガラガラと馬車が石畳の上を走る音が響き始めていて。
「くそっ。轢かれたいのかよっ」
ノアはその場に硬貨の入った布袋を放り、躊躇いなく野良猫を追って走り出した。
「待て…っ」
表通りから差し込む太陽が眩しい。
ノアは表通りに出る直前に勢いよく石畳を蹴り、光の中へ消えてゆく野良猫の姿に手を伸ばした。
――ガラガラガラガラ!
受け身を取って転がったノアのすぐ横を、馬車の大きな車輪が通過してゆく。
「危な…っ」
あと一歩遅ければ、馬車に轢かれた無残な姿を表通りに晒すところだった。
一命を取り留めたことへの安堵が大きく、ノアには擦りむいた手足の痛みを感じる余裕が全くなかった。
「オマエ、もうすぐ轢かれるところだったんだぞ?分かってんのか?」
「…みぃ」
腕の中に収まっている野良猫をそう嗜めれば、まるで言葉を理解しているかのような返事が返ってくる。
「…ホントに分かってんのか?」
「みゃあ!」
「あ!おい!」
助けられた恩を返すことなく、野良猫は無情にもノアの腕の中から飛び出す。
そうしてそのまま裏通りに続く路地に向かって何事もなかったかのように走ってゆくその後ろ姿に、ノアは貧乏くじを引いたような気分になっていた。
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