二度と敷居を跨ぐな。二度と私の前に姿を見せるな!

るーしあ

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ゼフェルナ王国の王都。
 
 かつて「幸福を招く館」と呼ばれたヴォルティグ公爵邸は、今や近隣の住民から「呪われた廃屋」のように囁かれていた。
 
 朝、メリシアが目覚めて最初に行うのは、鏡を見て自らの顔を確認することではなく、鼻を覆い、吐き気を催すような館の空気に毒づくことだった。
 
「……っ! またよ、またこの嫌な臭い! 掃除係は何をやっているの!?」
 
 メリシアはシルクの寝具を跳ね除け、枕元に置いてあった香水の小瓶を掴んだ。
 
 王都で今、最も高価だとされる『太陽の雫』という名の香水だ。
 
 それを自分の体と、部屋の四隅にこれでもかというほど振り撒く。
 
 本来であれば、濃厚なジャスミンとバニラの甘い香りが部屋を満たすはずだった。
 
 しかし、その芳香が空気中に漂う不気味な「淀み」と混ざり合った瞬間、それは芳香とは呼べない、悍ましい異臭へと変貌した。
 
「……。うぇっ、ひどい……。何よこれ、腐った肉の上に砂糖をぶちまけたような臭いがするわ!」
 
 メリシアは自分の腕を必死に擦り、立ち上る臭いを消そうとした。
 
 だが、洗っても洗っても、その異臭は肌の奥にこびりついているかのように離れない。
 
 彼女が鏡を覗き込むと、そこにはかつての「王都一の美女」の面影を失いつつある、土気色の肌をした女が映っていた。
 
 目の下には深い隈が刻まれ、自慢の赤い髪は艶を失ってパサついている。
 
「どうして……。どうしてあたくしがこんな目に遭わなきゃいけないの? あの地味で無能なフィラルナがいなくなったんだから、あたくしはもっと幸せになれるはずだったのに!」
 
 彼女は鏡に向かってブラシを投げつけた。
 
 ガシャリ、と嫌な音を立てて鏡が割れる。
 
 その破片からは、鏡の裏に溜まっていた黒い黴の臭いが溢れ出した。
 
 
 一方、食堂に向かったメリシアを待っていたのは、憔悴しきったヴォルティグだった。
 
 彼は血走った目で、運ばれてきたスープを睨みつけている。
 
「……。ヴォルティグ様、おはようございます。あのお願いがあるんですけれど……」
 
「寄るな」
 
 ヴォルティグの低く、刺すような声が食堂に響いた。
 
「え……?」
 
「お前が来ると、その下品な香水の臭いで吐き気が増す。向こうへ行けと言っているんだ」
 
「下品!? あたくし、あなたのために最高級の香水を選んでいるんですのよ!?」
 
「最高級だろうが何だろうが、今のこの館では毒にしか聞こえん! ……。いいか、お前がここへ来てからというもの、この家はめちゃくちゃだ」
 
 ヴォルティグは乱暴にスプーンを置き、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
 
 彼もまた、重度の不眠と体調不良に陥っていた。
 
 フィラルナがいた頃は、どんなに激務が続いても、家に帰れば不思議と心が安らぎ、翌朝には活力が漲っていた。
 
 彼はそれを、自分の若さと才能の賜物だと思い込んでいた。
 
 だが、彼女がいなくなった瞬間に、自分を支えていた基盤が砂の城のように崩れ去ったのだ。
 
「フィラルナがいれば……あいつが、この嫌な臭いをどうにかしていたはずだ。あいつは何も言わずに、ただ静かに部屋の空気を整えていた……」
 
「なんですって!? まだあの女のことを言っているの!? あんな、香りもしない、ただの置物みたいな女!」
 
「置物だと? ……。ふん、お前という『動く公害』よりは、よほど価値があったようだな」
 
 ヴォルティグの言葉に、メリシアの顔が怒りで真っ赤に染まった。
 
「公害!? あたくしに向かってなんてことを! あんな無能な女、今頃どこかの森で凍死しているに決まっていますわ!」
 
「いいや、ガルザスの報告を聞いていないのか。あいつはアスティルで……あの氷の公爵の隣で、優雅に笑っているそうだぞ」
 
「そんなの嘘よ! 何かの間違いに決まっているわ! あの不気味なゲザラエル公爵が、あんな女を側におくはずがない!」
 
 メリシアの叫びは、もはや悲鳴に近かった。
 
 彼女にとって、フィラルナは自分を引き立てるための「背景」でなければならなかった。
 
 自分より劣っているはずの存在が、自分よりも遥かに上の地位にある男に守られ、幸せを享受している。
 
 その事実は、メリシアの矮小な自尊心をズタズタに引き裂いた。
 
「とにかく! あたくし、王都で一番の調香師、ガザールの店へ行ってきますわ! 彼なら、この館の呪いなんて一瞬で消してくれるはずよ!」
 
 メリシアは逃げるように食堂を飛び出し、馬車に飛び乗った。
 
 
 王都随一の目抜き通りにある、豪華な調香店。
 
 メリシアは強引に店主のガザールを呼び出し、金貨の入った袋を叩きつけた。
 
「ガザール、最高の香水を用意なさい! 公爵邸の空気を一変させるような、そんな至高の香りを!」
 
 老練な調香師であるガザールは、差し出された金貨には目もくれず、メリシアの周囲を漂う「気配」に眉をひそめた。
 
「……。失礼ながら、メリシア様。今の貴女様と、貴女様が持ち込んでいるその館の『澱み』は、香水で解決できる段階を過ぎております」
 
「なんですって? あたくしに逆らう気!?」
 
「いいえ、忠告です。香水とは、土壌が整っていて初めて美しく咲く花のようなもの。今のヴォルティグ邸は、土が腐り、根が枯れ果てています。そこにどれほど高価な香料を注いでも、それは腐敗を加速させる肥料にしかなりません」
 
 ガザールは静かに首を振った。
 
「……。かつて、あの館には素晴らしい『均衡』がありました。目には見えず、鼻にも届かぬほど繊細でありながら、あらゆる悪を退ける神聖な調和が。それを失った今、私にできることは何もございません」
 
「……っ。どいつもこいつも、フィラルナ、フィラルナって……!」
 
 メリシアはガザールの顔を扇子で打ち据えようとしたが、その前に激しい目眩に襲われ、その場に頽れた。
 
 彼女の鼻腔を突くのは、もはや香水の匂いではなく、自らの内側から溢れ出す、嫉妬と焦燥のどす黒い臭いだけだった。
 
 
 * * *
 
 
 その頃、アスティル帝国のシュネーシュロス城。
 
 フィラルナは、ゲザラエルのために新しい「冬の目覚め」という香りを調合していた。
 
 工房の窓からは、透き通るような青空と、ダイヤモンドダストが舞う美しい景色が見える。
 
「……。お嬢様、何だかとても楽しそうですわね」
 
 キシャラが、用意した茶葉を蒸らしながら微笑む。
 
「ええ。だって、アスティルの植物たちは、寒さに耐えている分、とても純粋で力強い香りを秘めているんですもの。それを見つけるのが、楽しくて仕方ないの」
 
 フィラルナの指先が、微かに光を帯びる。
 
 彼女が選んだのは、雪の下で静かに眠っていた氷晶苔ひょうしょうごけと、冷気にさらされて香りを凝縮させた銀嶺杉ぎんれいすぎの葉。
 
 それを乳鉢で丁寧に合わせると、部屋の中には、凍てつく冬の厳しさの後に訪れる、春の予感のような、清廉な香りが広がった。
 
 コンコン、と扉が叩かれる。
 
「入るぞ、フィラルナ」
 
 ゲザラエルが、いつになく穏やかな表情で姿を現した。
 
「閣下! ちょうど今、新しい香りが完成したところです」
 
 フィラルナが小瓶を差し出すと、ゲザラエルはそれを手に取り、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 
「……。ああ、これは……。私の心が、洗われていくようだ」
 
 ゲザラエルは目を閉じ、その香りを堪能した。
 
「フィラルナ。お前の香りは、ただ心地よいだけではない。私の魂の汚れを、一つずつ丁寧に剥がしてくれるような……そんな、慈しみを感じる」
 
「閣下……」
 
「お前を離したヴォルティグとかいう男は、よほどの愚か者だったのだな。……いや、その愚かさに感謝すべきか。おかげで、私はこうしてお前と出会えたのだから」
 
 ゲザラエルがフィラルナの手に、自分の大きな手を重ねた。
 
 その掌は温かく、フィラルナの心を優しく包み込む。
 
「私は、二度とお前を離さない。この香りが、この国から絶えることはない」
 
「はい。私も、閣下の側にいつまでもいたい……。そう、願っています」
 
 二人の間に流れる空気は、濁りのないクリスタルのように輝いていた。
 
 
 その光の裏側で。
 
 ゼフェルナのメリシアは、もはや隠しきれない破滅の予感に震えながら、夜の闇に沈んでいた。
 
 彼女がどれほど足掻こうとも、失われた「調和」は二度と戻らない。
 
 自らの欲望によって空気を汚した者たちに、救いの香りが届くことは、もう二度となかったのである。

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